1 蒸し暑い夜であっても
蒸し暑い夜であっても、音楽は人々を引き寄せる。
○
いつもどおりのライブが終わり、ありふれた解散話がはじまった。予期していたメンバーもいれば、晴天の霹靂、寝耳に水であったメンバーもいる。
「アンタが夢を語ったんだろう? 誘われて、アンタの情熱にあてられて本気になったっていうのに!」
控え室で、麻子は叫んだ。
告げられる限界を、受けいれることはできなかった。
ひとりだけ、いつものようにステージ衣装を脱ぎ捨てたリーダーが、麻子のほうへ振り向いた。
「いつまでも夢を追いかけていたって、仕方ないじゃない」
冷たく言い放った離脱者にむかい、激情に駆られた麻子の身体を、ほかのメンバーたちが力づくで止める。
どれだけ腕をのばしても、まるで届かない。あまりにも遠すぎて、麻子の熱は伝わらない。未来だけではなかった。これまでのすべてを、否定されたような気がした。同志だったはずの、仲間に。
嵐のような感情が過ぎ去り、争うことをやめて解放された麻子は、あらたな感情が瞳からあふれそうになり、メンバーの前から消えたくなった。着替えも、ギターをケースに片付ける余裕さえもなく、控え室から走りだしていた。
蒸し暑さの残る、不快な夜の街。
ライブハウスの近くにある駐車場まで足早に歩いた。そこには、知らない女を熱心に口説いている恋人がいた。口説き文句が私のときと同じじゃねーかよと、麻子はおもった。
○
翌日、フルスウィングで壊れてしまった愛用のギターを修理にだすため、麻子は、午前中から軽ワゴンを走らせていた。
胸のなかで、叫ぶ声がある。
頭のなかで、過去があふれている。
身体が重かった。久しぶりの車中泊では、うまく眠れていない。元彼の部屋から自分の荷物をあらかた詰めこんだせいで、車体も重い。
途中で道を間違えた。
そのまま走りたくなった。
BGMもかけていないのに、いつもより運転が荒くなった。
いつしか先行車がいなくなり、対向車もあらわれなくなると、ハンドルをにぎる手に力がこもり、アクセルを踏みこんだ。登り坂を走り、車体を傾かせながら峠を越えて、麻子は、知らない町にたどりついた。
どっと疲れがでて、我にかえる。
スピードを落とし、緑の多い細道を、とろとろと走らせる。
大きなケヤキのそばにある、自動販売機のよこに車を止めた。車を降りて、強烈な陽射しを浴びる。木陰のなかへ避難した。冷たい炭酸飲料を買った。子どもたちは夏休みであるらしい。どこからか笑い声が聞こえてくる。競っているわけではないだろうに、ケヤキにとまるセミたちが音量を上げた。
「負け犬は、どこにいったって、不快な気分を味わうんだな」
ペットボトルを片手に、緑の日傘を見あげながら、麻子はつぶやいた。
数秒程度、ぼんやりとしていただろうか。誰かが小石をふんだ気配を察して視線をもどすと、瞬間、麻子の身体に緊張がはしった。
一メートルほどの近い距離に、丸刈りの男の子がいる。
十歳くらいの、小学生だろう。草履。迷彩柄の短パン。汚れた白いタンクトップ。その生地がぱつんぱつんになるくらい肉づきはよいが、日焼けした肌は健康的だった。虫捕り網を手にしている。ひとりで昆虫採集だろうか? 虫かごは持っていないけれども。
UV対策とは無縁の生き物であろう丸刈りの少年が、麻子の顔をみていた。いや、麻子が口につけているペットボトルに焦点を固定させていた。実家で飼っていた犬みてぇだと麻子はおもった。こいつはぜんぜん可愛くねぇなともおもった。
「いいなー」
丸刈りの少年が、可愛くない声でぼやいた。麻子が黙っていると、「いいなー」と同じことを繰り返した。もはや鼻水を垂らしていないのが不思議におもえる、などと考えながら無反応で通していると、「おれも飲みてー」と距離をつめてきた。忌避感はあったが、見ず知らずの子どもを蹴り飛ばすほど、麻子のモラルは崩壊していない。
「ひと口くれよ」
「自分で買え」
丸刈りの少年は、はっきりと断ったくらいで引き下がる生き物でもなかった。「じゃあ、金をくれよ」と、ジュースを買いあたえるか、分けあたえるかの二択を迫ってくる。己の欲望に忠実だった。ひと口だけを許可して手渡しても、遠慮なく一気飲みを試みる姿が想像ができてしまう。炭酸にむせても返さないだろう。堂々と飲みほすにちがいない。「これがおれのひと口だー」とか言いそうだった。私は生まれてはじめて小学生の顔面を踏みつけるかもしれないと麻子はおもった。
「くれよー、なぁー、くれよー」
「家にかえって麦茶でも飲んでこい」
「だからー、おれはー、いまここでー、ジュースが飲みてぇのー」
話が通じる相手ではない。あとはもう暴力しかないのだろうか? もう少し休んでいたいが、さっさと車に乗りこんで逃げるべきか? しかし、こいつはどう動く? エンジンをかければあきらめるのか? サイドミラーとかにしがみついたりするんじゃないのか? 車に蹴りをいれたりするんじゃないのか? 私は人身事故を起こすことになるんじゃないのか?
「…………くそ」
麻子は自動販売機でもう一本ジュースを買った。丸刈りの少年が、おちてきたペットボトルをいち早く取りだした。麻子のほうを見ることはなかった。感謝の精神は欠片も感じられなかった。
「おまえさぁ、おごってもらったら、ありがとうくらいは言えよ」
「うん、うめぇー」
こいつはろくな大人にならないだろう。その手助けをしてしまった気がするが、たぶん、問題はない。こいつはすでに手遅れだ。知ったことではないと、麻子は迷いを切り捨てた。
「……自分だって、ろくなものじゃないしな」
麻子はつぶやき、天を仰いだ。セミたちの絶叫に意識を向けながら、情熱を伝えることができなかった、自分の無力さを思い出した。あのときだけじゃない。ああなるまえに、伝えなければいけなかった。共有しなければならなかった。
「……それもぜんぶ、バカな思い違いか」
仲間の気持ちをわかろうとしなかったヤツの、自分勝手な押し付けでしかない。現状を考えたなら、リーダーが正しいのだろう。だからあのとき、離脱を拒絶する味方はいなかった。私のそばには誰もいない。いまはもう、わざと大きなゲップを出して馬鹿笑いをする少年しかいない。
麻子は深々と溜め息を吐いて、蹴りたい衝動を散らした。心がすさんだ負け犬は、いずれ犯罪者になるのかもしれないと、おもったりもした。