第9話 「ソクラテスとの対話」
いったん落ち着いて魚のスープの夕食をとった結果、本当にアルキビアデスを説得することができるものかどうか、一度、試してみてからでも遅くはないだろうということになった。
「アルキビアデスの姿を見るのは、そう難しいことではないよ。彼は、明日の民会にもかならず出席し、演説するだろうからね」
「おおー。ニカンドロスさんも言ってたアルキビアデスの弁論、聞いてみたい! ……あー、でも、わたしたち女子だもんなー! 男たちが民会やってるところにあんまり近づくと、怒られて追い払われる可能性あり! ムカつくー。でも、暴れて目立って、向こうに面が割れるのは避けたいよねー」
「よし、帰り道のとちゅうで襲撃するっす!」
「いや、まずは襲撃じゃなくて、説得からいこうって話だったよね!?」
「はッ!? そうだったっす。しかしファルマキアちゃん、盗賊とか、からんできた男どもは即座にアレしたのに、アルキビアデスにだけは、妙に手控えてる感じっすよね。どうしてっすか? まさか……!?」
「いやいや、そういう、裏でアルキビアデスと通じてる的なアレではないから! そもそも会ったこともないし」
ぱたぱたと片手を振って、ファルマキア。
「いや、むしろ『会ったこともないから』かな? アルキビアデスが、どんなとんでもない男か知らないけど、別に、わたしになんかしてきたわけじゃないし。自分がよく知りもしない相手を、いきなりアレするのもどうかと思うんだよねー」
「あ、そういう基準っすか! 理解したっす。まあウチは、任務なら、どんな相手でもサクッとアレするべき派っすけどねー」
「アラクネちゃんが硬派な仕事人すぎる件について!」
わあわあ言っているうちに夜も更け、一同は寝床についた。
最初のうちは、赤ん坊がヴェアアアァン!! とにぎやかな泣き声を響かせていたが、やがて、それも静かになる。
ファルマキアは、アラクネと並んで横になりながら、じっと明朝のことを考えていた。
すると、中庭に面した出入口に、すっと一瞬、影がさした。
出入口の前を通って、中庭を、誰かが歩いていったのだ。
ファルマキアは起き上がり、太腿に仕込んだ毒針を抜き放ちながら、音もなく中庭へ出た。
中庭にはソクラテスがいて、ファルマキアに背を向けたまま、夜空にかかる月をじっと見上げていた。
だが、月を見ているのではないことはすぐに分かった。
雲が動いて月を隠してしまっても、彼はまったく姿勢を変えず、そのまま立ち続けていたからだ。
「考え事ですか? ソクラテスさん。こんな夜中なのに」
「おや、いたのかい、お嬢さん? 我が家の寝床が、ちょっと硬すぎたかな」
ようやく寝ついた赤ん坊を起こすことがないように、ふたりとも、声をひそめている。
「や、そういうことじゃないですけど。……ていうか、さっきから気づいてましたよね?」
「君がそこにいることにかい? いいや、全然。僕は今、明日アルキビアデスと会ったらどんな話をしようかと、そればかりで頭がいっぱいだったのだからね」
「いやいや、それは嘘ですよー! だって今、わたしがいきなり声をかけても、全然びっくりしなかったじゃないですか?」
「神々の采配に身を任せ、思索にふける者は、自分自身の身に起こることに対して、容易には恐怖を感じないものだよ。運命に逆らおうとしたって、それは無意味であるということを、たくさんの古い物語が教えてくれるじゃないかね?」
「ほー? ソクラテスさんって、すっごく信心深いんですね」
「もちろんさ。僕は、神々を心から敬っている」
「それなのに、なんでΕに?」
ファルマキアは、ずばりと核心に切り込んだ。
「ほら、Εは、情報機関でしょ? ……人間たちの。そこで告げられているのは、アポロン神の言葉じゃない。それなのに――」
「人間たちが何を語り、何をしようと、それが神々の存在を左右することなどないよ」
ソクラテスは、さらりと言った。
「Εが人間たちの組織であり、そこに自分が所属するということと、アポロン神が確かにおわし、それを敬って過ごすということは、両立できないことではない」
「え、そう!? でも、それって……なんていうかこう……神々に対して不敬だとかは、思わないんですか?」
「確かに僕も、初めてこの事実を知ったときには驚き、呆れたものだ。おそれ多くも神の言葉を騙るなんてね。
だが、そのとき、こうも思ったのさ。もしも、アポロン神がこのことを許されないのだとしたら、今、Εが存在しているはずはないじゃないか、と」
「あ、つまり……今こうしてΕが無事に存在してるのは、ほかでもないアポロン神が、それを許しておられるからだ、っていう……?」
「ああ」
「逆転の発想というかなんというか……1周回って、信心が強固すぎる説ッ」
驚き呆れるファルマキアに、ソクラテスは苦笑した。
「なんだか、おかしな気分だよ。さっきからずっと、問うているのは君で、答えているのは僕だ。いつもは、逆なんだよ。他の人たちと話すときにはね。やはり、君と、僕とは、すこし似ているのかもしれないな」
「じゃあ、そのついでに、もっと深掘りして聞いてもいいですか?
Εの神託は、アポロン神の言葉じゃないのに……アポロン神の言葉が聞こえないのに、どうして、アポロン神は確かにいるって、そこまで信じることができるんですか?」
「では、君は、神々などいないと考えているのかね?」
「うーん!? ……いやあ、いても、いなくても、わたしには関係ないかな~って」
「その答え方では、僕の問いに答えたことにならないよ。いいかね? 問答を前に進めるためには、問うものと答えるもの、両方が脇道に逃げ込むことなく、真摯に言葉を発することが必要なんだ」
「おおう……これがガチの対話ッ」
「その上で、もう一度、たずねてもいいかい。君は、神々などいない、と考えているのかね。それとも、神々はいる、と考えているのかね?」
「うううぅーん!? …………わからないですね。いや、マジで」
ファルマキアは肩をすくめた。
「だってわたしは、神々を見たことがないし、その声を聞いたことがないですから」
「なるほど。わからないことを、わからないと認めるのは、大切なことだ。そこからすべての探究が始まる。……ところで僕の母親はファイナレテというのだが、君は、僕の母の姿を見、僕の母の声を聞いたことがあるかい?」
「あー」
ファルマキアは音をたてないように手を打った。
「ソクラテスさんの言いたいこと、わかりました。
わたしはソクラテスさんのお母さんを見たことがないけど、だからって『ソクラテスには母は存在しない』なんてことにはならない。だから、自分が姿を見たことも声を聞いたこともないからって、神々はいない、と決めつけるのはおかしい……ってことですよね?」
「まさしくそのとおりだね」
「でも、だからって、神々がいる、ってことの証明にもなりませんよね?」
「その通りだ。……ところで、この家は、大工が建てたものだね」
「え?」
「この衣は、クサンティッペが織ってくれたものだし、あの水がめは、陶工が作ったものだ」
「ふんふん?」
「このように、そこに何らかの作品があれば、それは、誰かが作ったものに違いない。つまり、作品があれば、かならず作り手がいるのだ。このことには、同意してくれるかね?」
「たしかにそうですね」
「では、あの星々は、人が作ったものだろうか? 大地は、大気は、人が作ったものだろうか? ……そうではないね。では、誰が作ったものだろうか?」
「なるほど」
ソクラテスの言わんとすることを悟って、ファルマキアはまた、音をたてずに手を打った。
「神々! ……と、言いたいところですけど。そういうのは、誰が作ったとかじゃなくて、ただ、そこにあるんじゃないですか?」
「ただ、そこにある、というのは、どういう意味だい?」
「つまり……ほら、そこに、小さな石ころがひとつ落ちてますよね。あれは、神々がわざわざあの形に作って、そこに置こうと思って置いた、ってことだと思いますか?」
「それは、君はそう考えてはいない、ということだね?」
「ソクラテスさん、その答え方だと、わたしの質問にちゃんと答えたことになりませんよ?」
ファルマキアはいたずらっぽく言って、おう、という顔をしたソクラテスにうなずいた。
「でも、まあ、そうです。だって、そのへんの石ころの一個ずつ、木の葉っぱ一枚ずつ、そして人間の一人一人がどうなってこうなって、ここに、あそこに、向こうに……なんて、神々が全部いちいち考えてやってるとしたら、どうなります? そんなの、神々が何人いても足りないっていうか、絶対無理でしょ? だから、つまり、全部が偶然……いや……」
ファルマキアは言葉を切ると、落ちていた石ころをひょいと拾いあげて、ぽいと投げた。
石ころはカツンと音をたてて壁にぶつかり、ふたたび地面に転がった。
「今、あの石が壁にぶつかったのは、わたしが拾って投げたからですよね。で、どうしてわたしが拾って投げたかっていうと、ソクラテスさんに、自分の考えを説明するためでしょ? で、どうしてソクラテスさんに自分の考えを説明することになったかっていうと……っていうのが、ずっとずっとずーっと、遥か昔までつながってて……
それは、まわりじゅう全部のことがそうで、それが、網の目みたいに全部、つながってて……それで、こう……全部がお互いに影響し合いながら、今ここにある? みたいな?
星とか、大地とか大気とか……そういうのも、規模は違うけど、全部、そういう感じのことなんじゃないかと。
つまり、誰かの意思とかじゃなくて……お互いが、網の目みたいに関わり合いながら、結果的に、今こうなってます、みたいな!」
ソクラテスは、うんうんとうなずきながらファルマキアの話に耳を傾けていたが、やがて静かに、
「その網の目を、ずっと昔へ、昔へとさかのぼって、はじめまでたどっていくと、どうなるのかね」
とたずねた。
「始源?」
「そうさ。何かが今、ここにあるとすれば、必然的に、何か『それを生み出したもの』がなければならないね? そしてまた、『それを生み出したもの、を生み出したもの』もあるわけだ。その前にも、その前にも、その前にも……
その、一番はじめには、何があったのかね?」
「え? ……ん!? なんにもなかった? ……いや。なんにもないところから、急になんかが出てくるわけないんだから……え!? んー!?」
頭が取れそうな勢いで首をひねって、ファルマキア。
「もしかして……ソクラテスさんは、知ってるんですか? はじめに、なにがあったのか」
「もちろん、知らない」
「無駄に力強い宣言ッ!」
「だが、ここまで考えてきたことによって、死すべき人間の力と考えの、決しておよばない事柄が確かにある、ということだけは、はっきりとわかっただろう? それこそが、神々の領域なのだ。
神々はいない、などと考えるのは、人間を超えたものなど存在しない、と考えることだ。そんなふうに考えることは、僕には決してできないよ」
「うーん……なるほど? うーん……」
「まあ、今みたいなことは、僕は、ふだんはやらないのだがね」
「今みたいなことって?」
「この世の始まりがどうだったか、なんてことを論じることさ。だって、くだらないもの」
「急転直下の『くだらない』発言!? たった今まで、あんなにアツく語り合ってたのに!?」
「だって、それは神々の領域であって、死すべき人間が一生をかけて論じたところで、手が届くはずもない事柄だからだ。
デルフォイに掲げられた言葉のなかにもあっただろう、『汝自身を知れ』とね。
自分自身が、いったい何者であるのか、そして、どう生きるべきなのか? そんなことすら、僕には、決して分かっているとは言えないのだ。
自分自身のことさえ分からない身でありながら、世界のなりたちにまで手を伸ばそうなんて、とんでもない傲慢だよ。そうは思わないかね?
ただ、今夜は、君が神々の問題を持ち出したので、つい、僕もこういう話をしたのさ。……なんだか懐かしくてね」
「懐かしい?」
「ああ。あの子とも、しばしば、こんなふうに夜通し語り合ったものだった」
「アルキビアデスと? ……あのー、ソクラテスさん、失礼な話ですけど、本当に明日、大丈夫? もしも、アルキビアデスに情がわいて――」
そこまで言って、ファルマキアは不意に口をつぐんだ。
同時に、ソクラテスもまた、すばやく視線を動かした。
中庭をかこむ屋根の上、決して月明かりをさえぎらぬ――気配をさとられにくい位置に、巨大なかたまりが、音もなく乗っている。
ファルマキアが毒針をふりかぶり、ソクラテスが足元の石ころを拾い上げると同時に、巨大なかたまりがもしゃもしゃと動き、言葉を発した。
「ふたりとも、いつまで喋ってるっすか~……ウチ、もう眠いっすよ! 明日に備えて、はやく寝ようっす!」
「うわ、アラクネちゃん!? いつからそこにいたの!?」
「すばらしい忍びのわざだね。幼い頃から暗闇での行動に慣らされるという、スパルタの若者たちにも劣らない」
「いやもう、最初のほうの、アポロン神がどうとかってくだりからっすよ~……ウチ、そういう系の話、マジで眠くなるっす! 何度もカクンってなって、屋根から落ちるかと思ったっす」
「全然、先に寝ててくれて良かったのに……」
「いや~、万が一、ふたりの話がΕに反逆する感じの方向に盛りあがっちゃったら、ウチが責任をもって、ふたりをアレしなきゃならんと……」
「アラクネちゃんが正直すぎる件について」
「怖いのだが」
『ヴッ……!? ウアアアアアアアァン!』
「コラァーッ! 誰だい、こんな夜中に、中庭でゴチャゴチャやってるのはーッ!? 坊やが起きちまっただろうがッッ!!」
『すみませーん!!!』