第2話 「神への問い」
入念に手当てと、血の始末をしてから――なにしろ、これから向かう聖域を血でけがすことは絶対のタブーとされているので――ニカンドロスとファルマキアは、がらんとした建物から外に出た。
坂になっている参道をのぼって、神託所の聖域に入っていく。
今日は、神託を求める人々に巫女がアポロン神のことばを告げる「七の日」ではないため、デルフォイの神託所の敷地内は、それなりに静かだ。
連れだってアポロン神殿のほうへと歩きながら、
「おにいさん、ひとつ質問があるんですけど」
「神官長と呼びなさい。質問とは?」
「組織の名前、どうしてΕなんですか?」
ファルマキアはたずねた。
「ΔΕΛΦΟΙの頭文字のΔじゃなく、あえて2番目のΕって、なんだか中途半端な気がしますけど」
「おや、君は “デルフォイのΕ” を知らないのですか? まったく、それでよくここまでの試験を通過できましたね」
「いや、別にそこは面接で聞かれなかったんで……ていうか “デルフォイのΕ” って?」
ファルマキアの問いに、ニカンドロスはおもむろに立ち止まると、今まさに二人の目の前にそびえたつ壮麗なアポロン神殿の軒下のレリーフを指さした。
「あれですね」
「書いてあった!? めちゃめちゃでっかく、書いてあったッ!」
みごとに彫刻され彩色された神々や英雄たちの姿にまじって、でかでかとΕの文字が掲げられている。
こんなにも大々的にみずからの名を掲げる情報機関が、この世にあってよいものか。
「遠い昔からアポロン神殿に掲げられし文字Ε。その意味は……」
ニカンドロスの言葉の続きを、ファルマキアはごくりと唾をのみこんで待った。
「………………不明です!」
「無駄! まったく無駄にタメが長かったッ! 待って損した!」
「いろいろな説が唱えられてきましたが、決め手はありません。謎の文字なのですよ」
「そんな意味のわからん文字を、堂々と玄関先に掲げてる神殿っていったい……ていうか、Εの名前の由来はわかりましたけど、いちおう秘密組織ですよね? それなのに、あんなでっかく名前を出しちゃって大丈夫!?」
「たしかに、あのΕの文字そのものは、誰にでも見ることができます。だが、その意味――我々の存在は、人々の目からは隠されている」
ニカンドロスはそう言い、大神殿に背を向けた。
「さあ、こちらへ。今から、ピュティアに会わせましょう」
「巫女!」
ファルマキアは目を輝かせた。
神がかり状態となった巫女がその口から発する「アポロン神の言葉」は、幾多の市井の人々のみならず、都市国家そのものの命運をも左右してきたのだ。
「でも、巫女さんは、神殿の奥の至聖所にいるんじゃないんですか?」
「彼女、今日は休みをとってるので」
「休みとかあるの!?」
驚くファルマキアを、ニカンドロスは目立たない場所に建てられた、質素な小屋にいざなう。
「さあ、ここです。もちろん、ピュティアも我らΕの一員ですよ」
「おおー。どんな人かな! わくわく! わたしの想像では、ちょっと小柄で神秘的な美少女――」
「まあまぁ~ニカンドロスさん、いらっしゃい! あらあらまぁ~今日はかわいいお嬢ちゃんもいっしょで! あぁ~そうそう、ちょうど奉納されたおいしいお菓子があるから、どうぞどうぞ食べてってちょうだい」
「すごく親切なおばちゃんだったッ! しかも奉納品をおすそ分けしてくれるッ」
白髪まじりの髪をたばねて人のよさそうな顔をした、ころんとした体型の巫女は、目を見開いているファルマキアに近づいてきて、芥子粒をまぶした小さな焼き菓子がどっさり盛られた籠を渡してくれた。
「余っちゃうともったいないからね~。はいこれ、はちみつ入りの焼き菓子。おいしいわよ~」
「わーいお菓子だー! もぐもぐ! 歯応えしっかりの焼き加減。噛めば噛むほどに、まぶしてあるケシ粒の香ばしさと、はちみつの甘みが口いっぱいに広がります!」
「まあまぁ~表現力豊かな子ねえ! でも、誰に向かって説明してるのかしら?」
「さあ」
「……あの!」
けげんそうに見守るニカンドロスとピュティアに、口いっぱいに焼き菓子をほおばりながら、ファルマキアがたずねる。
「ピュティアさんって、過去のことも、未来のことも、何でもわかるんですよね?」
「そうよ~。真砂の数も海の広さも、あらゆることがわかるのよ~」
「すっごーい! アポロン神の声が頭のなかに聞こえてきて、教えてくださる感じですか!?」
その言葉と同時、ニカンドロスとピュティアはそろって黙り、後の世にアルカイック・スマイルと称される表情を浮かべた。
「怖い怖い怖い! なんだこの反応は。どうやらわたしは、触れてはいけない話題に触れてしまったようです。業界の闇というやつでしょうか」
「ふふ……知りたいですか?」
「うーん。知りたいような、知りたくないような」
「まあそう言わずに」
アルカイック・スマイルのまま迫るニカンドロスから、ファルマキアがじりじりと距離をとっていると、
「じゃあ、とりあえず、わたしになにか質問をしてみてちょうだい」
と、自分もぽりぽりお菓子をかじりながら、ピュティアが言った。
「今日は毎月七日の神託デーじゃないけど、特別に、アポロンパワーで答えてあげるわよ~」
「なんか市場の安売りの日みたいになってる!? しかもアポロンパワーって……急に怪しさ全開ッ! お菓子食べてるし! ながら神託!」
ひとしきり騒いでから、ファルマキアは腕組みをしてうーんと考えこみ、しばらくしてから顔をあげた。
「それじゃ遠慮なく、ひとつめの質問いきまーす。
第一問! わたしが小さい頃に家で飼ってた犬の名前は、次のうちどれでしょうか!?
Α:アレイオス Β:メランプス Γ:グラウコス
制限時間は、10数えるあいだです!」
「まあ~ぁ!」
ファルマキアからの「質問」に、ピュティアは両目を見開き、両手をほおに当てて甲高い声をあげた。
「そんな神を試すような質問をするなんて、恐ろしい! あなた、神の力を信じていないのね!? アポロン神がお怒りになるわよ!」
「いや、えーと。もし仮にわたしが神の力を信じてないとしたら、そのわたしに対して、神の怒りという脅しはまったく無意味なのでは?」
「まあぁ~、ほんとに、すごく冷静な子ねえ。……でも」
感心したように呟いて、ピュティアはファルマキアの目をじっと見つめたまま、言いはじめた。
「あなた、犬なんか飼ってなかったわよね? あなたが小さい頃に飼っていたのは……黒い鳥。カラスね。親からはぐれたのを、あなたが拾って、育てた。名前は……アイテル。とっても賢くて、あなたの顔をしっかりと見分けてた……」
ファルマキアは、しばらくのあいだ、ぽかんと口をあけてピュティアの顔を見返していた。
それから、徐々に、その顔に理解の色が広がっていった。
「すっごい。正解! 正解です!」
「そうでしょ~! もちろん、正解だってことも、はっきりわかってたわよ~」
「それでは第二問ッ!」
「え!?」
「わたしの祖父は、元気にしてましたか? 続いて、第三問! おじいは、葡萄酒何杯めで、今の思い出話を聞かせてくれましたか?」
ファルマキアの言葉に、ピュティアとニカンドロスは顔を見合わせた。
先ほどのファルマキアとまったく同じように目を見開いた二人の顔にも、徐々に、理解の色が広がっていった。
「すばらしい」
大きくうなずいて、ニカンドロス。
「じつに話がはやいですね、君は。要するに、そういうことです」
「なるほどでーす……完全に理解した。試験と試験のあいだに、妙に日にちの余裕があると思ってたら、誰かがわたしの地元に行って、情報を集めて戻ってくるまでの時間稼ぎだったんですね?」
「もちろん。これから仲間に迎え入れようという人間の成育歴その他もろもろは、しっかりと調べておかなくてはね」
「確かにー。ところで、第四問いってもいいですか?」
「はい?」
「まさかとは思うけど……わたしのおじいに、手ェなんか出してないだろうな、アァ?」
「もちろんです」
ファルマキアが漂わせる圧をはらいのけるように手を動かして、ニカンドロスは、即座に言った。
「いずれは君も、あらゆる土地の情報をつぶさに知るようになる。そのときになって、我々が君の身内を害していたなどと知れたら、君は怒り、我々から離反するでしょう。君ほどの逸材を、みすみす失うような危険を、Εはおかしません」
「急に褒め殺しスタイル!」
「それに、君のおじいには生きていてもらったほうが、我々にとっても価値がありますからね。君が決して裏切らないよう、人質としての……いえ、冗談ですよ、もちろんね。ふふふ」
「目がまったく笑っていないッ!」
叫んで、ファルマキアは大きくうなずいた。
「なるほどでーす。神託所のしくみを完全に理解したファルマキアちゃんでした! Εの情報員が、ギリシャ全土に散ってるんですね? だから、今現在のこともわかるし、それをもとに予想すれば、先のこともわかる……」
「そういうことなのよ~。はちみつクッキー、もうひとつどう?」
「クッキー食べながらする話ではないような気が。もぐもぐ」
「食べてる食べてる」