第13話 「アルキビアデスの屋敷」
「よし、行こうじゃないか」
「いやちょっと待とうソクラテスさん」
即答したソクラテスのごつい肩を、がっしとつかむファルマキア。
「それは、いくらなんでもまずい、ていうか、やばくないですか? この連中といっしょに人目につきにくいところへ行くってのは、さすがに……」
耳元でささやくファルマキアに、ソクラテスは何やら意味ありげな目くばせをしたかと思うと、
「おお、アルキビアデス!」
急に、あたりの見物人や通行人が残らず飛びあがるほどの大声で言いはじめた。
「君は、なんて気前のいい男なのだろう! 君はこれから、君の屋敷で、僕だけでなく、この坊やまでいっしょにもてなしてくれるというのかい。ああ、この坊やは、ぼくの友人なんだ。ねえ、君!」
とファルマキアのほうを向いて、
「君が、あの名高いアルキビアデスの屋敷で歓待を受けたなんて聞いたら、君の父上や母上は、たいそう喜ぶだろうねえ?」
「えっ?」
急に登場した『父上や母上』に、ファルマキアは一瞬、目を白黒させたが、
「……あーっ、うん!? はい、それはもう!」
少年っぽい声をつくり、とりあえずソクラテスに調子をあわせて大きくうなずく。
同時に、
(なるほど)
ファルマキアは、ソクラテスの考えに気付いた。
ソクラテスが、こんなふうにやたら大声を張りあげているのは、『自分たちふたりは、これからアルキビアデスの屋敷へ行くのだ』ということを、そこらじゅうの通行人に知らせるためだ。
もしも、アルキビアデスがこの後、隠密裏にふたりを始末しようと考えていたとしても、これほど多くの道行く人々が『証人』となった以上、これから、屋敷内で下手な手出しをすることは難しくなる。
アルキビアデスにとって、今は、遠征反対派による巻き返し、世論の逆風を絶対に避けなくてはならないときだ。
遠征を控えたこの時期に、かつて師事した相手に対する殺人の嫌疑をかけられるなど、あってはならない。
ニキアスをはじめとした彼の政敵たちが、それほど大きな攻撃の材料を見逃すはずはない。
「それではお言葉に甘えて、僕たち二人は、これからアルキビアデスの屋敷へお邪魔しようじゃないか! ただし、あまり、長居しないようにしなくてはね! なにしろアルキビアデスは将軍で、今は、大いに忙しいときなんだから!」
「あー! ほんとにまったくそのとおりですね、ソクラテスさん!」
やたらデカい声を張りあげてうなずき合うソクラテスとファルマキアを、アルキビアデスは少しうんざりしたような顔で眺めていたが、
「では、どうぞこちらへ」
やがて、ゆったりと片手を振り、先に立って歩きだした。
謎の小芝居が繰り広げられているあいだに、スペーケスは雑踏にまぎれてどこへともなく消えている。
最初からいた大柄な付き人たちだけが側に残って、アルキビアデスだけでなく、ファルマキアとソクラテスも囲むようにして進んでいった。
そうして案内された屋敷は、一個人の屋敷としては、ファルマキアがこれまでに見たこともないほど華麗で、入口の扉は屈強な二人の奴隷たちが守っており、さらに扉を開けるためだけにもう一人の奴隷がいるという有様だった。
「わあーすごい、めっちゃくちゃお金持ちィ」
聞こえているのかいないのか、ファルマキアの感想は完全に無視して、アルキビアデスは二人を男部屋にいざなった。
奴隷たちにむかって酒を運ぶよう言いつけてから、アルキビアデスは、しつけのなっていない子供のようにだらしない態度で、寝椅子の上にひっくり返った。
「あーあ、疲れた! ……でも、嬉しいな。ソクラテス、あなたが、こうしてまたぼくの屋敷へ来てくださるなんて」
「嬉しいだって?」
奴隷たちがさし出した酒を、はね飛ばさんばかりの勢いで片手を振って断り、ソクラテスは顔をしかめて言った。
「こうなって君が嬉しがっているなどとは、とうてい信じられないね、アルキビアデス。君が知らないはずはないが、僕は、最近だけでも、片手の指では足りないくらいにしげしげと君の屋敷を訪ねたのだよ。そして、そのたびに門前払いをくったのだ」
「あれ、そうだったんですか? なんてことだろう、ごめんなさい、知りませんでした。そのときの門番には、きつく言っておきます。ぼく、とても忙しかったんです……」
「忙しい? そんなにも急いで、このアテナイを滅亡へと追いやろうというのかね?」
「とんでもない。その逆ですよ。さっきのぼくの演説、聞いてくださったでしょう?」
「ああ、聞いたとも、聞いたからこそ言っているのだよ。君は全アテナイをあげてエゲスタを援助し、セリヌスと戦うというのだね? 助けを求められたからには、応えなくてはならない、それがアテナイ市民の義務だと?」
「義務だとまでは言っていません。でも、そうするべきではありませんか? 助けを求めてきた者を見殺しにするような国家に、どこの誰がついてきますか?
ぼくたちの父祖は、支援を求める者には、援助の手を差し伸べてきた。そうやって、今のアテナイ帝国は築かれたのではありませんか?」
「危険が大きすぎる。シケリア島に遠征すれば、シュラクサイが黙っていない。あそこは、このアテナイよりも大きな都市国家なんだぞ」
「シケリア島の内部は、決して一枚岩じゃないんです。シュラクサイに対する不満を持つ者たちだって大勢いる。その者たちを味方につけます。そのためには、まずセリヌスとの初戦で勝つことが重要に――」
「うーん? そう上手くいくかなー!?」
熱のこもった弁舌をふるっていたアルキビアデスは、炎が一瞬にして凍りついたように冷たい顔つきになった。
ソクラテスとアルキビアデスの論戦に耳を傾けていたファルマキアが、大声で口を挟んだからだ。
「こっちは――つまりアテナイ軍は、船で攻めていくわけでしょ? シケリア島は島なんだから、当然だよね。で、相手さんのセリヌスは、まさにそのシケリア島が本拠地なわけでしょ?
補給はどうすんの、補給は。まさかの、現地調達だのみ?」
「もちろん、一部は、そうなるだろうね。我々は上陸した後、速やかに周辺を制圧して食料を――」
「周辺って、セリヌスの? あそこ、けっこう強いらしいけど大丈夫? それでもまあ何とか初戦で勝てたとして、そのあと上陸して居座ろうってんでしょ? 相手が『焦土作戦』とってきたらどうする?
あと、セリヌスはアテナイを相手取るとなったら間違いなくシュラクサイに援軍を頼むと思うけど、シュラクサイって、位置的にアテナイ艦隊の補給路をすごーく叩きやすい場所にあるんだよねー。シケリア遠征組は、本国からの補給が途絶えたら一発で終了しちゃう気がするんですけど、将軍としては、そこらへんの対策をいったいどのようにお考えで?」
「ソクラテス」
アルキビアデスはうんざりした表情を隠そうともせず、かつての師に目を向け、
「こちらの雄弁家のお嬢さんは、いったいどなた?」
「おおう」
答えたのはソクラテスではなく、ファルマキア自身だった。
「わたしの完璧なはずの男装が、ふつうに見抜かれていた件について」
嘆かわしげに言ってから、しゅたっと元気よく片手をあげて言う。
「どうもでーす! わたしはファルマキアちゃんです。ソクラテスさんの家に居候してます。よろしくでーす!」