第12話 「スズメバチ」
ファルマキアは勢いよく回れ右をしてきた道を帰りかけたが、ソクラテスは、遠ざかるアルキビアデスの姿を目で追ったまま、動かなかった。
「あれ? ソクラテスさん、行きますよー」
「ファルマコスくん。突然だが、このまま、アルキビアデスを追わないか?」
「えっ? それって……」
目を丸くしながらアルキビアデスを指さし、その指でぶすりとやる仕草をしたファルマキアに、ソクラテスは顔をしかめてかぶりを振った。
「いや、違うよ、話をするんだ。彼が屋敷の外に姿を見せている今が好機だ。
実を言えば、ぼくはこの前の民会のときにも彼を追いかけていったのだが、取り巻きの連中に囲まれて、追い払われてしまってね。今なら、君もいるから、うまくいきそうな気がする」
「その『私もいるからうまくいく』展開って、明らかに戦闘が前提なような……っていうか、ソクラテスさんを追い払うとは、取り巻きの連中、なかなかの猛者ぞろいと見たッ!
いや……でも、今日は生アルキビアデスを見るだけの予定だったのに、勝手に接触しちゃって大丈夫かなー? あとでアラクネちゃんが怒って、アレしてきたりしないといいけど……」
「そのときは、ふたりで力を合わせて応戦しようじゃないか」
「アラクネちゃんの本気が未知数な点が気になるんですけど、勝てるのか……うーん……ま、いいか!」
「迷ったわりに決断が軽いなあ」
「生アルキビアデス、せっかくなので、遠くから見るだけじゃなくて触れ合ってみたい説!」
「そんな、珍しい動物のように」
「細かいことは気にせず、そうと決まれば行きましょう、行きましょう」
ファルマキアとソクラテスは連れだって、アルキビアデス一行の後を追った。
アルキビアデスはすそが地面を払うほどに長い衣を引きずりながらゆったりと歩き、声をかけてくる者たちに、いちいち笑顔でうなずいてみせながら進んでいく。
その周囲を、妙に目つきの鋭い取り巻きたちがさりげなく囲み、全方位に視線を配っている。
「うーん……? ねえねえソクラテスさん。あの取り巻き連中のなかに、この前ソクラテスさんを追い払ったやつって、いますか?」
「いいや。どうやら、見当たらないようだね」
「やっぱりねぇ」
歩くにつれてファルマキアの足取りと口調は軽くなり、まるで拳闘家が試合を前にステップを踏むような調子になった。
「今、アルキビアデスのまわりを固めてるやつらは、ただの囮ですね。いかにもな見た目で、周囲の注意をひきつけるための。だって、身ごなしが大したことないもん。ほんとの護衛隊は――」
「あの、ちょっとすみません」
ぶつぶつつぶやくファルマキアの横手から、なにやら遠慮がちに右手を出しつつ、ひょろりとした青年が話しかけてきた。
「すみませんが、ちょっと、道をお尋ねした――ッ!?」
「はい来たァー!」
ぶおんと空気がうなる音と共に、青年の顔面をファルマキアの上段回し蹴りが襲う。
並の人間ならば、首がへし折れていただろう。
そんなファルマキアの蹴りを、ひょろりとした青年は、海藻のようにぐにゃりとした奇怪な身ごなしで避けた。
「うわ、何だ!?」
「え、え? 何?」
一瞬の出来事に、何が起きたか分からず、通行人たちがざわつく。
ひょろりとした青年は、真顔でその場に立ったまま、ファルマキアとは目を合わせず、しきりに首をかしげながらぶつぶつ言った。
「チッ。おっかしいな。何だこいつ。妙に強いな……チッ」
「え……こわ。なんかコワいな、この人!」
「チッ。こいつ、いきなり人の頭蹴ろうとしといて、文句言ってやがる……チッ」
「あー、まあ、それは否定できないかなー。でも君、その手にはめた指輪見せてみ? 明らかに、なんか仕込んであるよね?」
ひょろりとした青年の目がちらりと動いて、右手の人さし指にはめた銀色の指輪を見た。
ファルマキアは、その指輪から、小さなとげのようなものが飛び出していたことを見逃さなかった。
毒針だ。
「その手で普通につかもうとしてきたから、つい蹴っちゃったよねー。うん。これは蹴る。どうしても蹴る」
「……チッ。くそが。そっちこそ、足の爪になんか仕込んでるだろ……」
「完全にお互い様である件について」
「チッ。あー……あーもう、これ、もう、アレするしかないよな。えっ? アレするしか、ないよな?」
「誰と喋ってんの? ――ソクラテスさん、来ますよ、他にもいるかも! 全方位に注意!」
ぶつぶつ言いながら身構える青年と、目をカッと見開いて――その表情は、どこか笑っているようにも見えた――叫ぶファルマキア。
そのときだ。
「スペーケス。ちょっと、待って」
ゆったりとして舌足らずな、しかし、有無を言わせぬ響きをもった声が聞こえた。
威圧的である、というのではない。
脅すような調子でもない。
ただ、その声には『自分の言葉に相手が従うことは、この世界を支配する絶対的な法則である』とでもいうような、圧倒的な自信が満ち溢れていた。
声の主――アルキビアデスは、優雅に腕を振り、見せかけの護衛たちを下がらせて、ファルマキアとソクラテスの前に進み出てきた。
そして輝くような笑顔を見せて、言った。
「ああ、なんて懐かしいんだろう。お久しぶりです、ソクラテス」
「確かに、本当に久しぶりだね、アルキビアデス。こうして直接、君と話すのは。僕は、ここ最近、ずっと、こうすることを望んでいたのだ。つまり、君と差し向かいで話すことをね。……余計な邪魔だてなしに」
ソクラテスがちらりと見やったが、先ほどファルマキアを襲った青年――スズメバチ――は、素知らぬ顔で他の護衛たちにまじり、誰とも目を合わせず、何やら一人でぶつぶつ言っているだけだった。
「ねえ、ソクラテス。ぼくの屋敷は、もうすぐそこです。どうぞ、これからお寄りくださいませんか?」
「おや。良いのかね?」
「ええ」
アルキビアデスはそう言って、世慣れぬ乙女や若者たちならそれだけで百年の恋にでも落ちてしまいそうな、満面の笑みを浮かべた。
「だって、ここでは人目につきすぎます。そうでしょう、ソクラテス?」