第10話 「アルキビアデス」
翌朝。
「ハイッ! どう!? わたしの男装スタイルー! 似合ってる?」
肌着の上から上衣をはおり、アラクネの前でぐるぐる回りながら、ファルマキア。
「おお~! めっちゃ似合ってるっす~! ほぼ違和感ないっすよ! しかし、髪、何のためらいもなくバッサリいったっすね!?」
「髪なんか飾りです! 偉い人には、それが分からんのですッ」
「なんかの劇のセリフっすか? それ……」
「まあまあ。とにかく、民会には男しか参加できないから、女のかっこうで話を聞いてると目立っちゃって騒ぎになったりして、関係ないやつをアレしなきゃいけなくなるかもしれないからねー」
「無駄な犠牲を出さないための男装なんすね!?」
「そういうことっ。アラクネちゃんも来たらいいのに~。見たくない? 民会で演説する生アルキビアデス!」
「生って。……まあ、ウチは、この長い髪が商売道具でもあるっすからね~! そうそう切るわけにはいかんっす。民会見学はファルマキアちゃんに任せて、ウチは留守番のあいだ、こうして、クサンティッペさんといっしょに糸つむぎでもしてるっすよ~」
「速ッ! アラクネちゃんの糸つむぎの手際のよさが半端じゃない件について!?」
「お嬢……いや、坊や。さすがに、そろそろ出発しなくては。民会に遅刻したら、罰金をとられてしまうからね」
「はーい! ソクラテスさん、道案内、よろしくでーす!」
こうして、アラクネとクサンティッペと元気に泣きわめく赤ん坊たちを家に残し、男装したファルマキアは、ソクラテスとともに家を出た。
「さて、今から開かれる民会だが。『シケリア遠征にあたって、どのような艦隊軍備を進めるべきか』というのが、その議題だ」
「あー、もうすでに『遠征ありき』って段階になっちゃってるんですね?」
「そうなのだ。もちろん、反対派がまったくいないわけではない。だが、世論というものは、川の流れと同じで、ひとたびある方向に流れ始めたら、その勢いに逆らうことは簡単ではない。何か、よほど大きな出来事でも起こらない限りは」
「よほど大きな出来事、ねえ……」
二人は、ぼそぼそと話し合いながら、アテナイの民会がひらかれる場所、プニュクスの丘に近づいていった。
ゆるやかな丘のふもとに、ひとつの大きな平たい岩があり、それを取り囲むようにして丘の斜面が広がっている。
まるで、天然の舞台と、それを見下ろす観客席のような感じだ。
平たい岩が、発言者が立つ演壇になる。
そこに立った者は、聴衆と、アテナイのアクロポリスの岩山を見上げながら演説をするのだ。
スキタイ人の弓兵たちが警備員として議場――といっても、ただの斜面だが――のまわりを囲み、集まってきた市民たちが、そのあいだを抜けて、どんどん斜面に腰をおろしていく。
「わあ、すっごい人数!」
「しいっ。そんなにきょろきょろしていると、田舎者だと思われるよ」
「おおう」
小さな村の全人口など比べ物にならないほどたくさんの、数百、いや、千、いやいやもっと大勢の男たちが集まり、押し合いへし合いしながら場所取りをする様子は、ちょっとした見ものだった。
岩のすぐそばに陣取っているのは、くじ引きで役職に当たっている者たちや、取り巻きを引き連れ、いかにも裕福そうな身なりをした男たちだ。
あの中に、アルキビアデスもいるのだろうか。
有力者たちと近づきになろうというのか、それとも折あらば発言しようと意気込んでいるのか、ぐんぐん前のほうに詰めていく者。
斜面の真ん中あたりに立ち止まり、友人でも探しているのか、しきりにきょろきょろする者。
後ろのほうで、できるだけゆったりと座れる場所を探す者――
「ソクラテスさん、どのへんに座ります?」
「君はどうする? いや、このままずっと降りていってもいいのだが、ほら、あそこにも、あそこにも、僕の友達がいる。……あっちにいるのは、この前ぼくと議論をして以来、すっかり僕を目の敵にしている連中だ。降りていったら、彼らが何かと話しかけてくるかもしれない……君にもね。話をしているうちに、アテナイ市民でないことが――ましてや娘さんであることがばれたら、厄介なことになるだろう」
「確かに! じゃあ、ボクはちょうどこのへんで、議場の境界のすぐ外にいようっと」
「じゃあ僕もこのへんで、議場の境界のすぐ内側にいることにしよう」
さいわい、境界の外側にも、アテナイの民会のようすを見物しようという外国人たちや、まだ年齢的に参加資格はないものの、国家の行く末に大いに興味があるアテナイの少年たちがぞろぞろいて、ファルマキアの存在は目立たなかった。
やがて、神官たちが規則にのっとって儀式を行ったり、アテナイ市民ではない者が議場の中に紛れ込んでいないかの確認が行われたりしたあと、司会役の、
「誰か発言を望むものはいないか!」
の声とともに、いよいよ討論が始まった。
「おっ、あれは誰? 今、岩にあがったおじさん!」
「あれはニキアスだ。アルキビアデスと同じように、今回のシケリア遠征の司令官に選ばれている。彼自身は、遠征反対派なのだが、たぶん、人々を説得するのは難しいだろうな……」
「ほうほう?」
ファルマキアは耳を澄まして演説を聴き取ろうとしたが、ニキアスの弁論のさいちゅうにも聴衆はぜんぜん黙らず、てんでに各自で議論をはじめたり、ぶうぶう言ったり、野次を飛ばしたりするので、彼が何と言っているのかはほとんど聞こえない。
最後に、聴衆がどちらかというと不満そうにどよめく中、ニキアスは岩から降りて、席に戻っていった。
「…………え、なんて? 終わり? ソクラテスさん、今の話、聞こえました?」
「うん、まあ要約すると、仮にこの遠征が成功したとして、遠いシケリアで支配を維持していくことはまず不可能。スパルタも決して黙っておらず、介入してくるだろう。
負けても勝っても、結局は損。アテナイが損害を被らないためのもっとも確実な方法は、遠征軍など、もともと送らないことだ……ということだったね」
「ソクラテスさんの聴力と要約力が半端じゃない件についてッ」
「しかし、ニキアスは、余計なことを言ったなあ」
「余計なことって?」
「彼はわざわざ、アルキビアデスに対して皮肉を言ったんだ。直接、名前は出さなかったけれどね。『自分が司令官に選ばれたものだから舞い上がり、どうあってもアテナイ市民を無益な戦いに巻き込もうとしている無思慮な若者。馬のことしか頭にない浪費家。国家の安全ではなく、自分の名声と利益のことしか考えていない』とね。
たぶん、この場にいる穏健派の老人たちの賛同を得ようとしての発言だろうが、さあ、こうなっては、あの子は、決して黙ってはいないよ……」
そのときだ。
議場となっている、プニュクスの丘全体がどよめいた。
今までとは明らかに異質なその空気に、ファルマキアはおっ、と呟いてつま先立った。
演壇のそばで、周囲をかためる取り巻きたちのなかから、ひとりの若者が立ち上がっている。
「おおう……あれが、生アルキビアデス!」
うわさどおりの、ものすごい美男子だ。
前列につめかけた男たちのなかには、まるで見惚れるような態度で、アルキビアデスのゆったりとした歩みにあわせて頭をめぐらせている者たちもいる。
もう少年という年齢ではないのに、いまだに崇拝者たちがいるというわけだ。
もし、民会が男たちだけでなく、女たちも参加できる場だったならば、彼の登場と同時に金切り声の声援が巻き起こり、本人も演説どころではなくなっていた可能性がある。
つややかな蜂蜜色の髪に冠をのせ、地面に引きずりそうなほど長い紫の外衣をまとった彼は、岩の真ん中に進み出ると、
「ぼくはぁ……失礼、みなさん」
小さく首をかしげ、ちょっと舌足らずな、しかし、議場のいちばん遠くにいるファルマキアの耳にもはっきりと聞こえる、おどろくほどによくとおる声で話しはじめた。
「こんな個人的な話からはじめることを、どうか許してほしいな。だって、ニキアスさんがぼくのことを言ったから、ぼくとしても、黙っておくわけにはいかないんだ。肝心の遠征についての話をはじめる前に、ぼくは、ぼくにかけられた不当な嫌疑を晴らしておきたいと思う。
みなさん、ニキアスさんは、ぼくが浪費家だって言ったけれど、それって本当かなぁ? そもそも『浪費』ってどういう意味? 『無駄づかい』ってことだよね? 僕は、そんなことしてないよ。
ぼくは、オリュンピア競技祭で優勝した。それどころか、ぼくの馬たちがひく戦車は、1位、2位、4位をまとめてさらったんだ。
これは、ぼくだけの勝利じゃない。ぼくが勝利をおさめたことで、ギリシャ全土に、アテナイの名がとどろいたんだ。そうじゃないかい? 周辺国の人々は、ぼくの勇姿を見て、どう思ったかな? アテナイの財力の豊かさ、その国力の強大さを感じ、アテナイは敵に回さないほうが利口だ、って考えたはずだよ、まともな頭さえあればね。
ねえ、みなさん、それでも、あれは『無駄づかい』だったのかなぁ? それも、アテナイの国庫に、何ら迷惑をかけることなく、すべて、ぼく個人の財産によって行ったことなのにだよ?」