悪役令嬢ですが、なぜかヒロインに攻略されそうです
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夕暮れ時の、校舎裏。
生徒も教師もあまり近寄らないその場所は、茜色に染められている。
でもその美しさに目を向ける余裕もないくらい、あたしの頭は混乱していた。
――どうしてこうなった。
「シルヴィア様、私、あなたが好きです!」
あたしの手をそっと包み込むようにして持ち、熱っぽい視線を送ってくる女の子が一人。
平民ながら貴族顔負けの高い魔力を持ち、特待生としてこの学園に入学してきた彼女の名前はアルカ。
彼女はこの世界の――いや、この乙女ゲームのヒロインだ。うん、そのはずだ。
乙女ゲームのヒロインであるはずの彼女が、どうして悪役令嬢であるあたしに告白をしてきたかというと――わからない。一体どうしてなんだろう?
そもそもこの世界は、乙女ゲームであって百合ゲームではない。
親友キャラとの友情エンドならあったけど、ライバルキャラである悪役令嬢と和解するルートも恋に発展するルートもなかった。
ゲームを何周もプレイし、完全攻略本も設定資料集も読み込んだあたしの記憶に間違いはないはずだ。
なのに、どうしてこうなった??????
「アルカ、それは何の冗談ですの? わたくし、あなたに恋心を告白される覚えなんかなくってよ」
内心の動揺をどうにか押さえ込み、手を引っ込めてつんと顎を持ち上げる。
ちゃんと高飛車なお嬢様らしく振る舞えている、はずだ。
だって五歳で自分がゲームの悪役令嬢シルヴィアに転生したことに気がついてから、シルヴィアらしくあるために毎日演技の練習と実践を重ねてきたのだから。
シルヴィアの親ですら、シルヴィアの中身の変化には気付いていないに違いない。
このゲームの悪役令嬢は、主人公が誰と結ばれようと破滅も死亡もしない。ゲーム開始時点では第一王子の婚約者候補の筆頭ではあるけれど、正式な婚約ではないから、婚約破棄もない。
下手に動いて何かを変えてしまうより、ゲームの時間が終わるまでシルヴィアらしく振舞っておくのが安全だと思ったから、アルカには冷たく当たってきた。
あたしとしては冷たい目でアルカを見下ろしたつもりなのに、アルカは怯むどころか真剣な顔でずいと身を乗り出してくる。
「冗談なんかじゃありません! 私はシルヴィア様をお慕いしています」
いやいや。
いやいやいやいや。
なんでだよ。ドMかよ。
はあー、とわざとらしくため息をつき、己の眉間を押さえる。
「あなたの周りには、優しくて格好いい殿方がたくさんいらっしゃるのではなくて?」
このゲームの攻略対象は七人もいる。もちろん全員イケメンだし、多様化している乙女の好みをカバーすべく、性格も見た目もバラエティに富んでいる。
よっぽど特殊な趣味でなければ、攻略対象のうち誰かは好みにひっかかるはずだ。少なくとも、私の友人たちには「好みのキャラが全くいない」と言う子はいなかった。
「そりゃあ、優しくて格好いい人ならたくさんいらっしゃいますけど、一番優しかったのも、一番格好よかったのもシルヴィア様です!」
そんなばかな!
あたしはヒロインをいじめる悪役令嬢役のはずだ!
高いプライドとでかい態度が格好良く見えると言われればまあわからなくはないけど、優しいは違う。
口元を引くつかせたのを慌ててひっこめる。
いかんいかん、あたしはシルヴィア・エインシュタール。こんなことで冷静な仮面を崩す女じゃない。
「わたくし、平民なんかに優しくしませんわ」
「そんなことありません! 入学してすぐの頃、魔法の下手な私の練習に日が暮れるまで付き合ってくださったのは、シルヴィア様です」
「……あ」
あれかー!
そう言われてみれば、あたしたちが入学してすぐの初めての魔法の実践授業でそんなことがあった。
でもアルカの練習に付き合ったのは優しさからではない。
ただ隣の席という至近距離で魔法を暴発させられ、身の危険を感じたからだ。
アルカが気になって観察していたから防護壁の発動もギリギリ間に合ったし誰にも怪我はなかったけれど、ぼんやりしていたら危なかったかもしれない。いや教師も防護壁を作ってくれてたけど。
『あなた、魔法が下手にもほどがありますわ。発動できないならまだしも、暴発させるってどういうことですの!?』
『す、すみません……』
『魔力だけは高いと聞いていますが、まともに扱えもしない平民に魔力があるとろくなことになりませんわね!』
シルヴィアらしくヒロインをいびろうという気持ちは多少あったものの、それ以上に「なんでよ!」とイラっとしたからついまくしたててしまった。
だってゲームでは、魔法の実践授業のミニゲームなんて超超超超低難易度だったのだ。
メトロノームのようにゆっくり揺れる針を、緑のバーに合わせて止めるだけ。ゲームの進行に合わせて徐々に針の動きが速くなってはいくけれど、それでも簡単だった。
そりゃあ実世界ではゲームのような針も色のついたバーもないけれど、だからって難しいわけではない。あのゲームのイメージでやればいける。
『杖を構え直しなさい』
『えっ』
『返事は〝はい〟だけで結構!』
『はいっ』
まさかプレイヤーに操作されていないとダメなのかこの子は? とイライラしながら、授業そっちのけでアルカの面倒を見た。
途中で教師に話しかけられたけれど、「何か?」と睨んだら教師は黙った。
そして授業のあと、
『シルヴィア様、ありがとうございました』
『は? できてもないのに帰る気ですの? 今日の授業はこれで終わりですし、できるようになるまで帰しませんわよ!』
帰ろうとするアルカをひっ捕まえて一人だけ居残らせた。
日が暮れて夕食の時間になっても魔法の練習をやらせたけれど、あたしとしては〝食事もとらせないなんて初手からいいイジメだ〟と思ってたのに。
「シルヴィア様は、自分もお腹が鳴ってるのに、私ができるようになるまで付き合ってくださって。おかげで私、次の実技授業からはちゃんとついていけるようになったんです!」
まさか感謝されているとは思わなかった。
しかもお腹の音まで聞かれていたなんて恥ずかしい。
「別にあなたのためにやったことではありませんし、あの程度で好きだと言われましても……」
「それだけじゃありません! 学園内に魔物が現れたとき、シルヴィア様は私を守ってくださいました!」
「いや、あれは……」
あの時は、攻略対象が誰も助けに来ないから、仕方なく!
学園内に魔物が現れるというイベントがあったのだけれど、本来ならばその時点で一番好感度の高い攻略対象が現れてアルカを助けるはずだった。
ゲーム内で起こるイベントであたしがどう振る舞うべきかは、誰のルートかによって多少違ってくる。だからアルカが誰のルートに入っているのか確認しておくため、イベントに合わせてアルカの近くに待機していた。
そしたら誰も来なかった。攻略対象が来ないときは親友キャラが来るはずなのに、親友キャラすら来なかった。
――なにこれ? このままだとヒロインがやられるんじゃね? それってゲームオーバーになるってこと? 待って待ってヤバくない?
脳内は大混乱だったけれど、とにかくヒロインに何かあったらゲームの展開から大きく逸れる、ということだけは間違いない。
仕方なく慌てて飛び出し、魔法で魔物を撃退したのだ。
『この程度の魔物も倒せないだなんて、特待生が聞いて呆れますわね』
そんな嫌味をしっかり言い放つことで、シルヴィアのイメージを守りつつ切り抜けたつもりだったのに。
「私を背にかばって魔物を退治してくださったシルヴィア様は、本当にかっこよかったです。私も魔物なんて一人で倒せるくらい強くなりたいなって思いました」
頬をピンクに染め上げて目を潤ませるアルカの様子を見るに、あたしの意図とは全然違う捉えられ方をしていたようだ。
他にも他にもとアルカは過去の出来事を挙げていく。どれもこれも、あたしは虐めていたつもりなのにアルカには真逆の解釈をされている。
アルカの語るシルヴィアは、どう聞いてもツンデレのいい人だ。
違う。あたしが演ろうとしてきたシルヴィア像と違う!
でも恋は盲目って言うし、ここであたしが訂正を試みたところで聞いてもらえない気がする。
シルヴィアは長々と言い訳するキャラでもないし、ここは――きっぱり断るが吉!
「大事なことを忘れていらっしゃるようなので、教えて差し上げますわ。わたくしは公爵家の娘で、この国の王太子殿下の婚約者候補筆頭です。魔力が高いだけの平民を相手にするとでもお思い?」
さあ、どうだ! ぐうの音も出まい!
しゅんと眉尻を下げたアルカを見て、若干罪悪感を覚えないでもなかったけれど、あたしは悪役令嬢シルヴィア、この程度でほだされるもんですか!
「はい、釣り合わないことはわかっています……」
ほらみろ!
「ですが、この国の王族や貴族には愛人を持つことが認められていますよね。私をシルヴィア様の愛人にしてください!」
――なんでだよっ!
夫どころか正式な婚約者もいないのに、愛人に立候補するってどういうこと。
確かに愛人を持つことは認められているけれど、あたしは愛人なんて持つ気はない。
でも真剣な顔つきで、目をうるうるさせながら見つめられると怯みそうになる。
か、かくなる上は――逃げよう!
「とにかく、わたくしはお断りですわっ」
身を翻して駆け出すと、背後から「私、諦めませんから!」という声が聞こえてきた。
◇
昼休み、食堂に向かおうと廊下に出たら、アルカに前を塞がれた。
「シルヴィア様、私とお弁当食べませんかっ?」
告白してきたとたん、ぐいぐい来るなあ。
アルカの腕には二つの弁当箱が抱かれている。彼女はゲームでも毎日手作りのお弁当を食べていたから、二つ作ってきたということなんだろう。
「お断りしますわ」
ふいっと顔を背けて歩き出したけれど、
「今日の唐揚げは自信作なので、ぜひ!」
という声につい足を止めてしまった。
唐揚げ。
庶民の、唐揚げ!?
公爵家の食事もこの学園の食事も、この世界に来てから食べてきたものはいつも〝お上品な洋食〟だ。
日本で食べてきたジャンキーなポテトや唐揚げが食べたくて実家のシェフにリクエストしてみたことはあるけれど、何度頼んでも上品な料理に仕上げられてしまって、あたしの期待と違うものしか出てこなかった。
いや、貴族の食事としては正しいんだろうけど。
アルカとお弁当を食べる気はない。でも、唐揚げ。唐揚げかあ……。
ゲーム内のスチルの一つにアルカのお弁当が描かれていたのを思いだす。
ごはんの代わりにサンドイッチが入っていたので洋風感はあったけれど、プチトマトとかオムレツとか唐揚げとか、日本人にも馴染みのあるお弁当メニューだったはず。
攻略対象のうち何人かも、アルカのお弁当を食べて美味しいと言っていた。
うう、唐揚げだけでいいから食べたい。
「ちょっとあなた、平民の分際でシルヴィア様にお弁当ですって? 図々しいにもほどがあるわ!」
背後からクラスメイトの声が割り込んできたので、慌てて振り返る。
クラスメイトの一人がアルカの持つお弁当に手を伸ばしていた。
「ちょっとシルヴィア様に優しくされたからって、調子に乗るんじゃないわよ!」
あたしはアルカに優しくした覚えはないっ!
いや、違う違う、そうじゃなくて、唐揚げのピンチだ。こういうお決まりのセリフの後に何が起きるかなんてわかりきっている。
アルカからお弁当を奪って腕を振り上げたクラスメイトに早足で歩み寄り、彼女の手首をつかんで止めた。
「およしなさい。由緒正しき学園の廊下を、平民の食べ物なんかで汚すおつもり?」
「シルヴィア様……!」
「それからアルカ、先程も申し上げましたが、わたくしはあなたとお弁当を頂く気はございませんわ」
そう言ってから、クラスメイトの手にあるお弁当箱をそっと手に取る。
唐揚げは食べたい。でもこのお弁当を貰うのはシルヴィアらしくない。
どうしよう、どうすれば――はっ!
あたしは手に取ったお弁当箱を肩のあたりに雑に掲げると、ふんと鼻を鳴らした。
「こちらは飼い猫の餌にでもいたしますわ。平民の食べ物の扱いなんてそれで十分でしょう?」
ぽかんという周囲の視線を浴びながら、逃げるようにその場を後にする。
歩きながら気がついた。
やっべ、この学園、ペット持ち込み禁止だった。
しかもあたしに飼い猫なんていない。
◇
「シルヴィア様、今日は私とお弁当食べませんか?」
昼休みになったので廊下に出たら、アルカに声をかけられた。
あれ、なんだこれデジャヴュかな? と、思ってしまうくらい昨日と同じシチュエーションだ。
あからさまにため息をついて見せ、アルカをじっと見下ろす。
「食べません。昨日もお断り申し上げたでしょう」
「今日も唐揚げありますよ」
「あなたね……」
食堂で控えめにランチを食べてから、自室でこっそり食べたアルカのお弁当は美味しかった。ああ攻略対象たちの称賛コメントはお世辞じゃなかったんだな、と実感する程度には。
また食べたいと思う味ではあったけれど、毎日二食分のランチを食べていたら確実に太る。
「あんな油っこくて味の濃いもの、毎日食べてたら肌が荒れますわ。毎日毎日作ってこないでください」
腕を組むことで拒否を態度で示しつつ、冷たく言い放つ。
あたしの予想に反して、アルカはぱぁっと顔を輝かせた。
「やっぱり食べてくださったんですね! 週二回ならどうですか? 次はもっと薄味にしますね!」
「えっ、ち、違いますわ。あれはその、わたくしではなく猫――いえ、使用人が食べたのです」
「でも、お弁当箱を返しに来てくださった使用人さんが〝とても美味しそうなので私も食べたかった〟と仰っていましたよ」
ノイラ! あいつ余計なことを!
あたしが食べたことは内緒にしろって言ったのに!!
いや命令どおり、あたしが食べたことは言ってないのかもしれないけど。
次は余計なことは何も言うな黙って返せと命令しなくては――いや、違うそうじゃない。
次がないように行動するんだ。唐揚げの誘惑に負けるなあたし。
「……どうかした? 何かトラブルかな?」
背後から聞き覚えのある澄んだ声が聞こえてきて、さっと振り返る。
なんでここで王子が出てくんの、と心のなかで悪態をつきながら、体は優雅な礼をとる。アルカや周囲の生徒たちも皆慌てて礼をとったのが視界の隅に映った。
顔はすぐには上げない。王族には、許可を貰えるまで頭を下げ続けるのが礼儀だからだ。
学園内でいちいち礼を取っていたら王子も皆も大変なので、学園内では免除されているけれど、シルヴィアは礼をおろそかにするタイプじゃない。
「いいよ、楽にして」
王子にそう言われてようやく、あたしも周りの皆も顔を上げた。
金色の捲毛に、スカイブルーの瞳。可愛らしい顔立ちの彼は、一部のファンの間では〝天使王子〟と呼ばれていた。見た目も中身も天使だから。
中身が見た目どおりのいい子すぎて物足りないって言う友達も、いい人すぎて治世が心配って言う友達もいたけれど。
穏やかな笑みを浮かべる王子の背後では、涼しい顔の従者が控えている。
王子の護衛として王宮の近衛兵も何人か学園に来ているらしいけれど、王子にぴったりくっついている護衛はいつも従者一人だけだ。
王子が進み出て、あたしの正面に立つ。
ふわっとした笑顔で王子が首を傾げた。
「何か困っているなら、僕でよければ力になるよ。君は僕の婚約者なのだから」
「婚約者〝候補〟ですわ。こんな言い間違いをなさるなんて、王宮の外だからと気が緩んでらっしゃるのではなくて?」
「手厳しいな」
「主の過ちを正すのは、臣下の務めでございますので」
あたしの注意の何が面白かったのか、王子が肩を震わせて笑う。それからあたしの奥にいたアルカに目を向けた。
「アルカ、君は……シルヴィアの愛人に立候補したって聞いたけど」
「はいっ。将来お世話になります、よろしくお願いします!」
元気に答えたアルカが深々とお辞儀をすると、王子が微笑みを困ったようなそれに変えた。
はあ、と額を押さえてから、腕を組んでアルカを見下ろす。
「何もかも決まっているかのような物言いはおよしなさい。まず、殿下の婚約者が決まるのは一年以上あとのことです。他にも候補がいらっしゃるというのに、学園の中とはいえそのような発言は不適切です。それから、わたくしはあなたを愛人にすることを承諾した覚えもありません」
「でも、シルヴィア様がふさわしいと思いますし、私は愛人の座をまだ諦めてません!」
「だから発言に気をつけなさいと言っているでしょう!」
アルカみたいな平民なんて、ちょっとしたことで簡単に首が飛びかねないのに、わかってないのか? いや、わかってないからこんなことを平気で言うんだろうけど。
王子が困ったような笑顔のまま、アルカに目を向けた。
「アルカ。シルヴィアは君の身を案じて指摘してくれているのだから、そこは素直に聞くべきだよ」
ちげーよ。
何言ってんだこいつは。
目を瞬いたあたしをよそに、アルカもはっとしたような顔をして「すみません、シルヴィア様……」と目を潤ませながらこちらを見てくる。
何度でも言う。
ちげーよ。
いや、ゲームの時間が終わるまではヒロインに何かあっては困るから、まるっきり間違っているわけではないんだけど……。
「でも、愛人か。国の制度として許可されているから、僕が否定するわけにはいかないのだけれど」
王子が今度はあたしに向き直る。
「僕としては、あまりよそ見をされたくないものだね」
何言ってんだおまえ。
ゲームのどのルートでも、王子はシルヴィアに対して良い感情は持っていなかったはずだ。
なのにどうした? 周囲に人が多いから、婚約者候補との仲は良好ですよアピールか??
まあ王家と公爵家の関係は良好に保つべきだろうし、王子って大変だな。
「話を戻すけど、困ってるなら助けになろうか?」
王子が言う。
助けになるってどう――ん? おいおい。生徒同士の些細な話に国家権力が出てきてどうするよ。
ヒロインのアルカを助けに来たんだろうか? でもそれならアルカに向かって話をするはずだし、何より魔物の襲撃の時に王子は現れなかったしなあ……。うーん。
まあ、とにかく断ろう。関わってこられると逆に面倒なことになりそうだ。
「結構です。殿下はご自身の影響力の大きさを再認識なさったほうがよろしいのではなくて? それに、わたくしがこの程度のことも自分で対処できないとお思いなのでしょうか」
「僕はただ君に助けになりたかっただけなのだけど――でも、君の言うとおりだね。わかったよ」
苦笑した王子が、アルカをちらっと見て「君も、お手柔らかにね」と声をかけてから立ち去っていく。
アルカが「はいっ、手はやわらかいです!」と明後日の返事をしたせいで、周囲からちらほらと笑い声が聞こえてきた。
◇
「シルヴィア様、次のテストまで勉強を教えていただけませんか?」
「アルカ、あなた……」
何冊もの教科書を抱えて話しかけてきたアルカに、あたしは肩を落とす。
弁当攻撃は週二回に減ったものの、アルカは毎日毎日何かしら話しかけてくる。
このゲームで誰かを攻略するためには、暇さえあれば攻略対象に話しかけに行って好感度をちまちま上げていく必要がある。こんなにあたしに話しかけてばかりでは、攻略対象たちの好感度なんて全然上がっていないのではないのだろうか。
――いや、薄々気づいてはいる。
最も好感度の高い攻略対象が現れるはずだったイベントでアルカを助けたのはあたし。そしてアルカが毎日話しかけているのもあたし。
アルカは悪役令嬢を攻略するルートを着々と進めているのではないのかな。
そんなルート、ゲームにはなかったけど。
「お願いします。私、いっつもテストで赤点で……次のテストで一科目でも赤点とったら留年だよって先生に言われてしまいました」
「は?」
え? は? え?? は??????
ヒロインが留年? そんなことある??
私の操作していたアルカは、二周目以降の定期テストで常に満点をとらせていたから、アルカに勉強ができないイメージはなかった。
毎回赤点だなんて、まさか本当に、この子はプレイヤーに操作されていないとダメな子なんだろうか?
ダンスの実技も見られたものではなかったし、魔法の実技以外ズタボロってこと?
「アルカ、あなた自分の立場がわかっていますの? 平民ながらもこの学園に入学を許されたのは魔力あってのことですが、勉学をおろそかにしていては退学だってありえますのよ」
「うう……」
しゅんと眉尻を落としたアルカを見て、あたしはため息をつく。
どうすっかなー。ここで素直に応じるのはシルヴィアらしくない、が、かといってアルカを放置すると本当に留年か退学になりかねない。
ゲームの時間が終わる来年の春までは、留年も退学もやめてほしい。
「あなたの成績など、わたくしの知ったことではありません。わたくしはテストまで自習室で勉強をしますので、邪魔しないでください」
「えっと……あっ、じゃあ私も自習室で勉強しますね!」
「あなたの予定なんて知りませんわ」
「はいっ、勝手にします!」
ニコニコと満面の笑みを広げるアルカは、ゲームのスチルで見たより可愛い。
この笑顔ならどの攻略対象でもオトせるだろうに、なんであたしのとこに来るかなあ。
「シルヴィア様、できれば私、テストのあとにご褒美がほしいんですけど……赤点を一つも取らなかったら、学園祭、一緒に回ってくれませんか?」
そう言って、アルカが身を乗り出してくる。
勉強を始める前からご褒美のおねだりかいっ。
「結果を出してからお言いなさい」
とりあえず回答は保留しよう。
そう思ったのに、さらに顔を輝かせて「はいっ」と返事したアルカは、今の私の返事を〝イエス〟と受け取っていそうだ。
「私、頑張りますね。シルヴィア様っ」
アルカは嬉しそうにしているけれど、あたしはいいよなんて言ってない。
でも学園祭のイベントのことを考えると、あたしはアルカと一緒にいなきゃいけない気もする。
うーん。学園祭までは少し時間があるし、どうするかはゆっくり考えよう。
シルヴィアをしっかり演じるためには、学年上位の成績をキープしないといけないのだ。あたしも真面目に勉強しなくては。
自習室は全生徒に開放された部屋ではあるけれど、自室で勉強する生徒がほとんどだから、テスト前であっても席はスカスカだ。あたしも過去に利用したことはない。
座る場所なんか選びたい放題なのに、当然のような顔でアルカはあたしの隣で勉強を始めた。
「シルヴィア様、ここの計算教えて下さい」
「それは……、そんな簡単な問題も解けないなら、教科書の三章七節の解説を読み直してから、五十八番から六十一番の例題を解いてはいかが?」
「三章七節……これですね、ううーん」
とか、
「シルヴィア様、歴史の人物が覚えられません」
「教科書で足りないなら、図書室で伝記なり詳細な歴史書でも読めば頭に残るのではなくて?」
「今からテストまでに読みきれません……」
「それは厳選して――、……はあ、わたくしが読んだことのある本のリストを差し上げますから、借りていらっしゃい」
「はい!」
とか、アルカが話しかけてくるのに応対しているうち、自習室を使う生徒が徐々に増えていった。
同じクラスの生徒も他のクラスの生徒も、なぜか自習室に来てはあたしに質問にくる。
わからないことがあるなら教師に聞けばいいし、アルカと違って貴族の皆は一時的に家庭教師を雇うこともできる。これまでのテスト勉強だって、皆そうしていたはずだ。
話しかけてはこないけど、王子まで自習室に来るものだから、外から中の様子を伺う生徒まで出てきて自習室の中も外も狭く感じる。
「シルヴィア様、やっぱり歴代宰相様の名前が覚えられません。何かコツはないですか?」
「あのう、私は名前は何とか覚えたのですが、いつも頭の中で順番がぐちゃぐちゃになってしまって……」
複数のクラスメイトからそう話しかけられて顔を上げると、話しかけてきた生徒以外も何人かがあたしを見ていることに気がついた。
歴代の宰相より王のほうがはるかに重要だし、過去の宰相の名前なんてテスト範囲の狭い定期テストくらいでしか必要ない知識ではある。でも定期テストで出る以上、赤点を回避できれば上々のアルカはともかく、高成績を狙うなら宰相も覚えないといけない。
「コツなんてありませんわ。努力が足りないのではなくて?」
ふいっと顔を背けつつ、心の中では「わかるー、あたしもめっちゃ苦労したー!」と同意する。
写真のないこの世界の本は、文字しか印字されていない。
似たような名前も多いし、文字だけで覚えろっていうのが無茶だと思うんだ。
「皆様のお宅には、肖像画もないのかしら? 我が公爵家には歴代の王だけでなく要人の肖像画も保管されておりますのよ。例えば今回のテスト範囲のだと、第三十二代の王に仕えたラングラム様は幅の狭いちょび髭が特徴的ですわね」
「……ちょび髭?」
あれ、伝わらなかったか?
あたしはノートの上のほうに小さな丸を書き、点々の目と幅の狭いちょび髭を描く。うん、だいたいこんな感じ。ついでに丸の下に〝ラングラム様〟と名前も書いておく。
「その次のエルハルト様は髭の幅が口の幅まで広がりますわ」
ラングラム様の隣にもう一つ丸を書き、点々の目と、幅が広めのちょび髭を描く。また〝エルハルト様〟と名前も書いておこう。
「さらに次のジェニトリー様は、ええと……どういう言葉で表現すればいいのかしら。ジェントル髭ですわね」
ジェントル髭というのは、あたしが今適当に呼んでみただけで本当は何と呼ぶべきかは知らない。
漫画とかアニメにたまに出てくる、〝ザ・ジェントルマン〟って感じの男性キャラクターがよく生やしている、左右の端がくるんと丸まっている感じの髭だ。
エルハルト様の隣にまた丸と、点々の目と、ジェントル髭、名前を描く。
「ブフッ」
ふきだす声が聞こえて顔を上げると、あたしの手元を見ている皆が口元やお腹を押さえて震えていた。質問してきた子たち以外もあたしのノートを見て笑っている。
そ、そんな変な絵か?
「君は……なかなか可愛らしくて面白い絵を描くね」
「!?」
振り返ると、王子もあたしのノートを見下ろしながら笑みを浮かべている。
慌てて立ち上がって礼をしようとしたけれど、「礼はとらなくていいよ」と王子に言われてやめた。
「この絵、僕が貰ってもいいかな?」
「そ……っ、そんな落書きはおそれおおくてお渡しできませんわ」
「落書きでも、僕はこれが欲しいな」
なんでだよ! いらないでしょ!!
こんなの人にあげたくはないけれど、シルヴィアの立場を考えると、王子に求められて断るわけにもいかない。
仕方なくノートを丁寧に破いて渡すと、王子は「うん、ありがとう」と言ってまだ肩を震わせて笑いながら去っていった。
「シルヴィア様、私も今の絵、欲しいですっ!」
「アルカまで何言ってますの!? もう描きませんわ!」
アルカにも他のクラスメイトにもまた描いてほしいと請われ、何なんだと思いながら結局もう三セットの宰相たちを描かされたのだった。
◇
「――と、いうことがあったんですの。皆して人の絵で笑うなんてひどいですわ」
寝る前のお風呂タイム。
湯船の外であたしの髪を洗ってくれているノイラに愚痴をこぼすと、ノイラは「お嬢様は画伯ですからねえ」と笑いを隠さずにそう答えた。
画伯って何だ、下手って意味か? 主に対して失礼な。
ノイラのこういう、あたしの顔色を伺ってこないところが気に入って連れてきたんだけど、今のはちょっと傷ついた。
「楽しそうで何よりです。お嬢様には親しいお友達もいらっしゃいませんでしたし」
「……友達がいないのは、わたくしの選択ですわ」
「はいはい」
「負け惜しみではなくってよ!」
弁解してみたけれどノイラは聞き流している。
これ以上はやめよう。への字になった口を隠すように、顎を湯につけた。
別に、楽しくは――……その、楽しかった、けど。
ノイラの言う「友達がいない」のはそのとおりだ。ゲームのシルヴィアに取り巻きはいなかったはずだし、家柄だけで寄ってくる子と一緒にいるのも疲れるし。
こちらからは極力誰にも話しかけず、話しかけられてもシルヴィアらしく冷たく返してきたから、友達なんてできるわけがない。
アルカくらいだ。毎日毎日、無邪気な笑顔で話しかけてくるのは。
友達とテスト勉強なんて前世ぶりだったから、思い返してみると少しはしゃぎすぎたかもしれない。
アルカにも他の生徒たちにも、普通に勉強を教えてしまった。これじゃあゲームのシルヴィアっぽくない。
でも、肝心のヒロインがゲームと違う行動をとっているのに、あたしがいつまでもゲームのシルヴィアらしくふるまい続ける意味なんてあるんだろうか?
「お嬢様はすぐにややこしい言い方をされるので心配していたんですよ。ちゃんと理解してくださる方がいらっしゃったみたいで何よりです」
「……ん?」
顔を上げると、ノイラがにこにこしながらあたしを見下ろしていた。
「わたくしはツンデレではありませんわ」
「ツンデレって何ですか?」
「いくつかパターンはありますが、典型的なのは普段ツンツンした態度なのに時々優しい、みたいな人のことですわね」
「じゃあ、言い方はキツイけど話している内容は優しい、みたいなパターンは?」
ちょっと考える。
あたしの思うツンデレとはちょっと違うけれど、言い方のキツさがツンで中身の優しさがデレだとすれば、まあツンデレの一種かな。
「それもツンデレかもしれませんわね」
「お嬢様は昔からそんな感じですよ。自覚なかったんですか? 付き合いの長い者は全員知ってます」
「違いますわ!」
「はいはいツンデレツンデレ。……あ、次からこれでいこ」
「あまり調子に乗ると屋敷に送り返しますからね!?」
ばしゃばしゃと水面を叩いて抗議したけれど、ノイラには「そろそろ頭流しますよー」とスルーされた。
◇
学生のほとんどが王族や貴族の子というこの学園の学園祭は、あたしが前世で通っていた学校のそれとは大きく違うところがある。
前世での学園祭は各クラスや部活ごとに出し物をしていた。けれどこの学園では生徒が出し物をすることは稀で、基本的に外からプロを呼ぶ。
シェフを屋台に呼んで調理させ、劇団を体育館に呼んで上演させる。近くの街からカフェも出張させるし、生徒はただ遊ぶだけだ。
ゲームで何度も見たから知っていたけれど、現実にその場に立ってみると、学園祭というより学校内で開かれた縁日に来たような気分だ。
基本発想が〝自分たちの手で創意工夫する〟ではなく〝金を払って他人にやらせる〟なんだよなあ。
「普段の学園とは違う雰囲気で、わくわくしますね。シルヴィア様っ」
あたしが白けている一方、隣ではアルカがはしゃいでいる。
前回まで赤点ギリギリだったというアルカは、この間のテストでは全科目で平均点を越えてきた。
疑問に思って教師に確認したけれど、アルカが赤点続きだったのも直近のテストで突然平均点を越えたのも嘘ではないらしい。
アルカはやればできる子だったようだ。じゃあ今まで何してたんだ?
「お祭りだからって浮かれすぎないように。ちゃんと杖は持ってきていますね?」
「はーい」
「いいですか、祭で外部の方がたくさんいらっしゃるということは」
「〝悪い人が紛れ込まないとも限らない〟ですよね。もう何回も聞きましたよ」
「……わかっているなら、よろしいですわ」
あたし、そんなに何度も言ったかな。
アルカが珍しく呆れたように言ったので、過去のアルカとのやりとりを思い返してみると――うん、確かに何度も言った。
だって今回の学園祭では、悪い人が〝来るかも〟ではなく〝確実に来る〟なのだから。
前にアルカが魔物に襲われたイベントは、侵入者たちの下準備だった。今回は本格的に、学園に保管されている古書を奪いに来る。
ゲームなら、ヒロインの育成状況によって少しイベントの展開が変わる。攻略対象に守ってもらってキュンキュンするもよし、鍛えたヒロインと攻略対象の共闘に熱くなるもよし、だ。
まだ納得しきれていないけれど、もし仮に、アルカが悪役令嬢の攻略ルートを進んでいるのだとすると、このイベントでアルカを守らなきゃいけないのはあたし。
ちょっと怖いけど、自分の身を守るためにもやらなくちゃ。あたしは気合を入れ直したのに、
「どこから回りますか、シルヴィア様。スイーツなら西側のこことここ、食事ならこっちとこっちが美味しいらしいですよ!」
アルカは学園祭のしおりを広げてニコニコしている。
「休憩したくなったら言ってくださいね。カフェも五店出張に来ているそうですが、休憩用に開放されている教室もチェックしておきました」
アルカの持っているしおりには、丸や細かい文字がたくさん書き込まれている。教科書はあんなに真っ白だったのに……。
「よっぽど学園祭が楽しみだったんですのね」
「そりゃあ、シルヴィア様との初デートですもん! 下調べくらいしますよっ」
デート。
……そっか、デートか。女友達と遊ぶような感覚でいたけれど、確かに学園祭はデートイベントだった。
そういえば、シルヴィアになってからデートなんて初めてかも。デートだと思うと、なんか急に恥ずかしくなってくる。
あたしを見て一瞬きょとんとしたアルカが、突然あたしの腕に絡みついてくる。
「意識してくださったんですか? 照れるシルヴィア様も可愛いですっ」
「別に照れてませんわ!」
アルカから顔を背けたら、王子が校舎から出てくるのが見えた。王子があたしたちに気付いて足をこちらに向けてきたので、アルカに合図をしてから頭を下げる。
足早に歩いてきた王子の許可を受けてから顔を上げる。王子の一歩後ろには今日も無愛想な従者が一人控えていた。
「邪魔をして申し訳ないんだけど、シルヴィアと二人で少し話せるかな」
「わたくしと?」
王子に請われて断るという選択肢はない。襲撃者が来るタイミングははっきりとはわからないけれど、ゲームでは学園祭で少し遊んでからだったし、すぐ戻れば大丈夫かな。
アルカをちらっと見ると、アルカが「あ、はい、ごゆっくり……」としょげた顔で下がる。
「ごめんね、アルカ。シルヴィア、そこの空き教室まで来てもらっていい?」
「承知しました。では、アルカはこのあたりで待っていていただける?」
「はい……」
アルカを残して校舎に入る。空き教室の前まで来ると、王子は従者を廊下に残して一人だけ教室に入っていった。あたしもそれを追って教室に入ると、従者が外から扉を閉める。
話って何だろう?
ゲームで王子が二人っきりで話したいと言ってきたときは、場所もシチュエーションも全然違うけど、ヒロインに王子の気持ちを告白する恋愛イベントだったような――えっ、えっ、そういうアレじゃないよね!?
「で、シルヴィア。気を悪くしないで聞いて欲しいんだけど――」
「えっ、ひゃいっ」
動揺しすぎて噛んだ! はずかしいっ!!
目を丸くした王子が、ふっとふきだし、肩を震わせて笑う。
「シルヴィアでも、そんな風に噛むことがあるんだね」
「笑わないでください」
「ごめんごめん」
しばらく笑ってから、ようやく落ち着いたらしい王子が咳払いをする。
「ええと、それでね。君がここのところ、〝学園祭に賊が入ってこないか警戒した方がいい〟というような話をしているって、教えてくれた人がいるんだけど」
「え」
「気を悪くしないで欲しいんだ。その人は立ち聞きした君の話を告げ口したかったわけではなくて、懸念があるなら僕は学園祭の間はあちこち出歩かないほうがいいんじゃないかって、心配してくれただけだから」
「あ、ああ、別に、その程度で気を悪くなどしませんわ」
恋愛のレの字もない、真面目な話だった。
自意識過剰で恥ずかしい。アルカがデートだとか何とか言うから、ちょっと頭が恋愛モードになってたじゃないのよ。もう! シルヴィアにそういうのないから!!
「この学園には貴族の子供たちが通っているから、誘拐や暗殺を警戒して、学園祭の際には特に厳重な警備が敷かれている。それくらいのことは知っているはずの君が随分警戒しているようだから、気になってね」
「いや、それは……」
ゲームで実際に襲撃者が来ていたから絶対来ると思ってるんだけど、どう説明すればいいんだろう。
「もしかして、何か知っているの?」
「えっ」
真面目な表情で見つめられて言葉に詰まった。
知ってるって、何を? 王子は何を想定して聞いてるんだろう? あたし何か疑われてる?
そりゃあゲームの設定とかエピソードとか、いろいろ知ってるけど!
「何か知っているのかな、とは思うけど、その割に表立って行動もしないし、どうしたの? 何か話せない事情があって困っているなら、相談に乗るよ?」
心配そうに見つめられ、また反応に困る。これは――ただ純粋に心配されてる?
疑われているかもだなんて、また自意識過剰だったかな。さすが〝天使王子〟だ。悪役令嬢みたいなライバルキャラにまで優しい。
一度落ち着こう。自意識過剰は自重しよう。あたしはシルヴィア、このゲームのライバルキャラ!
「別に、そういうことではございませんの」
頬に手を当て、ふうと息を吐く。鏡の前で何度も練習した、シルヴィアらしい仕草の一つ。それだけでいつもの調子が戻ってきたのを感じる。
「先日魔物が学内に侵入したことが気にかかっているのです。あれで終わりのような気がしなくて。でも特別何か確信があるわけでもございませんし、そんな不確かな理由で皆に気をつけろなんて言えませんわ」
「あの魔物騒ぎのあと、学内に不審な魔法の跡がないか調査されて、何も見つからなかったと報告を受けているけど」
「そうですわね。だから本当に、個人的な不安でしかありませんのよ」
我ながら悪くない言い訳だ。……たぶん。
ゲームのイベントを未然に防ぐと何が起こるかわからないので、教師たちには何も言わなかった、というのが正直なところだけど。
「そう……それならいいんだ。時間を取らせて悪かったね」
王子がそう言って、穏やかな笑みを広げる。
「僕も気にはなるから、近衛達にも学内の警戒に当たらせておくね。それから前も言ったけど、何かあったらいつでも頼ってくれると嬉しいな」
「気にかけていただいて光栄ですわ。ありがとうございます」
目を伏せて頭を下げる。子供の頃に叩き込まれた貴族の礼。シルヴィアらしく、きっちりお手本どおりにできているはずだ。
うん完璧。自画自賛していたら、王子はなぜだか笑みを困ったようなそれに変えた。
「ねえ、シルヴィア。もし僕が、今日――」
「今日?」
礼を崩して顔を上げる。
王子の口が開いたけれど、王子はすぐに目をそらしてしまって何も言わない。少ししてようやく、あたしに視線を戻してきた。
「……今日は、アルカと学園祭を見て回るんだよね」
「ええ、その予定ですが」
「後夜祭のダンスは誰かに誘われてる?」
「いえ、特には」
そういえば後夜祭のことは考えてなかったな。
後夜祭では自由参加の野外ダンスパーティーがあって、ゲームだとアルカは攻略対象と踊っていた。でもあたしとアルカは女同士だし、ステップが合わなくて踊れはしないだろう。親友ルートではダンスを見ながら二人で料理を食べていただけだし、そうなるのかな。
「じゃあ、最初のダンスパートナーを僕が予約しても構わないかな?」
そう問われ、わずかに首を傾げる。
強く断る理由は特にないけれど、なんであたし?
「あまり一人の婚約者候補に肩入れされないほうがよろしいのでは?」
「婚約者候補以外に声をかけるほうがややこしいよ。君は婚約者候補の筆頭だし、っていうのは言い訳かな」
まあ、そっか。妃に据える気もないのに婚約者候補以外と最初に踊るなんて、変な誤解をされかねない。
そういう意味では、学園祭とはいえあたしも王子以外と最初に踊っちゃいけないな。立派なパーティでは気にしていたけれど、後夜祭だってダンスはダンスだ。
「君も承知していると思うけど、王族や貴族の婚約は結婚はそうそう自由になるものじゃない。それなら婚約者が正式に決まるまで、せめてこの学園にいる間くらいは、ダンスの相手くらい自由に選んだっていいだろう?」
「はあ……」
ん? あれ? 婚約者候補以外にダンスを申し込むわけにはいかないって話じゃなかった?
あ、最初は文句のつけにくい相手と踊っておいて、二人目以降を自由に選びたいってこと?
なるほど、あたしは風避けね。オーケーオーケー。
「では、お受けいたしますわ」
「うん。……じゃあ、また後でね。時間を取ってくれてありがとう」
失礼しますと礼をしてから下がる。
廊下から窓の外を見ると、生徒たちは皆それぞれに学園祭を楽しんでいるようだ。
うん、急いでアルカと合流すればイベントの発生には間に合いそうだ――と思ったのに、元の場所にアルカはいなかった。
◇
あの子どこ行った!? 待っててって言ったのに!
すぐに戻ってくるかもと少し待ってみたけれど、アルカは帰ってこない。通りかかったクラスメイトに聞いてみたけれど、見てないと返されて終わりだった。
何だろう? 何かイベントが起きてる?
学園祭のイベントは攻略対象によって展開がだいぶ違ったけれど、攻略対象とはぐれるようなパターンはなかった。
攻略対象の誰かに誘われて出かけたとか? でも、アルカは誰のルートも進めていなさそうだったし、アルカを誘いそうな攻略対象に心当たりがない。
親友キャラに話しかけられて移動した、ならありえるかな?
親友ルートなら、魔物や侵入者に出くわすことはなく〝騒ぎがあった〟ことを知るだけだ。それなら心配しなくていいけど、親友キャラと出かけたかどうかなんてわからない。
今の状況はゲームになかった展開で、アルカが魔物や侵入者に出くわすかどうかはわからない。
何事もない可能性も十分にある。でもこのままだと最悪、一人で魔物か侵入者に出くわす可能性もある。でも一人で探し回るには学内は広すぎる。どうしよう、どうしたら――
――何かあったらいつでも頼ってくれると嬉しいな。
王子のその言葉を思い出し、空き教室に駆け戻る。時間が経っていたけれど、王子はまだその教室に残っていた。
王子は紙を一枚広げ、いつも連れている従者と、あたしには見覚えのない騎士と、三人で何か話をしているようだ。あたしが教室の戸を開けると、三人とも揃って意外そうな顔を向けてくる。
「シルヴィア、何かあった?」
「あ、その、アルカがいなくなってしまって……」
そこまで言ったところで、あたしは王子に何させようとしてんのよ、と我に返る。
従者にも「殿下に平民を探すのを手伝えとでも言うつもりか」と睨まれる。それな。そんなの、王子に頼むことじゃない。
でも王子は、
「そっか。今から近衛たちに学内の見回りをしてもらおうと思ってたんだけど、アルカを見かけたら連絡をもらえるようにするね」
そう言って、穏やかに笑った。逆に従者が眉尻を釣り上げる。
「殿下のなさることではないと思いますが」
「配置は変えない。見回りついでに、僕の友人がいたら僕に教えてほしいって、それだけだよ。ルシアス、頼んでいいかな? アルカの特徴はわかる?」
「……は。それらしき少女を見かけたらご報告いたします」
あたしのほうから声をかけておいて何だけど、王子や王子の近衛兵の人たちに頼むような話ではない。
あたしはゲームを知っているから、魔物や侵入者が来るって信じてる。でもあたし以外の人からすれば、あたし一人が不安がってるだけに見えるんじゃないかな。
「あの……よろしいのでしょうか」
おずおずと聞いてみる。王子はやっぱり穏やかに笑っていた。
「うん。だって、君が不安なんでしょう?」
王子が騎士に目を向けると、騎士は無言で頭を下げてから教室を出ていく。
王子の近衛兵の見回りなんて、ゲームにあったっけな? ゲームでは描かれなかっただけかもしれないけど、ゲームでは一度も遭遇しなかった。
「僕の連れてる兵だけで広い学内全ての場所の見回りができるわけじゃないから、僕らはそれ以外の場所を見に行こうか。アルカが行きそうな場所に心当たりはある?」
「そんな、殿下に探していただくわけにはいきませんわ」
「君は探しに行きたいでしょう? 僕が一緒じゃないと、アルカが見つかっても連絡が来ないよ。さ、行こう」
王子に促されるまま廊下に出る。王子の従者が不満げな顔で後ろからついてきた。
ありがとうございますとお礼を言うと、どういたしましてと王子はやっぱり笑った。
◇
王子と一緒にアルカを探し回って、ようやく彼女を見つけたのは、校舎から遠い第二運動場の近くだった。
学園祭の本会場からも随分離れてしまったので、楽しげな声が遠い。
アルカは祭の声に背を向けて、一人で空を見上げていた。
「アルカ!」
アルカに近づいて声をかける。
振り向いたアルカは、あたしと目があった途端に顔を強張らせ、ぱっと身を翻して駆け出した。
なんで逃げる!?
「ちょっと、お待ちなさい!」
「嫌ですー! 聞きたくないですー! 私みたいな平民にわざわざ断りに来なくていいですよう!!」
「何を言っているのかわかりませんわ!」
アルカの足が速いうえ、あたしのヒールの高い靴も丈の長いスカートも走りにくい。
アルカの背が遠ざかっていくのに焦りを覚えて速度を上げようとしたら、地面の石に足を取られた。
「きゃっ」
思いっきり転んで、肘も膝も強く打ち付ける。痛みに耐えながら立ち上がろうとしたら、近くの茂みががさりと鳴った。
音のしたほうに目を向けると、一体の魔物と目が合った。
「えっ――」
なんでアルカじゃなくてあたしのほうに出る!?
とっさに杖を取り出そうとしたけれど、転んだ体勢だったからもたついた。
攻撃なんかよりまず逃げなきゃ!
魔物が大きく口を開ける。口の中に火の玉が生成されていくのを見て、さあっと血の気が引いた。
「シルヴィア様!」
「シルヴィア!」
魔物の口から炎が放たれた瞬間、咄嗟に目を閉じた。
でもあたしのすぐそばでドンと音が鳴ったかと思うと、熱が四散する。
そうっと目を開けたら、あたしの前に土の壁があった。え? なんだこれ?
「シルヴィア様、大丈夫ですか!?」
あたしに駆け寄ってくるアルカも王子も、二人とも杖を握っている。立ち上がって周囲を見ると、もう魔物の姿はなかった。
「あの、魔物は……?」
「魔物なら私が倒しました!」
アルカがぐっと杖を握る。
えっほんとに? アルカが魔法の実技授業についていけるようになったという話は聞いたけれど、魔物をソロ討伐できるほど腕を上げていたとは思っていなかった。授業でそこまでの力、発揮してなかったじゃない?
「ではこの壁も?」
「それは……」
アルカが王子に目を向けたので、つられて彼を見たけれど、王子は無言で微笑しただけだった。
げっ、攻略対象にライバルキャラを助けさせてどうすんの!
慌てて王子に頭を下げ、できるだけ丁寧にお礼を言う。王子は「君が無事で良かった。怪我はない?」とにこにこしている。
「で、アルカ。わたくしを誘っておきながら、逃げ出すなんてどういうつもりですの」
あたしが睨むと、アルカは口をへの字に曲げる。かと思えば、急にぼろっと涙をこぼし始めた。
「シルヴィア様ぁー、私、やっぱり二番手の愛人なんて嫌ですうー!」
……は?
いや、そもそもアルカを愛人にするなんて承諾してないけど。っていうか愛人にしてって言ったのはアルカなんだけど。急に何?
「私みたいな平民がお側にいられる方法なんて他にないってわかってますけど、でも……っ、この先ずっと、殿下の隣を歩くシルヴィア様を見送らなきゃいけないのかなって思ったら悲しくなってしまって」
王子に話があるとちょっと呼ばれただけなのに、将来の想像をするなんて、飛びすぎじゃない?
だいたい王子との話は、浮ついた内容ではなかった。
「今日だって、〝やっぱり殿下と回ります〟なんて聞きたくなくて……」
俯いてだんだん小さくなっていくアルカの声を聞きながら、ため息をつく。
「どうしてそんな話になるんですの」
「殿下に誘われたら、シルヴィア様は殿下を優先されるじゃないですか」
そりゃあシルヴィアの立場上、原則王子が優先ではあるけれど、アルカは何を言っているんだろう。
「前提が間違っていますわ。殿下がわたくしなどお誘いになるわけがないでしょう」
「…………え?」
アルカがぱっとあたしを見たかと思うと、すぐに王子に目を向ける。
「譲ってくださるんですか?」
ん? 何を??
「少し考えはしたけど、今日は君が先約でしょ。横から掠め取っても、シルヴィアは楽しめないだろうし。でも後夜祭の最初のダンスパートナーは予約させてもらったよ」
「う。後夜祭ははっきり誘ってなかった……」
ん? んん?
「ねえアルカ。君がいなくなったって、シルヴィアがとても不安そうな顔をしていたんだ。君の気持ちもわかるけど、シルヴィアにあんな顔をさせないでほしいな」
「あっ、ごめんなさい!」
アルカが慌てた様子であたしを見たけれど、あたしは目を瞬くことしかできなかった。
え? え? どういう意味??
今の二人の会話は、王子もあたしを誘いたかったように聞こえるんだけど――いや! 自意識過剰は自重しようとさっき決意したばかり!
きっとあたしは聞き違いか勘違いをしてるんだろう。うん落ち着こう。
キィ、と高い鳴き声が空から聞こえる。つられて見上げたら、白い鳥が羽音を立てながら降りてきた。
白い鳥が王子の差し出した手首に止まる。王家の人たちが連絡手段として使っている鳥だ。王家の人たちにしか伝言を聞けない魔法がかけられているらしいけれど、詳細は秘匿されているからあたしも知らない。
鳥がまた鳴く。あたしにはキィキィとしか聞こえなかったけれど、王子は急に真面目な表情になった。
「何かございまして?」
ゲームのイベントが発生したんだろう、と思いつつそう聞いてみる。我ながら白々しい。
「君の不安が的中したってとこかな。詳しいことはまだわからないけど、ここ以外にも魔物が現れた場所があるみたい。ひとまず人がいるところまで、皆で戻ろう」
「あ、はい。アルカもいいですわね」
「はい……」
王子が先に歩き出したけれど、アルカはすぐには動かなかった。
ゲームのイベント的には今日はこれ以上のことは起こらないから、放っておいてもいいんだけど……仕方ない。
「行きますわよ。それとも置いていかれたいのかしら」
アルカの手首を軽くつかむ。目を丸くしてあたしの手を見つめたアルカは、ぱっとあたしの手をほどいてから指を絡めてきた。
女同士で、恋人繋ぎだなんて。
不意打ちにたじろいだら、あたしを見上げたアルカがへへっと笑った。
さっき泣いたかと思えば、もう笑ってる。
〝シルヴィア〟としては、ここは怒って振りほどくべき?
迷ったけれど、皆のところへ戻るまではいっかと思うことにした。
せっかく泣き止んでくれたのだから、今は好きなようにさせておこう。
王子が振り返ってあたしたちを見たけれど、特に何も言われなかった。
◇
魔物や侵入者が現れたことで学園祭は中断されたものの、夕方の後夜祭だけは開催されることになった。
昼間の学園祭には外部の人間を呼んでいるけれど、後夜祭には学園の関係者か馴染みの楽団しか出られない。
時間を早めて暗くならないうちに後夜祭を開催することで、安全を確保しつつ生徒の動揺を抑えよう、ということだとゲームの中で誰かが言っていた。
後夜祭の会場の周囲には警備の兵を多めに配置するから心配しないようにと全体アナウンスはあったけれど、後夜祭の参加者は多くはない。
三学年の生徒のうち、後夜祭に出てきたのは十分の一以下だろう。
もともと後夜祭では校庭だけでなくその周囲の運動場や広場も使う予定になっていたけれど、メイン会場の校庭以外はガラガラだ。
「学園祭は残念でしたけど、後夜祭は無事開かれてよかったですね」
「そうですわね」
あたしとアルカは校庭の端っこで、立食用の小さなテーブルを挟み、それぞれドリンクのグラスを持っていた。
食事もバイキング形式のものが準備されているけれど、これから踊るなら食事はあとにしたほうがいいかなと思って手を付けていない。
でも、ダンスはどうするんだろう。
王子と踊る約束はしたけれど、それは魔物が出るより前のことだ。
何があるかわからないから出ないほうがいいって、王子は周りの人から止められないのかな。
ゲームの王子ルートでは王子は後夜祭に来ていたけれど、他のルートでどうかはわからない。
どうするのかなと思っていたら、王子は後夜祭が始まる直前に会場に現れた。途端にいくつかの女子集団がきゃいきゃい騒ぎ始める。
王子は周囲のざわつきには目も向けず、真っすぐあたしたちのほうに歩いてきた。
「間に合ってよかった。僕と踊ってもらえるかな、シルヴィア」
「はい」
差し出された王子の手をとる。アルカはちょっとムスっとした顔になったけれど、無言で一歩下がった。
王子と連れ立って中央のダンススペースに向かうと、皆が道を開けてくれた。
あたしたちがダンススペースの中央に着くと同時に楽団の演奏が始まる。たぶん王子が来たのを見て、指揮者がそうしたんだろう。
「それで、今日の事件はどうなりまして?」
踊り始めたのと同時に聞いてみる。
王子のリードは踊りやすい。音楽に合わせてセオリーどおりの動きをしてくれるから、あたしもついていくのが楽だ。
「問題なく片付いたよ。シルヴィアは心配しなくても大丈夫」
王子の答えはそれだけだった。詳細は教えられないってことだな、たぶん。
ゲームでも侵入者に直接出くわすルート以外では事件の全容はわからないようになっていた。今回は校舎から離れたところで魔物一体に出くわしただけだし、教えてもらえることなんて何もないか。
「それは何よりですわ。殿下が保証してくださるのでしたら、これ以上は伺いません」
食い下がるのはやめておこう。
「ところで殿下、次にダンスにお誘いになりたい方はどちらですの? 少しずつその方の近くに移動したほうがよろしいのではなくて?」
「……何の話?」
一瞬、王子のステップが乱れる。でもすぐに音楽に合わせたテンポに戻った。
「二人目に意中の方をお誘いになるために、風よけとしてわたくしを最初にお誘いくださったんですよね?」
また王子のステップが乱れた。
内心を見抜かれて動揺したのかな。王子でもそういうことあるんだな。
「君は、そういう解釈を……そう……」
大きめのため息を吐き出した王子が、苦笑をあたしに向けてくる。
苦笑ってなんでだろう。
「ああ、アルカでしたら他の殿方との約束はなさそうでしたわよ」
「……うん、そうだろうね」
今度は困り顔になってしまった。おっと間違えたかな。でも王子はいつも従者と一緒にいるし、他に仲のいい女の子なんて思いつかない。
ハッまさか、ここで従者とのBL展開が……!?
……、いや、さすがにそれはないな。ここ乙女ゲームの世界だし。
「でも、そうだね。次はアルカと踊っておこうかな。話もしたいし」
「? でしたら、少しずつ端に寄りましょうか」
何を話したいのかよくわからなかったけれど、アルカを誘いたいなら端で踊り終えないと。曲と曲の間の時間はそう長くない。
今の曲が終わるまでもう少しだから、移動を始めなくては。
アルカと王子が踊っている間は食事の時間にでもしようかな。
そんなことを考えていたら、王子がまた口を開いた。
「ねえシルヴィア。もし僕が、アルカを愛人に迎えてもいいから僕の妻になってほしいと言ったら、君は受けてくれるのかな」
「……どこから苦言を申し上げてよいのかわかりませんが、まず、わたくしはアルカを愛人にするなんて承諾しておりませんわ」
「そうなの? でも君は、そのうち承諾すると思うよ」
笑みを含んだ声で言われてしまい、目を瞬く。いやそんなことは――と返しかけたけれど、今は最後まで言い切ろうと思い直した。咳払い一つで流す。
「次に、わたくしたちの婚姻は、わたくしたちの意志で決まるものではございません。殿下はそのあたり、よくご理解されていると思っていましたけれど」
まあ、王子ルートではそのへん捻じ曲げにかかるのを知っているので、我ながらこの指摘はどうかと思う。
でも公爵家の令嬢として生まれ育ったシルヴィアとしてはそう言わないといけない。
歴史を紐解けば例外はあるけれど、貴族同士の、特に王族の婚姻は本人の意志とは関係なしに決まることがほとんどだ。
国と国との関係、各家系の力のバランス、大人たちの思惑、諸々のことを踏まえて選ばれる。だからこそ愛人を持つことが公式に認められている。
今はシルヴィアが婚約者候補の筆頭ではあるけれど、そんなのちょっとしたことで覆りかねない。
王子はいい人だから、あたしとアルカの様子を見て申し出てくれたのかもしれないけれど、当人同士の口約束に意味なんてないのだ。
「そうだね。僕らが婚姻に関して我を通すのはとても難しい」
――ん?
聞き覚えのあるフレーズに目を瞬く。
あたしが聞いたことのあるセリフは〝僕らが〟ではなく〝僕が〟だったけれど、ほぼ同じセリフをゲームで聞いた。あれは王子ルートの終盤だったはずだ。
なんでそれ今言う?
王子は穏やかな笑みを浮かべてあたしを見つめていた。
「でももし君が望んでくれるなら、僕は君との未来を掴むために、あらゆる努力をすると誓うよ」
足がもたついて、危うく王子の足を踏むところだった。
今のは。
今のセリフは、もっと後の時間で紡がれるはずのセリフで。
何より王子がそのセリフを告げる相手はあたしじゃなくて、王子ルートに進んだアルカのはずで。
えっと。
えっと、それは、つまり――え?
今日〝自意識過剰、だめ、絶対!〟で振り払ってきたあれらは、まさか自意識過剰なんかじゃなかったってこと? え? え?? え????
音楽が終わるより先に固まってしまったあたしの頬に右手を添えて、王子がやわらかく微笑んだ。
華やかな音楽が止まる。
最後の余音が風に溶けて消え、代わりに周囲の話し声が大きくなった。
「音楽が終わってしまったね。ゆっくり考えてくれていいから、今度返事を聞かせてくれるかな。……でも、最後に一つだけ。僕は君が欲しいけれど、それ以上に君の笑顔を守りたい。君が断っても君の家を蔑ろにするようなことはしないから、君の思う道を選んでいいよ」
「は……い」
優しく手を引かれ、王子と共にアルカのもとへ戻る。
眉を吊り上げて真っ赤になったアルカが何か言っていたけれど、よく覚えていない。
さっきまでは二人が踊っている間に夕食にしようと考えていたのに、頭が大混乱では食事どころではなかった。
◇
たっぷり一曲分ぼうっとして、アルカが早足で駆け戻ってくる頃になってようやく落ち着いた。いや返事は決められなかったけど。
息を切らせて戻ってきたアルカがあたしを見上げてくる。
「シルヴィア様、一人で大丈夫でした? 変なやつに声かけられたりしてませんよね!?」
「え、ええ、わざわざわたくしに声をかけてくる方などおられませんわ」
そう返事をしてから、そういえばぼうっとしている間に誰かに話しかけられた気もしてきた。何を言われたか覚えていないし、考え事をしているうちにいなくなってたけど。
アルカはほっと息をつくと、テーブルのグラスに残っていた飲み物を一気に喉に流し込んだ。
「そんな飲み方、およしなさい。はしたない」
一応咎めておく。口を尖らせたアルカは、ふてくされた顔をあたしに向けてきた。なんだ荒れてるな。
「殿下と何かございまして?」
「冷静に考えれば、これ以上は望めないくらい、すごくいいご提案を頂いたんですけど」
けど?
待ってみたけれど、アルカは不満げな顔を地面に向けるだけで口を閉じてしまった。
殿下の提案って何だろう。さっきあたしが言われた話と関連した何かかな?
アルカに声をかけるべきか迷っていたら、アルカが急にあたしの腰に抱きついてきた。
「ちょ、何ですの。離れなさいな」
「……悔しい。なんで私、貴族でも男でもないんだろう」
王子に何を言われてきたんだろう。
シルヴィアらしく優雅に引っぺがそうと思っていたのに、アルカらしくない絞り出すような声に驚いて、つい体から力を抜いてしまった。
「殿下は何と?」
「制度として認められていても、妻が愛人を持つことに否定的な貴族も少なくないって。誰がシルヴィア様の夫になるかわからないよりは、シルヴィア様と一緒に僕のところに来ないかって。あ、もちろんシルヴィア様が嫌だと言ったら無しって話でしたけど」
アルカにまで話すなんて、やっぱりさっきの話、王子は本気なのかな。いや、王子は冗談でそんなことを言う人ではないのだけど。
「それと、同性の愛人に対しては偏見もあるから、対外的にはあたしを殿下の愛人ってことにするのはどうかって。殿下との子供を作ることは考えなくていいし、ただシルヴィア様のお側にいればいいからって」
「それは――」
ただ魔力が高いだけの平民が次期王の愛人に。
ゲームではさらに上の正妃というウルトラCもあるけれど、この世界の常識で考えれば、平民が王族の愛人になるってだけで奇跡だ。
「私が貴族で、男だったら、シルヴィア様の旦那様になれたかもしれないのに」
あたしの胸に顔をうずめたまま、アルカがため息をついた。
どうかな。貴族同士の婚姻もなかなか自由意志でできるものじゃない。平民のアルカの感覚とはきっと違う。
「あなたには、他の殿方と幸せになる道もあるのよ?」
なにせ乙女ゲームのヒロインだ。攻略対象だって七人もいる。アルカなら騎士でも隣国の貴族でも選べる。
ゲームの時間は半分終わってしまったけれど、現実はゲームとは違うのだから、もしかしたら今からだってチャンスはあるかもしれない。
そう思ったけれど、アルカは首を横に振った。
「殿下にも、殿下の話を受けたら他の男性との未来は選べなくなるけどいいかって聞かれました。でも、私は他の方なんて嫌です。私が好きなのはシルヴィア様です」
「アルカ……」
楽しそうな周囲のざわめきの中で、あたしとアルカの間にだけ沈黙が落ちる。
でも三曲目が聞こえてきたかと思うと、アルカがぱっと顔を上げた。
「そうだ、シルヴィア様、踊りましょうっ!」
「は? 女同士で?」
今までの落ち込んだ空気、どこ行ったよ?
アルカは急に笑顔になると、背筋を伸ばしてあたしの手を取った。
「大丈夫です! 私、暇さえあれば本を見ながら男性パートのダンスの練習をしていましたからっ」
男性パートの前に、女性パートの練習をしろ!
さっきの王子とのダンスは見ていなかったからわからないけれど、授業でのアルカのダンスは酷かった。
足の出す順は間違うし、本来男性に手を引いてもらうところで自分が腕を引くし――あれ? まさかアルカのダンスが酷かったのは、男性パートの練習をしていたせいでごっちゃになっていたから?
っていうか、待てよ、暇さえあれば男性パートの練習をしていたっていうことは、勉強してないってことじゃない?
「あなたまさか、テストで赤点ばっかりだったのは……!」
目を見開いてアルカを見下ろすと、アルカはてへっと舌を出した。
ヒロインの成績が悪いなんておかしいと思ったらそういうこと!?
「さ、いきますよ!」
「ちょっ、まっ」
ぐいと手を引かれ、前につんのめる。転ぶギリギリで耐えたけれど危なかった。
一、二、三、一、二、三、音楽はゆったりしたワルツなのに、アルカのリードが激しくて踊りにくい。
軽く手を引いて合図してくれればいいところでぐいっと強く手を引っ張られる。
歩幅も大きいし、皆の中でこんな踊り方をしたら大迷惑だ。皆は中央で踊っているから、あたしたちのいる端っこは空いていて、誰にもぶつからずにすんでいるけれど。
「あなた、本を見ただけで一度も実践していませんわね!?」
「はいっ、最初に踊るなら絶対シルヴィア様とだって決めてました!」
無茶苦茶なアルカのリードに必死でついていく。全然優雅じゃない。たぶん他の人から見れば無様なダンスに見えるだろう。
こんな踊り方、シルヴィアらしくない。
シルヴィアらしくないのに。
「楽しいですね! シルヴィア様っ」
無邪気に笑うアルカにつられて、つい口元をゆるめてしまった。
まったく、この子はいつも楽しそうだなあ。
この天真爛漫な笑顔に、ゲームの攻略対象たちは惹かれたのかな。自分に向けられる心からの笑みを可愛いと思う気持ちは、わからなくは、ない。
王子があたしたちにしてくれた提案は、たぶん、王子が自分にできることの中で最良だと思った選択肢を出してくれたんだろう。
でも、王子の提案を受け入れるのはどうなんだろう。アルカと一緒にいるために王子の好意に甘えるのは、王子に対して不誠実じゃない?
あたしがどうにか公爵家を継ぐというのは――駄目だな、家を継ぐってことは後継者を作らなきゃいけない。養子を迎える手はあるけど、兄も弟もいるあたしにはそんな無茶を通せる気がしない。
アルカをどこかの貴族の養女にしてもらった上で、あたしの侍女に迎えるっていうのはどう? ノイラとアルカは仲良くなれそうだし、うまくやっていけそうだ。でも、それだと主人と召使いって関係だし、アルカがどう思うかなあ。
アルカをうちの養女にしてもらって、あたしの妹に――いや、公爵家じゃあどこかにお嫁に行かなきゃだめだから却下。
あたしが市井に下るのは? あたしは日本での記憶もあるし、平民として生活はできると思う。ただ、男女ペアならともかく女二人で生きていくって大変だよね。市井に下る理由をどう作るかっていう問題もある。
うーん。
そこまで考えて、ふと気付く。
自分が〝どうすればアルカと一緒にいられるか〟を模索していることに。
――君は、そのうち承諾すると思うよ。
さっきの王子の言葉を思い出す。
ああ、そうだな。そうかもしれない。
アルカの向けてくれる〝好き〟と、あたしの気持ちが同じものなのか、自信はないけれど。
「シルヴィア様、どうかされました?」
「何でもありませんわ」
ただ少なくとも、この先もこの子と一緒にいたいとは思ってるみたいだ。
◇
「昨日のお話、せっかくですけどお断りしようと思いますの」
放課後の教室。
残っているのはあたしと王子の二人だけ。正確には王子の従者が教室の入り口前に控えているので三人だけれど。
締め切った窓の外からは明るい声が微かに聞こえている。この学校で部活動にいそしむ生徒は少ないけれど、ゼロでもない。
「理由を聞いてもいいかな」
王子はやっぱり困ったような微笑を浮かべてあたしを見た。
すうとゆっくり息を吸ってから、一晩考えていた答えを紡ぐ。
「間違いなく良いお話だと思いますが、あのお話を受けるのは殿下の厚意に甘えすぎですし、何より殿下に対して不誠実すぎます」
「僕はそれでもいいと言っても?」
「はい。たとえ殿下がよくても、わたくしも、きっと周囲も納得できませんわ」
昨日の今日で断るのもどうかと思ったけれど、かといってずるずる引き延ばすのもよくない。
王子が自分で言っていたとおり、あたしが断っても王子は公爵家をないがしろにするようなことはしないだろう。ファンから天使の称号をもらうほどのいい人だ。
「代わりにどうするか、もう決めている?」
「いえ。まだ卒業まで時間もありますし、ゆっくり考えようかと」
「そう」
王子が視線を少し落としてから、またあたしを見てふわりと笑った。
「わかった。君たちにとって一番いい道が見つかるといいね」
それを聞いて、できるだけ態度に出さないように内心ほっと息をつく。王子ならそう言ってくれるとは思っていたけれど、実際に聞けると安心する。
「――と、格好つけられればいいのかもしれないけれど」
ん?
「僕、諦めは悪いんだよね」
……え?
「今の話を踏まえると、つまり君たちに〝三人で幸せになろう〟と思ってもらえればいいわけだ」
「わたくし、そんなこと言ってませんけど!?」
不誠実なことはできないとは言ったけど、その解釈おかしくない!?
口をぱくぱくさせたあたしの手を、王子が取る。ダンスのエスコートをする時みたいに。
「僕の正式な婚約者を決めるまで、まだ一年あるからね。僕ももう少し頑張らせてもらおうかな」
なんでだよっ!
失礼のないようにゆっくり手を引こうとしたら、教室の扉が大きな音を立てて開いた。
「ちょっと待ったあっ!!」
「あ、アルカ!? あなた今日は先に帰るって――」
「これまでほとんど関わってこなかったのに、急になんなんですか! シルヴィア様は渡しません!」
あたしと王子の話を聞いてたの!?
教室の入り口にいる従者に目を向けると、彼はさっきまでと姿勢を変えずに涼しい顔をしていた。あいつ絶対アルカの盗み聞きに気付いて黙認してたな!
「だって、このままだと君に持っていかれそうだったから。そんなわけで、アルカもよろしくね」
「嫌ですー! よろしくしませんー!!」
大股で駆け寄ってきたアルカがあたしの腕に絡みつく。
片手は王子にとられ、片手はアルカがくっついて動かせない。王子は笑顔を崩していないけれど、アルカと王子の間に火花が散っている気がする。
なんだこの状況。
おまえら乙女ゲームのヒロインと攻略対象だよな?
「まずはそうだね、親睦を深めるために三人でお茶でも飲もうか。準備させるよ」
「飲みませんってば。ねっシルヴィア様!」
「いやでも、殿下のお茶会のお誘いを断るわけには……」
「ええー!?」
「はい決まり。じゃあ行こうか」
「うー……」
あたしから手を離して歩き始めた王子の背を、アルカが不満げな顔で見つめている。
目の前の展開についていけず、あたしはただ目を瞬くのだった。
(終)
***
●キャラ紹介●
・シルヴィア
※画像は本文先頭を参照
乙女ゲームの悪役令嬢に転生してしまった少女。
・アルカ
乙女ゲームのヒロイン。
・王子
乙女ゲームの攻略対象。裏表のないいい人。
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(22/1/29追記) FA頂きました…!ありがとうございます!!
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