黒き結末。
命が削れ、感覚が研ぎ澄まされていく。鳴動し続けているはずの心臓の鼓動はいつしか聞き取れなくなり、昂ぶっていた感情の行方もわからなくなっている。
目の前にいるミーティアルの姿が揺らぎ、何か違うものが見えてくる。
昔の姉さんの姿。師匠と世界を渡り歩いた時の記憶。ああ、なるほど。これは走馬灯とかいうやつか。ナラクトの時にも一瞬似たような感じにはなったが、どうやら今回はいよいよ危ないようだ。
人は死の間際に過去を思い出す。これは避けられない命の危機を前に、自身の過去の記憶から助かる術を探す生命としての防衛本能だ。
ただ人間はこの機能を正しく使えない。使う訓練を行っていないから、まともに機能しないのだ。
『さて、アークァス。君がこの講義の内容を思い出しているということは、将来君が絶体絶命の危機に陥っている時だ』
ただ世の中にはそんな機能を効果的に利用する頭のおかしい奴もいる。それが俺の師匠、セイフ=ロウヤだ。
『師匠、思い出すもなにも普通に覚えていると思いますよ』
どこからともなく響く幼い声。これは昔の俺の声だろう。鏡を見ながらの記憶というわけでもないから、俺の姿は見えない。
気づけば俺は過去の世界に完全に取り込まれていた。せっかく楽しく戦っていたというのに興醒めである。
『いいや、明日には忘れているよ。なにせこのあと講義の記憶を魔術で封じるからね』
『そうやってすぐ人に魔術とか仕込む。将来疎遠になりますよ、俺達』
そうだ、もっと言ってやれ昔の俺。ついでに累計でいくつ仕込んでいるのかとかも、聞き出してくれ。いや、ダメだな。この辺だともう諦めが入ってた気がする。
周囲の様子から察するに、ここはヴォルテリア。ああ、完全に思い出せた。これは俺が久しぶりに弓を使った後の記憶だな。
たまには弓でも握ってはどうだと渡され、無心で弓矢を射続け、ニアルア山を抉った日の夜だ。
『弟子が師匠の元を離れて活躍してくれる分にはうれしいことさ。その時はほら、新しい弟子を増やせば良いし』
『増えたらそいつには絶対に容赦しないように教え込まなきゃ……。それで、どんな講義なんですか?将来の俺の絶体絶命の危機って』
『君の戦い方の根源は、イミュリエールだ。君の望みの一つを鑑みてもそうだし、そもそも君の憧れでもあるわけだからね』
姉さんは最強の剣士。幼心からその確信はあったし、剣を握る以上は目標としてこれ以上にない存在。
『……それが問題なんですか?』
『うん。君は見えないものは見えないだろう?』
『何を当たり前のことを』
『君は人の歩んできた道を見ることがとても上手だ。だから努力を惜しまねば追いつくことも大いにありうる。でも君は今のイミュリエールを知らない。君の記憶にあるのはリュラクシャを出る前に見た姿のままだ』
『……』
村を出たのは十二の頃で姉さんはその二つ上。この時期なら肉体年齢は既に追いついているが、確かに俺の中の姉さんの姿は十四歳で止まっていた。それは今でもそうだ。
『イミュリエールと再会すれば、君は再び歩む道を見極められる。そのための基礎作りを怠らないように日々鍛錬を詰んでいる。立派なことではあるけれど、その段階で窮地に陥る可能性は大いにあるだろう?』
『それは……まあ……』
『だから不満に思うことはない。君の真似ている姉の強さが、何者かに脅かされているという話ではないからね』
師匠はいつも俺の心を見透かしていた。態度にすら表していない、言語化すらできていない気持ちですら汲み取っていた。もっとも、そのせいでえらく会話が冗長になりがちなんで苛立ちもしたんだが。
『とりあえず、要点だけまとめてもらえます?未来の俺、今窮地に陥っているんでしょ?』
『おっとそうだったね。さて、未来のアークァス。君はきっと多くの人々の歩んできた道を見ているのだろう。その多くはイミュリエールどころか、現在の君の道よりも大きく劣るものばかりだ。けれど、君はそれらを無駄だとは思っていないだろう?』
勿論だ。人は人の数だけ違いが存在する。似たような道を歩んできたとしても、全く同じものは存在しない。だからこそ見る価値がある。
『そう。無価値などではない。その細やかな違いこそが、君が進むべく道の先を見せてくれる。まだ存在し得ない道を見通す瞳となる』
その言葉はかつて師匠から言われたものとは真逆。俺は師匠と別れる時に言われていた。
『――人の歩んできた道を見るのは構わない。けれど、その先を見通すようなことはしてはいけないよ。それは未来を結末に変えてしまう行為だ』
『え、急に逆のことを言い出してきたよ、この人』
そう、その教え。その教えに俺は納得したからこそ、そうしてこなかった。人の可能性に喜ぶことはあっても、人の限界に嘆くようなことはあってはならないと。
『私は君にこの教えを封印として君に与える。その方が人として有意義に生きられるからね』
『封印って……』
『人間は心の在り方だけで、簡単に化けられる生き物だ。投げかける言葉一つで凡人にも怪物にも変貌する。未来のアークァス……君ならば、その意味が理解できるはずだ』
これは昔の記憶だが、師匠は間違いなく『今』の俺に語り掛けている。師匠は俺がこういった状況に陥ることを予見し、記憶に助言を残しているのだ。
『もう歳なのかな、この人……』
『酷くない?』
まあ、師匠の助言は十分に伝わった。その自覚を持ったことで記憶の世界が歪み始めている。このまま現実の世界へと戻され……正気に戻るのだろう。それまでに心の在り方を調整しておくとしよう。
弓ならば俺は過去の姉さんに並んでいる。技術もそうだし、姉さんが俺に見せた白い軌跡を再現することもできている。
でも俺は今の姉さんを知らない。あの人がどんな領域に辿り着いるのかを見れていない。見えないものは見えない。
いいや、違う。見えないわけじゃない。そこにはないものだと、見ようとしていないだけだ。
数多の可能性を見てきた。人間も魔族も、全てが可能性に溢れている。全く同じものは存在しない。
それらが導いてくれている。まだ見えぬあの人の未来、その先を。
◇
「――っ」
槍の刺突が回避される。だが完全には避けられていない。引き寄せる槍の先端は弓術使いの鮮血で濡れている。
今、奴から何か異様な気配を感じた。何かを仕掛けてくるかと身構えたが、動きらしい動きはない。
反撃する余力も失われつつあるのか。いや、油断はできない。あんな活きた眼をした者を前に油断などできるものか。
「奥の手があるのであれば、出しておけ。出し惜しみする時間はあるまい」
「――そうさせてもらおう」
そう呟くと弓術使いは血塗れとなった右腕を動かし、矢筒から矢を一本取り出す。
腕や手の負傷を感じさせない所作に思わず息を飲む。白い軌跡の矢を放ち始めてから、奴は実矢を使ってこなかった。
魔力で構築された矢だけで私の障壁を貫けるのならば、目視の容易な実矢は不要……というわけでもないようだ。
矢を番える奴からはこれまで以上にない威圧感を覚える。一体どのような一撃を放とうと――
「っ!」
白い軌跡が見えたどころではない。視界の全てが白い光に飲まれた。本能が選んだ選択肢は跳躍による空域への回避行動。
空から見えたのは、それは森林をも飲み込む巨大な白い軌跡。私の回避に気づいたのか、巨大な白い軌跡は霧散していく。
弓の大きさだけでなく、白い軌跡の大きさまで変化させてくるとは。事前に知らされていたニアルア山を抉ったと言われる一撃、それがこれなのだろう。
再び白い光に包まれ、飛行して回避行動を取る。奴が空に飛んだ私に再度狙いを付けてきているのだ。
白い巨大な軌跡は何度も現れ、私を包んでくる。弓術使いにとっても大技なのか、迂闊には放ってはこない。軌跡を創り出しては、霧散させている。
これほどの攻撃範囲の広さ、地上ならば避けることは難儀だろう。しかし私は空を自在に移動できる天竜族。見てから回避することなど造作もない。
とはいえこの巨大な白い軌跡の中を掻い潜り、奴に槍を届かせなくてはならないのだから背筋は冷える。
光を確認してから実際に放たれるまでに飛び込むことは可能。けれども一瞬でも反応が遅れれば全身があの一撃に飲み込まれることになる。
「ならばっ!」
特異性の二段開放を解除する。魔力強化の超強化は地上戦を想定したもの。飛行速度も相応に上昇するが、そちらの方には特化していない。
「『起源よ、理をも超越せよ。その栄光にて天空を駆けよ』」
翼の形状すら変化する飛行能力の超強化。純粋な膂力は落ちるものの、地上を足で駆ける以上の速度を誇る。
準備はできた。次なる白き光の発生と同時に旋回移動で詰める。奴が再度白い軌跡を構築するまでに私の槍は奴の体を貫く……っ!
「さあ、雌雄を決――っ!?」
白い光に飲まれ、体が飛行による回避行動を取ろうとする。だが私の体はまるで白い軌跡に吸い付いてしまったかのように動けない。
異常は体だけではなく視覚にも現れる。私の全身をゆうに包み込んでいた光が、徐々に凝縮していく。
凝縮されていく過程で光は徐々に黒変し、より強く私の体を縛り付けていく。そして私の胸元の奥にあるコアを貫く、一筋の黒い軌跡となった。
「(黒の……っ!?)」
白と黒。その違いが分かるわけではない。けれど天竜族の本能はその恐ろしさを理解していた。この黒い軌跡は私を貫く未来ではなく、結末であると。
如何なる窮地であっても、生を求めていた本能が死を受け入れてしまっている。もう間もなくこの一撃は現実のものとなり、私のコアは貫かれると。
「(――ふざ、けるなっ!)」
憤怒したのは理性の方。理解もできぬ事象を前に死を受け入れるなど、あってはならない。そんなものは天竜族の領主、ミーティアル=アルトニオの結末に非ずっ!
体は空間に固定されたかのようにピクリともしない。だが恐怖を感じることができるということは思考ができるということ。
肉体は動かず、全身の魔力もせき止められているかのように流れない。ならばどうする。こんな時、私にできることはなんだ。そんなもの、決まっている。
コアを活性化させ、魔力を押し出す。魔力が流れないのは今が刹那の時、死を前に私が認識しうる時間が拡張されたものだから。
今行っているのは刹那の瞬間で魔力を全開で出力するなんて出鱈目な自滅行為。普通ならばコアが自壊してもおかしくはない。
それでも私の特異性『起源よ、理をも超越せよ』はいかなる出力をも正しく効果を発揮できる。
無茶とも言える刹那の魔力出力を受け、理解の域を超えた力に縛り付けられた翼が前へと進もうとする。
僅かに時が進んだのか、全身に奔っていた激痛を脳が理解する。これ以上は肉体やコアが無事では済まないと本能が抑制をかけようとする。
「(この程度……が……どうしたッ!)」
黙れ、勝手に死を受け入れるような軟弱者は引っ込んでいろ。本能を抑え込み、さらにコアを活性化させる。
そして体が僅かに動くのを感じた瞬間、黒い軌跡に亀裂が走る。確信を得た私は全身全霊を持ってコアに宣言する。
「『起源よ、理をも超越せよ』……っ!」
黒い軌跡が砕ける。世界に縫い付けられていた体が自由を感じる。
全身の痛みが酷い。全力の自傷行為のようなものだ。特異性を持ってしても、肉体の損傷は避けられていなかったのだろう。だけど今はそれすら心地よく感じてしまう。
成し遂げた。理解をも及ばぬ異常な力を、塗り潰されるだけの結末を力任せで捻じ伏せてやった。
「――あ」
本能は恐怖から解き放たれたばかり、理性は達成感に浸ってしまった。
ゆえに私が胸元に突き刺さった矢に気づいたのは、コアを破損した体が落下を始めてからだった。
◇
「なに……今の……」
私の視界に映ったのは、空を奔る無数の巨大な白い軌跡。そして最後にその白い軌跡が黒く変色していく姿だった。
白い軌跡についてはセイフから聞かされた『白き未来』なのだと直感した。規模が極太の光線ということには驚いたけれど、その正体にはすんなりと合点がいった。
けれど白い軌跡から変化した黒い軌跡、あれを見た瞬間にとてつもない悪寒が全身を奔った。
「――大丈夫かい?アレは普通ならば見えてはいけないもの。見えてしまえば精神への負担が大き過ぎるからね」
「一応は大丈夫……。でも朝目覚めたら全裸のケッコナウ様がベッドの横で紅茶を飲んでいた時くらいには恐怖したぞ……」
「それは別次元な気がしないでもないけど、方向性は違えども大きさは同じってことかな。ちなみにその時って――」
「ケッコナウ様が朝の散歩の時に気まぐれに全裸になって、気まぐれに宿舎に忍び込んで、気まぐれに私の寝顔を見ながら紅茶を飲みたくなっただけだ。それ以上は何もない」
過去最高レベルのトラウマエピソードが脳裏に過るくらいには今の光景は鮮烈だった……ということにしておこう。
「アレは『黒き結末』。『白き未来』を超える理への干渉の術とでも言おうか。まあ……人が扱って良い代物ではないね」
「あれを放ったのって……」
「落下していったのはミーティアル=アルトニオだ。消去法であの子だろうね」
手負いとはいえ領主クラスに近いとされるシューテリアと対峙し、セイフのせいで自身の未知なる可能性を知らされた。
その実感がようやく湧き始めたと思ったら、再び思考が霧の中に放り込まれるような光景である。
「……尻尾、動かすのって結構難しいなー」
「一度に全てを受け入れる必要はないさ。さて、ちょっと急ごうか」
セイフが肩に乗せていた私ことリスの体を抱きかかえると、移動の速度が一気に跳ね上がる。
森林の中だというのに、平地での私の全力疾走よりも速い速度だ。本当に私の体なのだろうか、後遺症とか残らないよな?
「決着したのではないか?その『黒い結末』とやらの一撃を受けて、ミーティアルは死んだのだろう?」
「決着はしたかな。でもミーティアルは直前に『黒い結末』を打ち破っていた。多分生きているよ」
「え……打ち破れるものなのか?」
「所詮は術だ。然るべき対処法を学べば、魔法を打ち消す行為の延長線上でしかない。ただ力技に頼った雑な対処法だったからね。彼の矢が届くまでに破ることはできなかった。矢は彼女のコアを貫きこそしなかったが、確かに刺さっていたよ」
まるで間近で見守っていたかのような言い方だ。誰かが落下していくのは見えたが、そこまで詳細に見えるような距離ではないはずなのだけれども。
「コアに刺さって落下したのなら死んだのでは?」
「シューテリアだってコアに損傷を受けても死ななかったんだ。自力でそこまで持ち込んだミーティアルが死ぬことはないさ」
「そういうものなのか……?」
確かに領主クラスであったシューテリアはコアを損傷し、負傷を癒やしきれていない状態ながらも、あそこまで私達の前で力を発揮してみせた。
コアって魔族にとって第二の心臓なんだよな?心臓に矢が刺さっても生きていられるものなのか?
「流石は天竜族の領主だ。魔界の未来が明るくてなによりだよ」
「魔界の未来が明るいのは絶望でしかないのだが……。ではなぜ急いでいるのだ?」
「そりゃあ、あの子が死にかけているだろうからね。早めに治療した方が良いだろう?」
「えぇ……」
少し進んだ先でセイフの足が止まる。その視線の先には木に寄り掛かり、項垂れている人物の姿があった。
「マリュアか……?」
顔は隠れているが、この声は間違いなくアークァスだ。けれどあまりにも弱々しい声。よくよくみれば全身ボロボロ、というかなんでこの怪我で生きているのかという状況だ。
腕とか皮膚の色をしている箇所を探す方が難しいレベルだ。こんな状況でどうやって弓を扱っていたのやら。
「いいや、私だよ。久しぶりだね」
「……師匠かよ」
あ、すっごい。あのアークァスが私に向って、物凄く嫌な感情を顕にした声を発している。私に向けられていたらちょっとショックで寝込みそうなレベル。
「流石は私の弟子だ。すぐに分かってくれて嬉しいよ」
「わからいでか。幻術……か?」
「いいや、ちょっと一騒動があってね。マリュアの体を借りているのさ」
「……マリュア本人は?」
「ここにいるよ、ほら」
そういってセイフは腕に抱いていたリスこと私を肩に戻しながら見せた。なんか気まずいので、軽く手を上げて挨拶をしておく。
アークァスは固まりながら私の姿を凝視していたかと思うと、流れるような動きで五体投地の姿勢へと移った。
「……うちの師匠が本当にごめんなさい」
「瀕死の怪我人に土下座された!?」
「無理に動いたらダメだよ?止血だけで手一杯だろうに」
「誰のせいかと!誰の!」
死人寸前のアークァスが出血をしながらツッコミを入れている姿にはヒヤヒヤするけれど、ここまで感情を顕にしているのはちょっと新鮮で見ていて楽しく感じる自分がいる。
セイフはアークァスの容態を確認しつつ、回復魔法で止血を行っていく。
穏やかな笑顔の私がアークァスを治療する光景は見ていて悪くない。強いて文句を言うのであれば、治療をしている私の肩に乗っているリスが私本体ということだろうか。しかし手際が良いな、本当。本職の治療師よりも手早くないか。
「ほら、マリュア本人だったらここまでの治療はできなかったよ。私が彼女の体を借りていて良かっただろう?」
「他者への迷惑を正当化すんな。マリュアを連れてきたのは師匠だろ」
「同意は得ているよ?道案内も、体を借りることも」
「どうせ場所も期間も言わなかったんだろ」
うわぁ、まるで見ていたかのよう。似たような手口を散々見せられてきたんだろうなぁ……。なんで私被害者なのに、しみじみしているんだろ。
「しかもなんか薄着だし」
「そこは触れないで……」
「なんにせよ、弟子の成長を見れて嬉しいよ。なにせあのミーティアル=アルトニオ相手に引き分けてみせたのだからね」
「あー……やっぱ最後のアレ、破られてたか」
「相手が強かっただけさ。さ、逃げようか。おぶってあげるよ」
「師匠の体じゃないだろうに」
セイフはアークァスの体を背負う。アークァスは顔も隠れているから、傍目には不審者を背負った私の姿であり、なんとも形容し難い気持ちになる。
「ん……逃げる?」
「ミーティアルの部下に双子の天竜族がいる。山林に落ちたシューテリアの捜索をしているはずだ」
「他にも魔族が入り込んでいるのか……」
「まあ気にしなくていいよ」
「ここ自国領!私騎士団長!」
とはいえ現状戦闘ができるのは私の体を使っているセイフだけだ。ボロボロのアークァスにリスな私ではなにかできるということはないだろう。
「あ、師匠。そこの弓も頼みます」
アークァスが指し示した木の根本には、小さな弓が置かれていた。見た感じではそこまで特別な感じを受けない弓だが、天竜族領主との戦いを経てボロボロになったアークァスに対し、新品のように傷一つないところを見るに相当な名弓なのだろうか。
「ああ……おや。また懐かしい弓を使っているね」
「懐かしい……?」
「――まさか、貴方でしたか」
背後からの声に振り向くと、そこには女神ウイラスの姿があった。忘れていたが、アークァスをヴォルテリアに転移させていたのは彼女だ。この戦いも近くで見守っていたのだろう。
普段から表情の少ないウイラスではあるが、今は一段とその瞳が冷たく感じる。そしてそのウイラスの視線はアークァスではなく、セイフに向けられていた。
「やぁ、久しぶりだね」
「目的はなんですか?」
「弟子の成長を見届けにきただけさ。久しぶりに表舞台の空気を吸いたいという気持ちも少しあるかな?」
淡々と喋るウイラスに対し、懐かしい旧友と再会したかのような態度を取るセイフ。二人が顔見知りであることは明白なのだが、世界を創り出した女神と、人間界で指名手配されている大詐欺師との関わりってなんだ。
「ええと、あの……二人はどういったご関係で?」
「雇用関係さ。守秘義務は厳しかったけれど、楽しい職場ではあったね」
「セイフ=ロウヤ、『条件検索水晶君』で見つからないはずです。死者は無条件で除外されてしまいますからね」
「アレの欠点は以前にも指摘しただろう?ワテクア、聡い君なら私の符丁で勘付いてはいたと思うが」
「師匠……今、ワテクアって……」
「あ」
彼女は女神ウイラスであり、邪神ワテクアでもある。アークァスの事情を知っているのだから、そのことを知っていても不思議ではない。
けれどわざわざ彼女をワテクアと呼ぶ理由。それはセイフに対し彼女はウイラスとしてではなく、ワテクアとして接していたということ。
「ええ、私の知る彼の名はオウティシア。オウティシア=リカオス。私が選んだ先代の魔王です」
ロクでもない師匠だな。本当。