焦がれた理想。
無心で『重ね羽』を振り続けて数刻が経過した。カークァスによって切断された胴は、ワテクア様の応急処置と自らの再生力で完全に治癒している。
それでも重ね羽を振るう都度に、斬られた場所が疼く。この痛みは己が内面からくるものなのだろう。
私はまだ奥の手を出し切ってはいなかった。あの場で全てを晒すことは、その後の領主達との覇権争いにて致命的な疵となる。そんな言い訳が滲み出てくるのが許せず、こうして明確な目的もなく刃を振るい続けている。
奥の手を出し切っていないのは向こうも同じ。カークァスは近頃になって完成した奥義を披露しただけに過ぎない。特異性を発揮しようとすらしていなかったのだ。
もしもあの奥義を警戒し、分身体だけで突撃させていれば、分身体は倒されても再展開することで持久戦に持ち込むこともできただろう。
そもそも奴は魔法を一切使用してこなかった。近接戦に拘らず、遠距離魔法も絡めればより一層優位に立ち回れたはず。
「……っ!」
あの場で出せると判断した実力を出し切り、敗北した。勝てない戦いではなかったことが、より一層身の内の怒りを湧き立ててくる。
相手を嫌うことと、その実力を否定することは別のこと。容易な挑発に乗せられてしまったのは完全に自分の落ち度だ。
次はこうはいかない。だがそれは相手も同じ。同じ手法で勝利を狙ってくることはないだろう。
カークァスを魔王として認めないのは変わらずとも、その実力は認めざるを得ない。
ならばどうする?それこそ奥の手を使うべきか。それは愚策だ。領主達は皆歴代最高峰の天才達、一度見せてしまった奥の手が通用する相手ではないだろう。
やはりあの場で再戦を挑むのは確実性に欠ける。それでも手段が何も思いつかないというわけではない。
あの男は牙獣族の領地で、その戦士やガウルグラートの姉と魔王候補の座を掛けて手合わせをしたと聞いている。
根っからの戦闘狂。その習性を利用すれば、鋼虫族の領地に誘い込むことも十分に可能だろう。そこでならば私も奥の手を余すことなく使用でき、奴を確実に屠ることも可能だ。
そうやって思考を巡らせていると、扉を叩く音と共に部下の声が聞こえてくる。
「ジュステル様、鍛錬中失礼致します」
「どうした」
「誘いの砂漠の監視を行っている砦から、奇妙な報告がありまして」
「奇妙な報告?」
「見張りが誘いの砂漠の奥地から人間の女が現れたからと、保護をしたそうです」
「――人間だと?」
脳裏に浮かんだのは何故かカークァスの姿。奴はインキュバスであると説明を受けたが、感じる魔力や漂う匂いは明らかに人間のもの。しかし女というのであれば、カークァスであることはない。
いやそれよりも、異様なのはその人間の女が現れたとされる方角だ。誘いの砂漠の奥地には、日夜砂漠の周囲の魔物や魔族を餌として誘う巨大な怪物がいる。
鋼虫族の領主となったものは先代の教えに倣い、その怪物の存在を確かめに行く決まりがあった。自らの領地の奥地に何が潜んでいるのかを正しく理解するためだ。
アレは生物であって生物ではない。ただ世界の地形に存在する異常でしかない。歴代の領主達がそうしてきたように、あの怪物の前には私もまた部下達に丁寧な監視を命令することしかできないのだ。
「それだけでも妙な報告ではあったのですが……」
「まだ何かあるのか?」
「それが……発見した見張り達は報告を行った者に対し『その者が去るまで、我々が対処を行う。決してジュステル様へと連絡をしてはいけない』と」
「……?」
誘いの砂漠の奥地から現れた人間。その報告が本当ならば、その異様性を考えていち早く私に連絡すべきと考えるのが自然だ。
しかし自分達で対処をするから、私の耳に入れるな……か。彼等に何かしらの落ち度があるというのであれば、もう少しまともに隠蔽することだろう。
結局報告者を妨害するでもなく、報告はここまで届いている。見張りの者と報告者の間には何かしらの認識の違いがあるようにも感じられる。
「ひとまずは我々で向かい、調査をしようとは思うのですが……」
「いや……傷も癒え、鍛錬も済んだ。事実確認のためだけならば、確かに私は不要だろう。だが誘いの砂漠が関わっているのであれば、話は別だ。その者達も何かしらの精神異常状態にあるやもしれん。私も向かおう」
誘いの砂漠はその地を見た者に対し、精神干渉を行う生きた砂漠だ。見張りの者達に何かしらの精神異常が現れている可能性がある。
そう考えれば見張り達の不思議な態度、報告者が異様だと感じて報告してきたこと、それなりに辻褄は合う。
「了解いたしました。それでは我々も直ちに支度を――」
「私は先に出て、必要があれば簡易的な制圧を行う。お前は治療師の手配を頼む」
「はっ!」
もしも見張りが精神に異常をきたしているのであれば、可能な限り治療を優先したい。治療師の手配は前もってやっておくべきだろう。
戦闘訓練を受けた鋼虫族は飛行能力に秀でているが、治療師など補佐魔法を習熟しているような者達の移動速度はそれほどでもなく、戦闘訓練を受けた者が運んだ方が速い。
領主の館を出発し、空を奔る。この速度、この高度を維持して魔法主体で戦っていれば、カークァスには勝てたのだろうか。
「――っ」
未練は抱くな。次に勝つ手段だけを思考に入れろ。今を生きる者にとってもしもの話など何の意味も持たない。あるべきは先の未来を見据えた決断だ。
飛行速度を限界まで上げ、誘いの砂漠が視界に入る距離まで到達する。あの砂漠は空を飛ぶ生き物にさえ干渉を行う。既に精神干渉に対する抵抗力を高めていたのにも関わらず、全身にまとわりつくように不快感がやってくる。
だがその忌々しさも、カークァスのことを考えれば今は児戯の悪戯でしかない。周囲の様子に変化がないのを確かめながら砦の入り口へと降り立つ。
即座に兵士が一人駆け寄ってくる。装備からして伝達兵……報告者だろう。
「ジュステル様っ!」
「報告は聞いた。現状の報告を可能な限り頼む」
「はっ!件の人間を発見したのは私の同僚であるサロナイト、及び新兵のソウネスカ。両名が人間の女を保護し、現在は屯所内にてその世話をしております」
「――その人間が攻撃を仕掛けてきたりはしていないのか?」
「いえ、我々はサロナイトの報告を受けただけで、その人間の姿は目撃しておりません。ですが、確かに魔族とは異なる生物の匂いや気配を感じています」
人間は魔族を生理的に嫌う生き物だ。かつて和平の道を選んだ魔王が人間のその本能を見誤り、魔界に多大な被害をもたらしてしまった話は魔族の歴史では誰もが知るものだ。
種族や価値観がどうこういう問題ではなく、魔族を忌避するように造られている。それこそ我々魔族が人間との共存を断念せざるを得ない理由だ。
「確認は取っていないのか?」
「それが……サロナイトが屯所前に陣取り、仲間の侵入を拒むのです」
その人間の女と思われる存在が、サロナイトに対し精神干渉を行い、傀儡状態にしているのではないだろうか。
その正体がなんであれ、誘いの砂漠の奥地から現れたのならば、その存在はあの魔境の誘惑に耐えうる存在ということになる。同様の干渉手段を持っていても不思議ではない。
「ふむ。良いだろう。後はこの眼で確認するとしよう」
格納紋を起動し、『重ね羽』を取り出し屯所へと向かう。屯所の前に少数の兵がおり、入り口にいる者をなだめている様子だ。
そしてそんな彼等に対し、槍を握って威嚇をしているのが報告にあったサロナイトなのだろう。サロナイトは周囲の言葉を拒絶し、時折槍を振るっては仲間の接近を許さないようにしている。
「だから落ち着けサロナイト!我々はただ正しく現状を確認したいだけだ!」
「頼む!頼むから!こないでくれ!俺は正気なんだ!大丈夫なんだ!」
明らかに異常としか見えない言動。だが確かに槍を振るう動きには精神干渉を受けた者とは思えない鋭さを感じる。
「私が代わろう」
「――っ!?ジュステル様っ!?どうしてっ!?」
私の姿に気づいたサロナイトの態度は更に動揺の色が顕著となった。私のことを正しく把握しているのは間違いない。だがそれでもサロナイトは槍を降ろそうとはしない。
「おい、馬鹿っ!ジュステル様だぞっ!?武器を降ろせっ!」
「お前達は口を挟むな。……サロナイト。何がお前をそうさせる?」
「もうし、もうし、申し訳ありませんっ!で、ですが信じてください!貴方様への忠誠に嘘偽りはございませんっ!ですが!ですがっ!貴方様だけはここに近寄ってはならないのですっ!どうかっ!どうかっ!このままお下がりください!私が必ず!必ず何事もなく済ませますのでっ!」
サロナイトの体は震えている。恐怖だけではない、様々な感情が入り混じり、自身でも正常な判断ができているのか怪しい。
ただ理解できるのは、この屯所の中に何か異常な存在がいる。喧騒に気を取られていたが、確かに魔族のものとは思えない臭いが混じっている。
「埒が明かぬな」
「――ひっ」
言葉による説得は難しい。ならば多少強引でも力で制圧すべきだろう。サロナイトは武装をしている。同じ実力の兵士達ならば危険だろうが、私ならば傷一つ受けずに抑え込めるだろう。
重ね羽を静かに構えると、サロナイトは体をビクリと震わせた。私が武器を構えたことの意味を理解し、その震えは激しさを増す。それでも彼は槍を手放さなかった。
一気に距離を詰め、下方からサロナイトの槍を跳ね上げる。普通の兵ならばソレだけで槍を手放さざるを得ない。だがサロナイトは持ち上がった槍を無理矢理に抑え込み、不格好ながらも耐えてみせた。
「見事。だが――っ!?」
「があああっ!」
サロナイトは咆哮を上げながら、崩れた姿勢のままこちらへと突撃してきた。槍を振るうのではなく、柄を私に押し付けるように、がむしゃらに押してきたのだ。
一般兵の力では私に勝てる筈もない。筈もないのだが、この力は異常だ。並の一般兵どころか精鋭にも負けない力を感じる。
サロナイトから感じる必死さ、全てを出し切ってでも私を押し留めようとする意思がこれほどの力を発揮しているのだろう。
「すまない。少々手荒にいく」
「ひぎっ!?」
重ね羽を地面へと突き立て、全ての腕でサロナイトの体を掴み、地面へと叩きつけ組み伏せる。感情に任せた力押し相手ならば、これが最も手っ取り早い。
今の衝撃でサロナイトの腕の一本が折れた。実力の差は明白。それがわからないわけでもないというのに、サロナイトは諦めようとはせず、足掻き続け、私の拘束から逃れようとしている。
「無理に動くな。治療に時間が掛かるようになるぞ」
「ジュステル様っ!お願いしますっ!どうかっ!どうかっ!ここから立ち去ってくださいっ!貴方は我々が誇る素晴らしきお方なのですっ!だからっ、だからっ!貴方はあんな怪物と関わりを持っては――」
「もう、人が折角寝ていたのに……なんでそんなに騒がしいの?」
「っ!?」
屯所の扉を開け、一人の人間の女が姿を現した。長い髪、腰に下げた二本の剣、鋼虫族とは違う体の造り。間違いなく人間だ。
だがそんな冷静な思考とは別に、体が動いた。サロナイトを拘束していたことなどを忘れ、即座に距離を取り、重ね羽を回収し、構えていた。
私だけではない。周囲にいた兵士の数名が咄嗟に臨戦態勢に入っている。彼等は自分が武器を構えていることにもまだ気づいていないのだろう。
なんだ、これは。こんなものが本当に人間なのか?そもそも生き物なのか?
武人として、戦士として、いや生物として、あらゆる経験則から培われた本能が告げている。今目の前にいる存在は絶望だ。どのような可能性を持ってしても、その希望の光を無慈悲に飲み込んでしまう闇。
「あれ、先輩どうしたんすか?うおっ!?ジュステル様じゃないっすか!?」
「貴方の先輩ってそこに倒れている人よね?違いが分かりにくいわねー」
「えぇー。全然違うすよ」
その奥からもう一人、鋼虫族の兵が現れる。出で立ちや風格からして新兵、練度もそこまで感じられない。恐らく彼がソウネスカなのだろう。
思考が混乱している。今私はソウネスカの存在を冷静に判断できている。なのに目の前にいる人間の女に対する評価はなんだ?
「なんか怪我しちゃっているみたいだけど」
「あー、もしかして屯所を勝手に使ったのがバレた感じすかね……」
「それで腕とか折られちゃうの?過激なのね」
「俺達バリバリの兵役すからね」
人間の女は私のことなど気に留めず、床に倒れているサロナイトのことを話題にしている。ソウネスカはどうしてあのような存在を相手に平然と話している?……いや、そうか。そういうことか。
今私と同様に、構えている兵も数名いる。だが中には今の状況に困惑しているだけの者もいる。もし彼等が私と同じようにあの人間の女の異常性を察していたのなら、同様に武器を構えるか、距離を取ろうとするだろう。
それを行えているかどうかの違いは、戦士としての格だ。あの人間の女の異常性は実力がある者ほど理解してしまうということだ。
「……あら?」
「っ!」
人間の女の視線が初めて私と合う。それだけで体の中を抉りとられていくような感覚。まるで私の武人としての格が見極められてしまったような……。
視線は私から重ね羽の方へと移っていく。
「ねぇ、貴方。そう、少し大きめの貴方。貴方のその武器……どうしてあの子の匂いがするの?」
「……なに?」
「あの子の血の匂い……。貴方、アークァスを傷つけたのね?」
「――っ!?」
隠すつもりが微塵もない、明確な殺意。それを感じとるや否や、私の体は全力で間合いを取った。
そして迷うことなく奥の手を展開。召喚した分身体、その数二十体。その二十体全てに『我等が不変なる志』を発動させ、円陣を組むように旗を突き立てさせる。続いて分身体に仕込んでおいた防御結界を発動。
分身体に戦闘を行わせる場合、それに割く魔力リソースは全体の一割にも届く。更にそのスペックを維持したまま同時に操作できるのは三体が限度。それ以上の召喚は戦闘能力が著しく低下し、旗を守りきれない。
だが防御結界専用の分身体の消費魔力は、従来の半分。その最大展開数は二十。
こうして円陣を組ませ、旗を起点に互いに護り合う結界を二十層展開することで鉄壁の支援編成を構築することができる。
更に自身も『我等が不変なる志』の旗を突き立てる。手数は減るが、私本体に施される『我等が不変なる志』の強化効果の累積数は私本体を含め二十一!四つの重ね掛けだけでも領主クラスの単体強化に匹敵する強化、その五倍以上の重ね掛け!
「なに増えてるのよ」
「――なッ!?」
二十層の防御結界が、二十もの分身体が、二十一もの強化を重ね掛けした私の胴体の奥にあったコアも、その全てが切断された。いや、そんなことよりも『我等が不変なる志』の旗が全て切断されているだとっ!?
人間の女は屯所の入り口から一歩も動いていない。いつの間にか鞘から抜かれた剣を握っているだけだ。
その剣を振るった姿も、剣の軌跡も、何一つ確認、実感できなかった。あるのは私の全てが斬られたという結果のみ。
「なんだ、この程度ならあの子も無事そうね」
「馬鹿……な……。我が旗はどのような剣技や奥義であっても破壊することは……」
「変なことを言うのね?斬ると決めたものを斬るのが剣技でしょ」
その言葉に、理解できない理が理解できてしまった。この者は斬ろうとしていない。ただ斬っただけ。
距離も、数も、硬さも、理も、その全てを、ただ斬っただけなのだと。
「ジュ、ジュステル様っ!?」
「あ、あああっ!あああああっ!?」
部下達の叫ぶ声の中で、サロナイトの慟哭が特に耳に響く。視線を向けると、彼は折れた腕を無理矢理に動かし、私の方へと這っていた。
そうか、彼は誰よりも正気で冷静だったのだ。あの怪物の正体に気づき、自分の理解した絶望を他者に伝えることもできず、それでも誰よりも私を護ろうとしていた。
ほのかな嬉しさが心の中にある。私はここまで思われる領主でいられたのだなと。
「……忠義、ご苦労であったな。サロナイト」
「――っ!」
サロナイトの慟哭がもう聞こえない。コアを失った体が崩れていくのが分かる。それでも思考だけは巡っていた。
あの人間の女は何者なのか。アークァスを傷つけた?カークァスではなく?アークァス……カークァス……偽名。奴は……いや、もう奴のことなど考えたくはない。
視界も薄れていく。私の手を握っているサロナイトの奥で、眠そうに欠伸をしている人間の女が目に焼き付く。
……美しい。鋼虫族ですらない彼女の容姿に、美的な要素を感じるはずがないのに、そう思ってしまった。
領主であった私ですら絶望を抱かざるを得ない。存在するだけで……ああ、そういうことか。
あれこそが、あの方こそが……あるべき格。私が仕えたいと焦がれた魔王の――
こちらの方でもあけましておめでとうございます。
新年早々退場したジュステルさん、お疲れ様。多分もう少ししたらもっと可哀想な奴がそっちに行くかもだから、場を暖めておいて欲しい。