姉の旅立ち。
才能の有無を確かめる方法として、最も直接的なのは他者との比較だ。人から言葉を贈られるよりも、他者の才能と比べた方がより実感が持てる。
自らの才能が褒められ、慕われるのであれば、それは十分誇るに値する才能の持ち主であると思っても良い。
私もこのリュラクシャの村で剣の指南役を任されている以上、才能がある側であることは自覚している。それでも真の天才というものを前に、何を誇れるというのだろうか。
「そ、そこまで」
審判の声もほとんど耳に届かない。息が浅い。全身が空気を欲しているのに、それに応える余力が残っていないのだ。全身が汗で濡れ、衣服も乾いている箇所を探すことが難しいほど。
剣を杖にしても立てないほどに足が震え、気を抜けばその杖からも手を離してしまいそうになる。
これ以上に放てる技などなにもない、それほどまでに疲弊するまで戦った。それでも私の目の前にいる幼馴染、イミュリエールは汗すら流しておらず、衣服や髪にも乱れはない。
「凄いわ、ネルリィ!この前よりも長くもったじゃない!」
「……そ、そうか」
教え子の一人が手拭いと水を持って駆け寄ってくれる。顔の汗を拭き、水を飲んで息を整えていく。
聖剣の乙女、イミュリエールとの鍛錬は自分達が動けなくなるまで続く。彼女がそうさせているのではなく、私達がそうするしかないからだ。
村の掟で聖剣の乙女は日々対人相手の鍛錬を欠かしてはならないというものがある。だからこうして、村にいる才能ある者がプライドを砕かれながら身を捧げている。
「ええ、おかげで眠気も覚めたわ。朝ご飯にしましょう!」
だけど彼女にとって、対人訓練は呼吸程度のもの。私達程度の相手で得るものなどあるのかさえ怪しい。
以前も懇意にしている国から騎士団が訪れていたが、そこの騎士団長でさえ彼女にとっては珍しい花を観察する程度のものだったのだろう。
朝食を済ませ、長老達のいる屋敷へ向かう。体力は大分戻ったが、全身の骨と肉、筋が満遍なく痛い。今日のやるべきことが終わったら、思いっきり長湯して体を労らなければ。
「ネルリィです。イミュリエールを連れてきました」
屋敷へと到着し、広い部屋へと案内されると、そこには長老を始めとしたリュラクシャを支える年配の者達が円で囲むような配置で座っていた。
私とイミュリエールも空いている座布団へと向かい座る。すんなりと座るイミュリエールに対し、全身が痛む私はつい姿勢が崩れそうになるも、どうにかちゃんと座ることができた。
「なんだいネルリィ。まるでわしら老人のようじゃないかい。子供達の指南役がその体たらくじゃ、皆に示しがつかないだろうに」
「も、申し訳ありません……」
「ババ様ったら酷い!ネルリィはちゃんと強くなっているわよ!今日なんていつもより七分は長く立っていられたのよ!?」
「お前さんはお前さんで、もう少し格下へのフォローを学ばんか……。まぁ良い、報告会を始めよう」
そうして始める報告会。リュラクシャは聖剣を守る村という立場ではあっても、他所との関わりを完全に断っているわけじゃない。
むしろ人間界に勇者が現れた時、この村へと誘えるようにと他国の情報を事細かく確認している。
その役割を担っているのはこの村で生まれた男、もしくはこの村の女が夫として選んだ者達だ。彼らは他にも村で生まれた男子の育成や、子を生むために村の外へと足を運ぶ女達の案内役などを行ってくれる。
そんな者達からの情報で、共有すべき内容を共有するのがこの報告会だ。このおかげで私達リュラクシャの女は辺境の地に住みながらも世界の情勢にはそれなりに詳しい。
「ま、こんなところかね。後は個人宛の手紙だ。ネルリィ、配達の方を頼んだよ」
「はい、わかりました」
彼等からの報告は事務的なものから、村にいる愛すべき者達への恋文まで様々だ。正直後者の方が厚みのある状況というのは、手紙を貰わない私のような若い女からすれば惚気の具現化を見せられている気分だ。
「あっ!」
頭の中で弟子達と協力して配って回る段取りを考えつつ、ひょいひょいと封筒の山を籠へと移していると、その中の一つに飛びつくようにイミュリエールの腕が伸びてきた。あれ、今本当に物理的に伸びているように見えたんだけど、気の所為よね?
「うわ、びっくりした」
「あ、ごめんネルリィ。でもアークァスからの手紙があったから、つい……てへ」
あったからって、今抜き取った位置って掴み取った手紙の束の真ん中付近だったんだけど……文字すら見えないのになんで見えたんだろう。
でも確かにイミュリエールの手に握られている封筒には、彼女宛であることが書かれている。
既に開封済みではあるけれど、その封筒を嬉しそうに開けて中にある手紙を読み始めるイミュリエール。
若い私に配達は任されているけれど、その手紙の内容を検閲するのは長老を始めとする、この報告会に集まっている年配の者達の仕事だ。
村の掟と女達を守り続けるために、外部からの手紙には検閲が入る。自分宛ての恋文を先に読まれることに抵抗を持つ者も多いが、駆け落ちの提案などを促す内容もないわけではないので、致し方ないといえば致し方ない。
「一人の時にゆっくりと読んだらどうなの?」
「ちゃんと後から読み直すわよ!今日一日掛けてずっとね!えへへぇ……」
「それはそれで怖いわよ……」
ようは既に長老達に確認され、問題のないと判断された内容の手紙なはずなのだが、イミュリエールの顔のほころびようには、読んだら精神関与を受ける魔法陣でも刻まれているんじゃないのかってくらいに異常に感じる。
彼女の弟、アークァスのことは私もよく覚えている。引っ込み思案な性格で、いつもイミュリエールの近くにいたが、幼馴染である私のこともネル姉とそれなりに慕ってくれていた可愛い子だった。今はもう立派な男性に育っていることだろう。
剣の腕は姉に比べれば凡才ではあったけれど、『見』には光るものを感じていた。リュラクシャの剣術は元々男向けの剣術ではないから、外で武芸を学ぶ機会があればそれなりの達人には成れているのかもしれない。
「わぁっ!ねぇねぇ!ネルリィ!これ見て!アークァスがまた押し花の栞を同封してくれているわ!」
あの子は村を出た後も、定期的にイミュリエールに手紙を送っている。暫くは各地を点々としていたらしく、何通かに一回の割合でその地域で取った花を押し花の栞として同封していた。
その習慣は今でも続いているのだけれど、最近では私やイミュリエールも知らないような珍しい花の押し花が贈られてくることがある。ここ最近はパフィードに定住しているらしいのだけれど、こんな図鑑にも乗ってない花、どうやって見つけているのやら。
「あら、とても綺麗な花だけど……なんて花かしら?」
「皆目検討もつかないわ!ババ様!この花の名前分かる!?」
「それかい、わしらも確認したんじゃがの。魔界の花でも摘んでおるんじゃないかと、さっぱりじゃったわ」
「魔界の花!その可能性もあるのね!」
「いやいや……パフィードの近くには確かに魔界に続く樹海があるけど……流石に還らずの樹海に入ったりはしないでしょ……」
魔界にあるとされる還らずの樹海、名は樹海とあるけれど、そこにあるのは生者を襲う魔樹の巣窟。国からも危険地域として厳戒な注意が行われており、それこそゴールド級の冒険者でもなければ立入れないような死地だ。
「植物は鳥や虫、そして風を介して子を増やす。魔界から流れ着いた可能性はあるかもしれんがの」
「なるほど、その線はありそうですね」
還らずの樹海には人間界の樹海が隣接している。パフィードにいるのであれば、その樹海に足を運ぶことくらいはできるのかもしれない。
それでも姉のために樹海の奥地で珍しい花を見つけてくるというのは……本当に姉思いの弟だよなぁ……。
「あ、アークァスがネル姉にもよろしくだって!来月には今月末にある『筋肉隆起大会』の写生画集が発売するから、次の手紙の時には同封できそうだってさ」
「まじで!?いやっふぅっ!アークァス万歳っ!イミュリエール、次の手紙には私からの金一封を忘れないようにな!」
筋肉隆起大会、それは闘技場を経営する国家間合同で行われる一大イベント。闘技者だけではなく、冒険者や各国の騎士兵士を含めた男達による最強ではなく最高の肉体を競う肉体美の共演。
各国の芸術家が総動員され、その大会の様子は画集としても発売され、広く人気を集めている。
かくいう私もその画集の熱狂的なファンの一人。過去十五年分の画集は私の家宝とも言える品だ。
そして次の季節にはそれが一つ増えることとなる。これが喜ばずにはいられるか!
「うん。これほど安心できる幼馴染ってネルリィくらいのものよね……」
「?」
イミュリエールが何に安堵しているのかは知らないけど、少なくともアークァスからの朗報は私の全身の痛みを消し飛ばすだけの歓喜を与えてくれた。今日は気持ちよく温泉に入れ、酒も美味しくいただけることだろう。
イミュリエールは既に読み終えた手紙を再度読み直している。剣術では誰一人として彼女の表情を崩すことができないというのに、その弟は手紙と栞一つでここまで感情豊かに変えてみせるのだから、絆というものは馬鹿にできないものだ。
「会いたいなぁ……アークァス……うん、会いにいこっと!」
「――へ?」
その言葉にこれまで穏やかだった周囲の空気が一変する。その空気に即座に同調出来なかったのは、私がまだ若いから故なのだろう。
少し遅れてイミュリエールが口にした言葉が何を意味しているのか、それがどういう影響を周囲に与えたのかを理解する。
イミュリエールはアークァスに会いに行くと言った。それは即ちこのリュラクシャの外へ出るということだ。
聖剣を護る村として長い歴史の間、掟は守って当然のものとして私達は教育を施されてきた。その中でも最も聖剣に近い存在、聖剣の乙女の在り方は絶対でなければならない。
聖剣の乙女は勇者に聖剣を託すその時まで、いかなる時も聖剣の傍から離れてはいけない。それだけが存在意義なのだと。
「イミュリエール、今お前さん、自分で何を口にしたのか分かっているのかい?」
「もちろんよ、ババ様。アークァスに会いに行くって決めたの!ああ、どんな服を着ていこうかしら?あの子人の好みはズバズバ当ててくる癖に、自分の好みはほとんど喋ってくれないの――」
「イミュリエールッ!」
長老の一括で空気が震える。長老も昔は私と同じような立場で、聖剣の乙女を支えてきた剣士。その威圧は老いてもなお健在……なのだが、イミュリエールにはどこ吹く風といった様子だ。
「あは、ババ様ったら大きな声を出しちゃって。屋根で戯れていた小鳥達がビックリして逃げ出しちゃったじゃない。可哀想に」
「聖剣の乙女の役目を忘れたわけじゃないだろうね」
「忘れてなんかいないわよ?アークァスとも約束したもの、ちゃーんと聖剣の守護者として立派になるって」
そういってイミュリエールは静かに立ち上がり、長老の元へと一歩、また一歩と歩み寄っていく。
異質な緊張感の中、皆が臨戦態勢になっているのが分かる。ただ一人、場の空気に同調しそこねた私だけが動けないでいた。
「なら――」
「聖剣の乙女としての役割を果たせれば良いんでしょ?だから聖剣は私が貰っていくわね」
イミュリエールの狙いは長老が持っている聖剣が眠っている洞窟に入る鍵。それを理解した皆がそれぞれ隠し持っていた武器を握り、イミュリエールへと斬り掛かる。
ここにいる皆はリュラクシャを支えてきた熟練の剣士達。剣の指南役などを私達若い世代に譲りこそしたものの、その実力は未だに私なんかじゃ足元にも――
「もう、皆歳なんだから無理しちゃダメじゃない」
ありえない剣の軌跡が目に入った。放たれたのは一閃のはずなのに、距離の違う皆の腕を的確に、同時に切り落とす蛇のような軌跡。
人の動きじゃないとか、そういう次元じゃない。物理的にありえない軌道で斬撃が放たれ、飛びかかった皆の腕が切断されている。
「イミュリエールッ!血迷ったかっ!」
「迷ってなんかいないわよ?私は昔からずっと一途なんだから」
「こんの恩知ら――」
仕込み杖を手に取ろうとした長老の腕が床へと落ちる。今の斬撃に至っては軌跡すら見えなかった。
その構えから、基礎はリュラクシャに代々伝わっている剣術であることは確か。それなのにイミュリエールの剣をまるで捉えることができない。
「あ、動かないでね。次動いた人の頭、十字に斬るから。ええと、確か鍵は左の懐のところにあるのよね」
イミュリエールは動けない長老の懐から、鍵となる魔石を奪う。そしてその魔石を掌で弄びながら、ゆっくりと部屋の出口へと向かっていく。
今この中で動けるのは私だけだ。だけど今の私は朝の鍛錬でほとんど体が動かない。いや、史上最高の状態だったとしても、彼女相手に何ができるというのか。
「イミュリエールゥゥゥ……ッ!」
「別に心配しなくても良いわよ、ババ様。私が聖剣を持っていれば、そこが一番の安全地帯なんだし。勇者が現れたら適当に試練を与えて、見込みがあれば渡せば良いんでしょう?大丈夫よ、弟との約束には拘るけど、聖剣には全然拘りなんてないし。あ、ネルリィ!ちゃんとババ様達の治療お願いねー!追ってきたら殺しちゃうからねー!」
私の方を見て、いつものように笑顔で手を振るイミュリエール。あの子は何一つ変わっちゃいない。
私のことも幼馴染として、友人として好いてくれている、ただ弟が大好きなだけの一人の乙女。
ただ一つだけ勘違いしていたのは、価値観の絶対的な違い。自分達を育ててくれた親代わりの存在や、長年共に鍛錬を積んできた友人。彼女にとってそれらは切り捨てるのに迷う理由すら必要がない有象無象であるということ。元々多くのことに無頓着な子だったけれど、その程度を見誤っていた。
イミュリエールが去った後、自ら活を入れて体を動かし、人を呼び集めながら長老達の治療を行う。切断面は見事なもので、血を失ったことによる貧血等の心配はあるだろうけど、魔法で治療すればほぼ元通りになるだろうという状態だった。
「長老……申し訳ありません……。私は動くことすら……。すぐに皆を動員して――」
「……よい。アレを止めることなど誰にもできん。この傷は感情的になったわしらの落ち度よ」
「しかしそれでは聖剣は……」
「イミュリエールの言う通り、あの者が持っている限り何者かに奪われるようなことはあるまい。……各国に打診はしておかねばならぬがの」
「直ぐに手配します」
「いや、おぬしには別の用件を任せたい。アレの弟、アークァスにことの事情を伝え、イミュリエールに戻るように説得をして欲しいと頼んでもらいたい」
「それは……あ」
既にイミュリエールは封印を解いて洞窟に入り、聖剣を手にしている頃だろう。その後は真っ直ぐにパフィードを目指すはずだ。
普通ならば私が今から急いだところで、先回りすることなど不可能。しかし、冷静に考えればそれは十二分に可能であると私の経験則が言っている。
「うむ。あの馬鹿娘は極度の方向音痴。昔は村の中ですら迷子になっておった。そんな者が数国分も離れた遠方の地に真っ直ぐに辿り着ける道理もあるまい」
「……想像に容易いですね」
長老達の治療を終えると、私は家に戻って旅支度を行った。
屋敷に戻った時に聞いた報告では、イミュリエールは洞窟から聖剣を回収し、村を出たそうだ。
ただし、パフィードの方角とは完全に逆の方向に進んでいったらしい。私の家から地図が無くなっていたけど、多分イミュリエールがそれを拝借し、真逆に読んで行ってしまったのだろう。
「地図を使う知恵はあったのに……期待を裏切らない子……」
「実力を抜きにしても、あの馬鹿娘に不覚を取ったことが人生最大の恥じゃよ……。コホン。それではネルリィ、アークァスとの交渉は任せたぞ」
「はい、任せてください!あの子も姉が暴走していると知れば、素直に協力してくれると思いますから」
イミュリエールを止めるために村の外に出る許可を得ることができた。これは幼馴染である私に課せられた運命なのだろう。色々と倫理観が終わっている幼馴染だけれど、それでも私にとっては数少ない親友なのだ。
今、私の心の奥底で滾っている感情がある。私はその感情を裏切らずに進まねばならない。
「うむ……ところで、その大量の荷物はなんじゃ?」
「家宝です!やはり聖地に向かうのであれば、神器を持参するのは礼儀かと思いまして!」
そしてこの時期に外出の許可が出た。それは即ち、私にパフィードで行われる今年の『筋肉隆起大会』をその目で見ろという女神ウイラスの思し召しでもあるのだろう。
「……イミュリエールも大概じゃったが、この馬鹿も大概じゃな」
「えっ、今何か言いました!?」
「ええい、外出先で私欲を満たすのは良いとするが、きちんと役目は果たすんじゃぞ!」
「はい!今年の画集もしっかりと確保してきます!」
「誰か!他に適任はおらんのか!?」
今、私の心の奥底で滾っている感情がある。私はその感情を裏切らずに進まねばならない。
ウイラス「そんな思し召し、記憶にないですよ」
やばい姉さんが解き放たれ、不憫役が一人増えたと思ったらこいつも大概だった。そう、不憫役はマリュア一人で十分なのだ。