穢れたこの手では、君の身体には触れられない。
綺麗なものには、汚い手で触りたくない。
それは、人としての当然の欲求ではないだろうか。
宝石を扱う時は手袋をして、そっと手に乗せ、息が吹かかることすら耐えられない。――僕はそんな人間だった。
『私の手って汚いかな? 海斗くんって、いつも手袋してるよね』
中学三年生の頃、初めてできた彼女に3日で振られた。
その原因は、彼女が僕と手を繋ごうとした時、それを僕が全力で拒絶してしまったせいだ。
彼女は怒るのではなく、泣きながら去っていった。
それから僕は『潔癖クソ野郎』と罵られ、半年近く酷いいじめを受けて遠くの高校へ進学した。
当然の報いだと思った。
他人に触れられない悲惨な人間の末路だと。
でも僕は、潔癖症なんかではなかった。
僕は穢れている。だから誰にも触れられない。
――僕には、人に触れられない呪いがかかっている。
~~~
高校へ進学して半年が経過した。
僕は友達を一人も作らなかった。
友達がいれば、傷つけてしまうだけだ。
僕は普段から手袋をつけている変わったヤツとして、クラスでは浮いた存在になった。
しかし苦ではなかった。誰にも触れる機会がないのは、僕にとってとても居心地が良かった。
『わ、私と付き合ってください!』
成績は良く、スポーツもそこそこ達者だったためか、何度か女の子に告白された。
話さないから、大人びているように見られるのだろう。
正直、それら全てが罰ゲームだと今でも思っている。
多分、僕はもう誰とも付き合うことはないだろう。
好きになってしまえば、余計に触れられなくなってしまう。
そうすればいずれ愛想をつかされる。
それに、僕の過去を知れば離れていってしまうだろう。
しかしある日のことだ。
僕の前に超絶可愛い女の子が現れ、こう言った。
『君、私と付き合ってくれない?』
彼女が教室に来てから、周囲がざわつき始めていた。
どうやら、学年のマドンナ的存在なのだろう。
そんな彼女が話したことも無い僕に告白?――そんな馬鹿げた都合の良い話があるわけがない。
『えっと……』
『瑠奈でいいよ』
『……瑠奈さん。なんで僕なのかな? 瑠奈さんにはもっと良い人がいると思うんだけど。僕なんかにはもったないって』
いつも通り。僕は丁重にお断りしようとした。
『……君って、やっぱり卑屈だよね』
と、どこか寂しそうに瑠奈さんが言った。
まさか告白してきた相手にディスられるとは。
『やっぱり私と付き合いなさい。ハイかyesかで答えて』
『え、あ……はい』
そんな拒否権のない選択肢を提示され、半ば強引に僕は瑠奈さんと付き合うことになったのだ。
彼女は青天の霹靂のごとく現れ、太陽のごとく天真爛漫な笑顔で、僕を色んな場所に連れ回した。
『一緒に帰ろ!』
『駅前のカフェに行こっか』
『ねえ、週末デートしない?』
『今月末、ちょっと遠くの遊園地に行こうよ』
彼女は素っ気ない態度を取る僕に、いつまでも楽しそうに話しかけてくれた。
僕もなんだかんだ約束は守り、少しずつ心を開いていった。
楽しかった。嬉しかった。好きになってしまいそうだった。
それ故に……苦しかった。
彼女と手を繋ぐとき、いつも手袋をしていることに。
いつ、あの言葉を言われるのか怖かった。
『ありがと。今日は楽しかった!』
でも彼女は、いつも去り際に笑顔でお礼を言った。
楽しい? 僕は本当に嫌な態度ばかりとっているのに。
僕は瑠奈さんが、周りから別れるように言われているのを知っている。
でも僕の方から別れを切り出す訳にもいかず、彼女が僕に構わなくなって自然消滅するのを待った。
すぐに愛想をつかされて捨てられると思っていたが、彼女は相も変わらず僕に微笑みかけ、気づけば1ヶ月記念日を迎えていた。
『じゃあ、明日13時に集合ね!』
そしてまた、瑠奈さんは僕をデートに誘ってくれた。
その度に胸が苦しくなった。
いつまで経っても、僕は彼女に近づくのを恐れている。
~~~
「それじゃあ、行ってきます」
瑠奈さんとの約束の時間に間に合うように、僕は昼前に家を出発した。
「海くん。最近よくでかけるね」
「……友達ができたんだ。今日も遊びに行く」
そう言うと、おばさんは口を抑えて涙ぐんだ。
「海くんに……友達。良かった……良かったぁ」
「泣きすぎだって。じゃ、じゃあ行ってくるから」
おばさんは僕がいじめられていたことを、多少なりとも察知している。
だから本当の親のように喜んでくれたのだ。
『あんたなんか、産まなきゃよかった』
脳裏に焼き付いた声が聞こえる。
……嫌なこと思い出してしまったな。
待ち合わせの場所についた時、時計の短針はまだ12の文字盤を指していた。
1時間前集合は当然だ。僕なんかが彼女を待たせる訳にはいかない。
とはいっても、彼女も30分前には着くので、基本的に待ち合わせ時間は遅めに設定してある。
「……あ、あの!」
人通りをぼんやりと眺めていると、声をかけられた。
瑠奈さんじゃない。知らない女の子だ。
「や、やっぱり……お兄ちゃん、だよね?」
「…………彩海?」
世界が静止したように音が消えた。
僕はその少女を知っていた。
封印したい記憶の片隅で蹲っている。
「……久しぶりだね。げ、元気だった?」
声を聞くと、記憶が蘇ってくる。
汗が止まらない、鼓動が波打つ、呼吸が荒い。
苦しい。上手く息ができない。
「…………てくれ」
「……え?」
「もう放っといてくれ!」
僕は――逃げ出した。
現実から目を逸らすように、過去に背を向けるように。
できるなら、死ぬまで会いたくはなかった。
なんで今更! なんで今更! なんで今更!
母さんと一緒に僕を捨てたくせに!
あのクソ親父の元に置き去りにしたくせに!
「ま、待って!」
信号で足を止めると、彩海は信念で追いついてきた。
こいつ、こんな根性あるやつじゃなかったのに――。
「お母さん、謝ってた! 今でもずっと後悔してる! お願いだから、お母さんに会って欲しい!」
「何なんだよ、今更! 僕があの後、あのクソ親父の元で何があったかくらい、お前だって知ってるだろ!」
そう言われて、彩海は数段顔を歪ませた。
今でも夢に見る。
酔った親父に虐待され、酒瓶で頭を割られたこと。
飯を食べさせてもらえなくて、空腹で寒い冬の夜を彷徨った。
母さんが彩海を連れて家出したことで、僕はクソ親父の暴力を一身に受けることになったのだ。
そこからの日々は、上手く思い出すことが出来ない。
防衛本能があの地獄を忘れようとしているのだ。
でも、恐怖だけは烙印のように刻まれている。
僕は彩海の手を振り切って逃げ出した。
人気のない路地に入り、怯えるように蹲った。
多分、僕は恐れているのだ。
忘れていた記憶が蘇ってしまうことを。
「……海斗」
「……瑠奈」
顔を上げると、瑠奈が心配そうに僕を見つめていた。
この様子では、一部始終を見ていたのか、もしくは……。
「図ったのか? 僕が彩海と再会するように」
「……うん。二人には仲直りしてほしくて」
しらばっくれるかと思ったが、瑠奈は静かに頷いた。
それを聞いて愕然とした。
『騙された』という漠然とした怒りが込み上げてきた。
「いつから、彩海と知り合いだったんだ?」
「……君に告白する前から」
「じゃあ、最初から僕は騙されていたんだな」
「騙してなんかないよ! 海斗を好きなのは本心だから!」
慌てて瑠奈が否定する。
でも、どうだっていいことだ。
もう何も信じられない。
「じゃあ、あのことも知ってるのか?」
「……うん。知ってるよ。君が、父親から虐待を受けていたことも、母親が君の妹を連れて家を出ていったことも……」
瑠奈はそして、喉につっかえた言葉を苦しそうに口にした。
「その末に君が、父親を殺してしまったことも」
「――――ッ!」
その言葉を聞いた瞬間、全身に凄まじい悪寒が走った。
喧騒とした街の活気が、一気に失われて静寂に呑まれたようだ。
知られていたんだ、全部。
全身から汗が滲み出てくる。
「……違う。僕は悪くない。全部、あいつが悪いんだ!」
両手で頭を抑えてそう叫んだ。
言い訳をするように。神に許しを乞うように。
――今でも覚えている。
噎せ返るような猛暑の日だった。
母さんが彩海を連れて家出した数日後、僕は父親を台所にあった包丁で刺し殺した。
あいつが死ねば、母さんが戻って来てくれると思ったのだ。また家族3人で仲良く暮らせると思っていた。
幼いがゆえの、無邪気な浅知恵。
今でも覚えている。
忘れた気になっていても、心が記憶している。
鼻がねじ曲がるほどの腐敗臭。
鮮血に染まった両手。
肉を刺したときの生々しい感触。
『やっぱりお前ェは俺の息子だよ。……俺の穢れた血が流れてるんだからな。この……殺人鬼がァ』
最後の最後まで、クソ親父はクソ親父だった。
僕に刺されて笑っていた。所詮、同じ穴のムジナだと。
僕がまだ小学生だったこと。長期に渡る虐待と、母親の家出によって心的外傷後ストレス障害に陥っていたこと。
僕は親殺しという罪人でありながら、責任能力はないと判断されて法に守られた。
その後、おばさんの元に引き取られた。
距離感はあったが、愛情を受けて育った。
でも、罪の意識だけは消えてくれなかった。
どれだけ手を洗っても、赤い鮮血はこびりついていた。
記憶とは残酷だ。
忘れたいことほど、忘れられない。
あの日の記憶が、脳裏に焼き付いて離れてくれない。
「それを知っていて、僕と付き合っていたのか」
再度、僕は瑠奈の異常さを問い詰める。
殺人鬼と知りながら告白してきたなんて、頭がおかしいとしか思えない。
「殺人は悪いことだよ。君の行いが正しいなんて、口が裂けても言えない。……でも、君は十分苦しんだ。君は幸せにならなきゃいけないんだよ」
「……はぁ? 親を殺しておいて、幸せになれるわけないだろうが!」
咽び泣くように言い放つ。
多分、僕は一生誰かを愛することができない。
これは呪いなんだ。
人に触れられない呪い。人を愛せない呪い。
この血塗られた両手を切り落とし、体内に流れる穢れた血を吐き出さなければ、瑠奈の隣にはいられない。
綺麗なものには汚い手で触れたくない。
僕はどこまでいっても、醜い殺人鬼だ。
「そんなことない! 君は、君自身を許せないだけだよ!」
当たり前だ。
僕は子ども故に法の下に裁かれなかった。
でも、罪の意識は背後霊のように付きまとってくる。
「法ですら僕を裁いてはくれなかったのに、誰が僕を許すって言うんだよ」
「私が許すよ。君が君自身を許せなくても、私だけは君を許したげる。君が許されない罪を背負っているというなら、私も一緒に背負うから」
瑠奈は僕の手を掴んだ。
それを勢いよく振り払うと、手袋が脱げて肌が露出した。
穢れた血に染まった両手だ。
「海斗!」
瑠奈はすぐさまその手を握った。
その瞬間、瑠奈の白い肌が赤く汚れていくように見えた。
「触るな! 僕は……瑠奈を汚したくはない!」
鮮血が伝染していく。瑠奈を侵していく。
僕にはそれが耐えられない。
心が、魂が――穢れていく。翳っていく。
「私は――君になら汚されてもいい!」
しかし、その言葉が心の陰を晴らした。
「あ、いや……その変な意味じゃなくてね!」
瑠奈が頬を赤らめて訂正する。
でも、手だけは強く握ったまま離さなかった。
「……なんで、そこまで僕に優しくしてくれるんだ」
当然の疑問を投げかける。
彩海と知り合いだったとしても、そこまでする義理がどこにあるのだろうか。
すると瑠奈は、寂しそうに薄く微笑んだ。
「やっぱり忘れてるよね。中学生の頃は、3日で別れちゃったから」
「……え?」
「苗字呼びだったこともあるけど、忘れてるなんて酷くない?」
そう言われて、記憶の中のあの子と瑠奈の姿が重なる。
嘘、だろ。あの子なのか。
だって、遠くの学校に進学したし、容姿だって随分と違う。
「いつか仲直りしたくて、同じ高校受験したんだよ。君、頭良かったから、一生懸命勉強して、地味な女の子だったから、ファッションとか髪型とかも色々勉強して、君に好きになってもらおうと努力した。……海斗のおかげで、私は変われたんだよ」
頬を赤く染め、照れくさそうに瑠奈が笑う。
「……ずっと謝りたかったんだ。あの日、君に手を繋ぐの拒否されて、悲しくて友達に相談したんだ。君がいじめられているの知った時、私は何もしなかった。……本当にごめん」
謝らないでくれ。――その思いすら声にならない。
分からない。なんでそこまでしてくれるのか。
僕は何の取り柄もないつまらない人間なのに。
「あ、それはまだ納得いっていない顔だな。君って自己評価も自己肯定感もめちゃくちゃ低いから。どうせ、私が告白して付き合ってるのも、まだ罰ゲームか何かだって思ってるでしょ」
「……うっ」
図星を突かれる。
でも、そう思うのはボッチの宿命かもしれない。
自分の評価が低いと、誰かが自分を好きになってくれる人なんていないと決めつけてしまうのだ。
「じゃあさ――」
すると、瑠奈は握っていた手に指を絡ませ、恋人繋ぎをした。
そして突然――僕の唇を奪った。
お互いの指に、力が入るのを感じた。
胸がキュッと締め付けられ、波打つように鼓動する。
「……これでも、信じられない?」
そう言って、瑠奈は照れくさそうに舌なめずりした。
その表情を見て、僕は全身から力が抜けた。
気づいてしまったのだ。
その艶美な表情は、恋する乙女のそれだと。
「どうして……ッ。僕なんかを」
「君が、本当は誰よりも優しいことを知ってるから」
瑠奈は揺るぎなくそう断言した。
思えば、中学生のときも告白は向こうからだった。
「君は自分を酷くつまらない人間だと思っているんだろうけど、私はそうは思わない。君が君自身を嫌うのなら、私は君が君自身を好きになってくれるように努力するよ」
僕の深く沈んだ心に、光が射す。
「私はあと何度、君の好きなところを言えばいいかな?」
瑠奈は天使のような慈悲深い目で微笑んだ。
「……瑠奈は、僕の過去を知りながら、隣にいてくれるのか?」
「うん。もちろんだよ――っと!?」
僕は瑠奈を引き寄せて抱きしめた。
気づけばもう、両手の鮮血は見えなくなっていた。
「ありがとう……もう一生、誰にも言えないって思ってた。ずっと一人で抱え込んで生きていくんじゃないかって……本当は怖かった」
僕の過去を知れば皆離れていってしまう。
ずっと隠し続け、騙し続け、罪悪感を抱きながら生きていく。
だから誰かの隣には居られない。――そう思っていた。
僕は泣いた。子供のように、わんわんと泣き喚いた。
涙を流すなんていつぶりだろうか。
思えば、母さんが家出した時も、父さんを殺した時も泣きはしなかった。
僕はずっと、自分の弱みを誰かに曝け出したかったのかもしれない。
瑠奈はそんな僕の頭を撫でながら、優しく抱擁してくれた。
~~~
後日、瑠奈の仲介の元、彩海と面と向かって会話した。
そして、母さんが家出した時のことを聞いた。
母さんは酷いDVを受け、精神的に疲弊しきっていたこと。
金銭的に二人も養う余裕がなかった母さんは、せめて彩海だけでもと先に逃がすことを決意したこと。
その後すぐに、おばさんが僕を迎えに来てくれる予定だったこと。
その前に僕が父さんを殺してしまったこと。
おばさんが遅れた事に対して負い目を感じていること。
母さんがその事を知り、寝たきりになってしまったこと。
本当はその旨を伝えた手紙を残していたらしいが、どうやら僕はその手紙を発見できなかった。
その手紙を読んでいれば、あんな悲しい結末にはならなかったのかもしれない。
「……お母さん、5年たった今でも寝たきりで、私が話しかけても薄い反応しかしないんだよね。でも、時折『ごめんなさい。ごめんなさい』って、お兄ちゃんに謝ってる」
そして彩海は再び懇願した。――お母さんに会って欲しい、と。
「私からもお願いするよ。海斗だって、このままじゃいけないって、本当は思ってるんだよね」
瑠奈も彩海とともに頭を下げた。
この二人の願いを無下にするのは、兄として、彼氏として、男として、人として、間違っている気がする。
だから僕は、二人の願いを聞き入れた。
本当は僕も母さんに会いたい。会って、仲直りしたい。
母さんが暴力を受けていたとき、僕はいつも庇って殴られた。
だから母さんは苦しそうに涙を流しながら『あんたなんか、産まなきゃよかった』なんて心無いことを言ったのだ。
そうすれば、僕が母さんを庇わなくなるとでも思ったのだろう。
あの言葉が最後になるなんて、そんなのは絶対嫌だ。
それから一週間程度が経ち、僕は瑠奈と一緒に母さんに会いにいった。
「気づいてもらえるかな」
「まあ、どっかの誰かさんはたった一年で私の事忘れてたもんね」
「返す言葉もありません……」
悪戯っ子っぽく瑠奈が微笑む。
「私も一緒にいこうか?」
「いや、もう大丈夫だから。一人で行くよ。これは、僕が一人で行かなきゃダメなんだ」
「うん、分かった」
市内で一番大きな病院の、小さな一室。
母さんの名前が書かれたネームプレートを確認し、扉の前で大きく深呼吸をする。
持ち上げた手が震えている。
「……何を恐れてんだよ」
大丈夫。僕には、瑠奈がいる。
何を話したいか、考えはまだ纏まってはいないけど、きっと大丈夫だ。そんな気がする。
コンコンとノックをすると「……どうぞ」というか細い声が聞こえた。
横開きの扉をゆっくりとスライドさせると、窓から流れ込んだ秋の風が鼻先を撫でた。
清潔感のある白いカーテンが風にひらひらと靡いている。
当然と言えば当然だが、母さんの見た目はあまり変わってはいなかった。
それでも、あの頃に比べて血色が良いように見える。
そりゃそうだ。あの頃は子育てと父親の暴力ばかりでろくに寝れていなかっただろう。
「……っ! か、海斗……」
母さんは僕を一目見て、目を見開いた。
良かった、気づいてもらえて。
5年も会ってないから、大分見た目も変わってるだろうに。
手で口を覆い涙を浮かべる母さんに、僕は笑顔で歩み寄った。
母さんはきっと、罪悪感で僕に近づいてきてはくれないだろうから。
「……ごめん。今日まで会いに来れなくて」
「そんな……私は、あなたに酷いことを」
「大丈夫。僕は元気にやってるよ」
母さんは咽び泣くように声を絞り出した。
僕はベッドの隣に置かれた椅子に座り、母さんの怯えた目を覗き込んだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……私、親として許されない最低なことしちゃった」
「僕は許すよ。母さんが自身を許せなくても、僕は許す。確かに辛い思いはしたし、寂しくて、苦しかった。――でも、僕は今は幸せだから。母さんにも幸せになってほしい」
瑠奈が僕にしてくれたように。
僕も母さんを許そう。
許すことは別に肯定することじゃない。
僕は僕自身を許せないんじゃなくて、許したくなかったんだ。
許してしまったら、本当に殺人鬼になってしまうと思ったから。
でも違った。許さないと、前には進めないんだ。
「もう一度、家族3人でやり直そう。彩海もそれを望んでる」
「……うん。うん。ありがとう……ありがとう」
僕は母さんの手を握った。
もちろん、手袋なんてもういらない。
母さんの手は小さくて、震えていた。
もう、僕は守られる側じゃない。
「そうだ。僕、彼女できたんだ。世界一可愛くて優しい女の子。また今度紹介するよ」
「……海斗が選んだ女の子なのだから、きっと素晴らしい人なのでしょうね。楽しみだわ」
まだぎこちないが、母さんは確かに笑った。
一歩ずつでいい。早歩きじゃなくていい。
失った5年を取り戻すんだ。
また家族で笑い合える、幸せな未来に突き進むために。
これからは幸せな日々を送ろう。
自分を卑下にすることが償いじゃない。
綺麗なものには、汚い手で触りたくない。
でもそれ以上に。
この手で、肌を通して、誰かの優しさや温もりに触れていたいと――そう思った。
また重いのを書いてしまった……。
でも、救いも希望もある作品です。
元々長編の一部として考えていたものを、短編として無理やりに抽出したものなので、心情の変化は早く、ヒロインが主人公に固執する理由も分からず、最後はご都合主義の駆け足展開になってしまいました。
あまり作者的には納得いかない出来になりました。