おびき出せ
独特の甲高い音は、坑道の中で反響し、よく聞こえた。
音は小さかったが、聞き慣れない音は不思議と目立つものだ。
「……」
「……」
リチャードの真似をしたわけではないが、ルジャは指を立て、皆に沈黙を促した。
それまでぼそぼそと会話していたレヴィも口を噤み、表情を強張らせている。
『……』
エバンスは辺りを見回し、反応を窺った。
大部屋にはリチャードを除いた四人がおり、それぞれ休憩がてらの雑談を交わしていた。そんな彼らから笑みが消え、重い沈黙が訪れている。
──コカカカ
小さな音が響き渡る。音は、先ほどよりも近い。すぐそこではないが、遠くはない。少なくとも、坑道の中に入り込んでいる……。
『……!』
その時点で、パトレイシアは己の失態を悟った。
こうして雑談に興じているきっかけは先ほど見かけたヴァンパイアの報告のためであった。そこからすぐに、坑道まで追跡されたのは偶然ではあるまい。ならば何故……そう考えた時に、片手間で持ち合わせていた布材が思い浮かぶ。
ヴァンパイアは音で空間を把握する。
宙に浮かぶ布が、わずかに反響を歪ませていたのだとすれば……それは紛れもなく自分の責任だ。
パトレイシアは人一倍多く働き、考えを巡らせていた。肉体はないが精神は疲れる。そんな弛みが失態に繋がった……そう考えられたとしても、自分の行動によって仲間を危機に晒していることには違いない。
彼女はわずかに唇を噛むと、速やかに覚悟を決めた。
表明は小声だ。
『……私の声で誘導し、坑道の外へと連れ出します』
危険だ。ルジャはそう言いたげに首を振ったが、パトレイシアは頑固だった。
この場で最も安全に囮になれるのは、宙に浮かべる己をおいて他にはいない。
ヴァンパイアには霊体を傷付ける力があるが、うまく立ち回れば避けることも適うだろう。
『皆さんはここでお待ちください。くれぐれも、お静かに……』
三人は誰もがパトレイシアを引き止めていたが、彼女は貴族らしい礼を見せると、すぐさま大部屋を飛び去っていった。
坑道は長く、入り組んでいる。音も複雑に反響するはずだ。
しかしヴァンパイアのパイルは長く洞窟生活を続けていたためか、音の捕捉は手慣れている。彼は甲高い音を振りまきながら、壁にぶつかることもなくそろりそろりと地を這い、獣のように進んでいた。
パトレイシアは坑道の大通りに彼の存在を見つけると、覚悟はしていたが身体が竦むような思いがした。
逃げ場はなく、目の前には己を殺し得る獣が着実に近づいている。恐ろしくないわけがない。
仮に自分の全盛期、肉体を持っていた頃であっても苦戦するか、殺されるだろう。
だが幸いにも、このヴァンパイアには視力がなかった。
パトレイシアは異音を鳴らすヴァンパイアの真横を通り過ぎ、背後に回った。
やはり幽体を捉えてはいない。それならば囮の役目は果たせるだろう。
背後から更に奥、入り口側へと移動する。やるべきは誘導。音や声で、ヴァンパイアを導かねばならない。
『こちらです』
パトレイシアは声を出した。途端、ヴァンパイアが立ち上がる。
不気味な動きだった。手足を獣のように動かし歩いていた者が、唐突に人間のように立ち上がったのだから。
しかし振り向いた時の醜く爛れた顔はやはり、獣そのもの。
「カカカカッ」
『え』
一瞬のことである。声に反応したヴァンパイアが立ち上がり、振り向き、そのまま跳躍し、爪を振り抜いた。
大振りな一撃。着地と同時に振りかざされる凶刃。
魔力を帯びたその攻撃は、パトレイシアが回避する暇もないほどに洗練されたものであった。
『……!』
魔力による攻撃は霊体を傷付ける。パトレイシアの胸部には三本の深い裂傷が刻まれ、霊子が血のように溢れていた。
長らく感じることのなかった激しい痛みに、パトレイシアは思わず呻きかける。声を出さなかったのは、彼女が持つ強靭な精神力故であろう。
「コカカカ……」
距離はあった。背後からだった。だというのに、反応できない速度で距離を詰められ、一撃を与えられた。パトレイシアは傷ついた胸を押さえながら、ふらふらと入り口側へと漂ってゆく。
ヴァンパイアの攻撃は反応的なものだった。即座に反応し飛びかかる野生の魔物のそれだ。止まったまま誘引しては命がいくつあっても足りない。
動きながら誘き寄せなくてはならない。今度は、攻撃を喰らわぬように。
『そう、こちらですよ……!』
再び声に反応し、ヴァンパイアが飛びかかる。音の発生源を立体的に捕捉し、飛びかかり、爪を突き立てる。
今度は動きながらであったので、どうにか直撃を食らうことはなく回避できた。
それでも、無傷ではない。最初の一撃で相当の魔力が持っていかれたせいか、退避の動きも鈍っていたようだ。
パトレイシアのスカートの端が刻まれ、霊体に更なる傷がつけられている。
霊体にとっては衣服さえ己の一部だ。傷付けられれば魔力が漏れ、本体に影響する。
本来ならば傷でもなんでもない服の損傷でしかない当たりが、着実に自分を蝕む傷となっている。その事実にパトレイシアは歯噛み、死の直前に乗馬服でも着込んでいればと現実逃避したくなった。
だが二度にわたる声の誘導は効果があったのか、ヴァンパイアに“位置を変える音源”としての意識を植え付けることには成功した。
ヴァンパイアは既に入り口へ警戒を示し、奥へ踏み入る様子もない。
このまま外へ追い出せば、どうにか……。
「カカカカッ、カカカカッ」
だが、パイルの挙動は彼女の期待を裏切った。
彼は闇雲に辺りへ爪を振るい、無差別な攻撃を繰り出し始めたのだ。
『な、痛ッ……!』
それは見えざる者であり不死者であるが故の、短絡的かつ獣じみた破壊。
暴れ、壊す。それにより身じろいだ獲物を暴き出し、仕留めるための狩猟本能。
実際、彼の無差別な爪刃はパトレイシアの腹を擦り、呻き声を引き出した。
獲物がそこにいる。ならば更に暴れれば、より確実に仕留められる。
パイルは奇声をあげながら両手を振り回し、見えざる何かを襲い続けた。
手応えはない。何を攻撃しているのかもわかってはいない。
それでも彼の猛攻は、着実にパトレイシアの身を引き裂いてゆく。
『──ライカールが沈み、闇夜が登る 暮れた世界がやってきた』
その時、歌声が聞こえた。
坑道の奥、ヴァンパイアの背後から。
『──我らの時間の始まりだ さあ剣を取れ 狩りを始めよう』
『いけ、ません……』
美しい歌声。不吉な歌。
ヴァンパイアは自分の足元から呻き声がするのもわかっていたが、一際大きく響き始めた歌声に誘われ、走りだした。
『──闇夜は我らの領分だ』
エバンスは暗闇の奥からやってくる四足歩行の足音を睨んでいた。




