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埋没殿のサイレントリッチ  作者: ジェームズ・リッチマン
第五章 バンシーのエバンス
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たったひとりのための舞台

 リチャードは去り、エバンスは再び壇上に取り残された。


 舞台に上り込む侵入者は消えた。しかし、エバンスの視界には今までと異なるものが置かれている。


 中空の石像。

 硬質な見た目に反して空洞が多く軽量なその像は、金属のように滑らかな灰色を呈している。

 それは背の低い小さな子供が直立しているというシンプルなもので、子供は小道具を持っておらず、質素な服を着ているのみだ。


 エバンスにとってそれは、ただの石像に過ぎなかった。

 視界に現れた時は一瞬だけ心が揺らいだ気もしたが、彼はすぐさまバンシーとしての反応に意識を落とし、気にすることをやめた。


 やめたので、彼は再び歌い始める。

 知らず知らず、子供の石像と向き合うように。



『──森の奥へといらっしゃい 撒かれたどんぐりのしるべを辿り 狭い道を進んでおいで……』


 子供を怖がらせる劇の挿入歌を歌い始めたその時、バンシーは目の前の石像から気配を感じた。

 恐怖するように震える感覚。しかし、当然石像がひとりでに震えているわけではない。

 バンシーの甲高い歌声により、中空の石像が共鳴しているだけに過ぎない。


 そうとわかれば、ただの自然な現象である。

 バンシーはそこに邪魔者の気配がないと知ると、再び歌いだす。


『──枝を折ってはいけないよ 虫を踏んではいけないよ 君は森のお客様 自然を荒らせば返してやらない……』


 歌い続けるうちに、再び中空の子供像が共鳴する。

 歌声が像の内部で反響し、うめき声のような響きとなって旋律の邪魔をする。


『──ァアアアアアッ!』


 バンシーはそのノイズが酷く気に障り、歌の最中に絶叫をあげた。

 負の力を帯びた金切り声は近くを彷徨っていたゴーストを八つ裂きにし、霧散させる。


 だが、子供像は砕けない。

 いくら歌声を上げようとも、叫ぼうとも、稀少な灰霊石によって作られたそれは極めて頑強であり、焼き上げた後は金属並みの粘り強い硬度を持っているのだ。


 いくら絶叫を浴びせても恐れも狂いもしない子供に、いつしかバンシーの意識が縫い止められる。

 通常、アンデッドが意識を留めることのない無機質な物体に対し、意識が集中する。



 直立する子供。

 痩せ細り貧しい子供だ。彼は両手を握り締め、わずかに上を向いた顔は笑顔を浮かべている。


 拳と首筋に力の入った笑顔。

 普通の子供は、そのように笑わない。

 そのような笑い顔は、大人から強要されることでしか作れないのだ。


 彼の薄べったい胸には、抉れた穴が広がっている。




 ──さあエバンス、この歌を歌って


 ──低い声を出すなと言っているだろう


 ──あの方を愉しませなければ食事は抜きよ


 ──歌などいいから、来なさい



『……ぁあ……』


 いつしかバンシーは、尽きることのない涙の中にかつての感情を取り戻していた。

 自分の存在価値を見失いかけ、自らを殺すことばかりを考えていた日々と薄暗い記憶。


 それはエバンスにとって、崩落するあの日よりもずっと強く心に刻まれた深い傷跡であり、その溝は少しなぞるだけで不愉快な音を響かせた。


 好きな歌を歌えなかった日々。

 客に媚びることだけを強要され、パンを横取りされた孤児院での暮らしよりもずっと自由の無かった、娼館での記憶。


 それは過去の記憶だ。

 エバンスはそれから紆余曲折あって地獄から抜け出せたし、再び歌を好きになれた。


 人々から奇跡と称されるくらいには歌の世界に名前は響いたし、過去のことは過去のことである。

 エバンスはベルジェンス歌唱団の歌姫となり、そこで出会った人々とは家族と呼べる絆を結べた。


『……劇団長……みんな……』


 しかしそれすらも。

 バビロニアが地響きを上げながら沈んだあの日に、全てが失われてしまった。


 親代わりの劇団長はエバンスの目の前で死に、彼自身も何か強く衝撃によって意識を失ったのを覚えている。

 崩れゆく劇場の中では、みんなの悲鳴がよく響いていた。


 具体的に何があったのか、原因は何なのかはエバンスにはわからない。

 だがその日、自分の全てが終わったことを、彼は知っている。


『……死んじゃった……舞台も崩れちゃった……』


 エバンスは泣いた。自分の手が半透明なこともどうでもよくなる程の悲しみに包まれていた。

 しかし喪失感に苛まれる最中に、かつて劇団長に言われた言葉を思い出す。



 ──エバンス、泣くな……お前が泣くのを見ると、私まで泣けてきてしまう……



 常々、劇団長は言っていた。

 お前の歌は人の心を動かすから、明るい曲が似合うのだと。


『──さあ、ともに唱おう 盃を持ち、薄めたエールを飲みながら……』


 それはいつか酒場で歌っていた曲。

 粗暴な兵士達や労働者が好んでいた、明るい曲。多い時は1日に何度もリクエストされた、人気の流行歌。


『──塩を舐めればそれでいいのさ 明日はもっと美味い飯が食える 明日の俺たちはもっと幸せだ』


 エバンスは泣き笑いで、その歌を歌った。

 空は暗く、景色は瓦礫ばかり。世界が終わってしまったかのような誰もいないへし折れた石柱の舞台で、エバンスは高らかに歌った。


 周囲のアンデッド達は明るい旋律に空を見上げ、暫し呆然としていた。

 あるいは、数十年ぶりに聴く懐かしい歌に、彼らの中の何かがざわめいていたのだろうか。


『──だから今はもう一杯だけ、ともに飲んで唱おうか……』


 明るい歌を歌い終えると、静寂が戻ってくる。

 昔のように拍手は響かない。生者は誰もおらず、エバンスの舞台を見ているのは物言わぬ石像だけであった。



 ──パチ、パチパチ



 否。拍手はあった。


『え……』


 瓦礫の物陰の向こうから、小さく控えめな拍手が響いている。

 エバンスがそこに目を向けると、物陰からは粗末な服を着た少女が遠慮がちに現れた。


 レヴィは小さく戸惑うように拍手しながら、しかしエバンスには近づき過ぎないように、ひっそりと顔を向けている。


「あ、あの……その……」


 顔色は悪い。その少女がアンデッドの属する何かであろうことは、エバンスにもわかる。

 しかし彼女はアンデッドにしては人間臭い照れを見せながら、たどたどしくこちらを見ている。


「……最後の歌……と、とても。とっても、良かったです。……あの、だから……拍手……」


 レヴィは最後まで言い終える前に、エバンスは再び涙を流していた。


「あ、あのっ……!?」


 だがそれは嘆きの涙ではない。世界を怨む負の涙ではなかった。


 エバンスはしばらくの間その場にぺたりと座り込み、決して不愉快ではない泣き声をその場に響かせるのであった。





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