一呼吸
エバンスの人生は、よく奇跡と称される。
それは彼の歩んできた人生が、最底辺からある一つの頂点に上り詰めるに至るまでの過程が劇的であり、その成功譚がおとぎ話じみていたからだ。
彼は下層の孤児院に棄てられていた。
親はわかっていない。他の子供達と同じように、ただ籠の中に入れられ、夜明け前の孤児院の門前に置き去りにされていたのだ。
しかし孤児院にとってそれも珍しいことではない。
エバンスは他の子供達と同じように育てられ、教育を受ける。
孤児院故に慈聖神の教義について学ぶことは多かったが、彼に施された教育は孤児院の中でも比較的上等な部類であったと言える。
とりわけその教会では聖歌に力が入れられていたため、歌に対する教育の熱は高かった。
幼い子供達によるそこそこ質の高い合唱はその地区でも評判であり、よく寄付金が集まったのだ。
エバンスは歌が好きであった。
彼は初めて歌に触れた時から、歌の虜になっていた。
エバンスは普段から弱気で、子供達の中でもよく虐められているような少年ではあったが、歌を歌っている時だけは何者よりも自在に己を表現することができ、言葉以上のものを他者に伝えることができた。
彼が優しい歌を歌えば粗暴な年長者でさえ心を穏やかにし、悲しい歌を歌えば無感情な女の子も静かに涙を流す。
神々しい聖歌を歌えば孤児院の偉い人たちも感じ入ったようにため息をつき、ともすれば聴衆は神の気配を感じることさえあったという。
今まで歌を聞いた人々は感動してくれた。褒められることが多かった。
だからエバンスは自分が貴族に引き取られるかもしれないという話を聞いた時、今よりも高らかに歌える場所に連れて行かれるのだと思っていたのだ。
だから神父から“次はこの歌を歌って、自分を売り込むんだよ”と提案された時にはいつも以上に力を入れたし、歌う前も後も言われた通りに観衆へ微笑みかけたりなどもした。
だが彼に用意されたのは、彼が歌ったのは、艶やかな情愛の歌。
あどけない無垢な少年が奏でるその艶めかしい歌は、特に一部の貴族を熱狂させた。
あるいは普通の流行歌であればまた違う道にも進めていたのかもしれない。
だが教会はあえて、その艶やかな歌をエバンスに歌わせたのだ。
孤児院は聖歌隊だけでなく、裏職業の斡旋にも力を入れていた。
孤児院は見目麗しい者が育つと、それを貴族や店に売り払う稼業も行なっていたのである。
10歳の頃のエバンスは儚げな少女らしい顔立ちと、か細く美しい声を持っていた。
あどけない子供達が立ち並び合唱する中でも、彼の可愛らしさは特に目立っており、すぐさまお偉方の目に止まる。
贅に飽食した貴族達の中には物好きがいる。美しければ女よりも男を好むような輩も珍しくはない。
欲深い教会側もその嗜好を熟知していた。
その嗜好は時に単なる歌よりも多くの金を動かすことを、彼らは知っていた。
なんということはない。
感情を揺さぶる歌があるのであれば、より金になる感情を揺さぶってやれば良い。
感性の濁った者達はそう考えていただけのこと。
だからエバンスは歌ではなく、男娼として売られることになったのだ。
『──貴方は私に寄り添ってくれた 笑いかけて励ましてくれた』
へし折れた石柱の舞台の上に、物悲しい歌声が響く。
『──私を優しく抱きしめてくれた 家族だと言って愛してくれた』
壇上で歌い、涙を流すのは一体のアンデッド。
嘆き続ける悲鳴の亡者、バンシー。
『──でも貴方はもう居ない 二度と帰ってきてはくれない』
その姿はエバンスが死んだ18歳の時のまま。
彼が年齢を重ねるにつれて、歌声と顔立ちの変化を危ぶむ声はあったが、結局その歳になってもまだ、エバンスを構築する奇跡は少しの翳りを見せることもなかった。
そして彼の歌声も顔立ちも、もはやこれ以上変化することはない。
エバンスの時は止まったのだ。
『──家にも酒場にも貴方はいない 広場にも公園にも、二人で出かけた花の丘にも……』
その歌は彼の所属していた団で初めて習った、物悲しい歌の一つ。
劇の合間に歌われる死別の曲。孤児院や娼館にいた頃ならば決して歌うことのなかったであろう、エバンスにとっては特別な曲。
しかし、もはやこの地の底には、それを教えてくれた人々はいない。
彼を鬱屈とした世界から引き上げてくれた親代わりの劇団長も、優しくしてくれた団員も、誰もいない。
エバンスが待ち望んでいた、晴れ舞台も。
『──帰ってはこないの……』
悲しみの曲が終わる。
重苦しい余韻が、舞台の周囲を押し潰す。
石柱を取り囲んでいたアンデッドたちは、苦しそうに身をよじらせ、うめき声をあげていた。
“うるさい”
そんな石柱のステージの上に、一人のアンデッドがよじ登ってくる。
罪人のローブを身に纏った彼は歌が終わるのを見計らって物陰から身を乗り出し、バンシーの前にやってきた。
『ぁあ……ぁあああ……』
一定の距離まで近づけば、バンシーは金切り声をあげる。
その絶叫は魂を消し飛ばすに充分な威力を持っており、それは至近距離であれば魔力の多いリッチであっても例外ではない。
だがリチャードは恐れることなくバンシーの壇上までやってきて、淡々と背中に担いだそれを床に置いた。
距離はあるので絶叫を受けても即死することはないが、バンシーの習性を知る常人であれば正気とは思えない無防備さであろう。
『ァ──』
バンシーが大きく口を開く。
絶叫がくる。
しかしそれよりも早くリチャードは荷物を覆う包みをほどき、中身を露わにする。
『──』
バンシーはそれを目にした一瞬、息を飲んだ。
そして、その息を飲む一瞬の間に、既にリチャードは去っていったのである。




