没落の日
スラムの天蓋を支える石柱。天辺に据えられた天使像が、赤い涙を流している。
立ち昇る煤や埃で薄汚れた彫像の、それでも一際どす黒く染まった赤錆の涙が頰を伝い、中性的な喉をなぞる。
「我々の世界には数多くの神がいます。大地の迷える神ミミルドルス……天海と大海を泳ぐ巨大なる神ノーレ・ノーストル……教会は聖なる神フルクシエルのみを信仰せよと言いますがこれは間違いです。我々は教会に騙されているのですよ」
孤児院に左遷された老神父は、今日も孤児たちに異端の自論を押し付けている。
子供たちは反論や不真面目な態度が癇癪じみた体罰となって返ってくることを知っていたし、真面目そうに説教を聞いていればパンとスープにありつけるので、無駄口は叩かない。
「地中で死を遂げた者はミミルドルスに呑まれ、地底世界に堕とされます。海中で死を遂げた者はノーレ・ノーストルに食われ、水底の雪となって消え去ります。なので、我々人間が清らかな世界へと至るならば、地上と空の間でこそ……」
陶酔して語る神父をよそに、退屈そうな少女は塔を支える天使像を見上げた。
「悲しそう……」
天使が流す赤錆の涙はとめどなく溢れ出し、それは柱のずっと下にまで伸びている。
柱の表面を走る細かなひび割れに染み入る涙は、少女の目には赤色の稲妻のようにも映った。
そして。
バビロニアの巨塔全体に、かつてない大きな破裂音が響き渡った。
「なんだ?」
「外かな」
それは子供にとっては雷雨に轟く雷のようでもあり、
「誰のヘマだ」
「またあの見習いだろう」
学のある者にとっては錬金術師が生み出した火薬の吠える音にも似ていたし、
「うるさい工事ねえ」
「連中はやり方が雑なんだ」
多くの民にとっては近くで住居の撤去を行う解体音のようでもあったし、
「どこだ? 誰がやったんだ」
「火事にならないといいが……」
職人にとっては窯が破裂するような音にも聞こえたという。
さて、それは何の音であったのか。
思い浮かべるものの差こそあれ、重大なことは、この巨大なバビロニアにいる全ての人間がその音を耳にしていたということである。
「……柱が砕ける音だと?」
音の来歴を唯一正しく言い当てたのは、音源から最も遠く離れた最上部の玉座にいる王、ノールであった。
音が響く。
「ちょっとこれ……」
何度も何度も。
「おかしいわよ、こんなの……」
「何が起こっているの?」
バビロニアに雷が降り注いでいるかのように、何度も何度も響き続ける。
だがこの世に存在するかもしれない神々はその塔に雷を落としてはいなかったし、空は晴れ渡っていた。
では何故、塔の全てを取り巻くようにこんな音が響き渡っているのか?
「あ……」
貧民街にパラパラと、煤けた白亜の雨が降り注いだ。
赤い涙を流していた天使像が砕け落ち、その中に滞留していた赤錆の水が溢れ……そのわずかな、しかし均衡を崩すには充分な破損が、全ての破局の始まりだった。
「空が落ちてくる……」
栄華を極めた塔の崩落が始まった。
揺れる。傾く。悲鳴。
そして体験したことのない長い浮遊感。
衝撃。悲鳴。そして再びの揺れ……。
バビロニアは根元から崩壊を始めていた。
1段目が自重に耐えきれず圧壊し、落ち、2段目もしばらく耐えた後に圧壊し……破局は留まること無く繰り返された。
それはまるで、世界の終わりを見ているかのような光景であった。
「どうなっているの!?」
「誰か来てくれ! 脚が動かないんだ!」
「か、傾いている! 掴まれ!」
「助けて!」
「潰され……あッ」
「押すな!」
「飛び降りるしかない!」
「塔が……塔が、バビロニアが崩壊しているのか!?」
比類なき繁栄を極めてきた巨塔の国、バビロニア。
いつか神々の世界にまで至るであろうと畏れられてきたその国は、たった一日のうちに滅び、地図から姿を消したという。
「嫌だ! 劇団長、一緒に逃げてください!」
「エバンス、私はもう動けない……ああ、重いな。懐かしい。この吊り下げの仕掛けを最後にいじったのは何十年も前だったか……」
「嫌だよ……早く、ううっ……」
「エバンス、泣くな……お前が泣くのを見ると、私まで泣けてきてしまう……」
「団長、僕は貴方がいないと……」
「情けないことを言うんじゃない、エバンス……お前はもう、立派な大人だろう」
歴史ある劇場は瓦礫の中に飲み込まれ、劇団長は圧死した。
歌姫と名高かった少年エバンスもまた大道具に頭部を強打され、即死した。
「民の救助を急げ!」
「ダメです! 揺れがあまりにも……!」
「大階段に人が殺到しています! 何人も押し合いで死んでるぞ!」
塔の崩落において、常勝を誇る騎士団はあまりに無力であった。
彼らは崩落も、民の恐慌を抑えることもできなかった。
「ラハン団長! あんたも逃げるんだ!」
「ルジャ……だが! ここにいる民を見過ごすわけには!」
「見りゃわかるだろ、街はもう無理だ! 自分のことだけを考えろ! 一緒に来い!」
バビロニアのためによく訓練された騎士団であったが、その最期は統率も取れず、無力な民を押し退けて逃げる者も多かったという。
「俺は……俺は……!」
「……馬鹿野郎! ラハン、俺は先に行くぞ!」
「あっ……おい! そっちは!」
「お前はいつだってそう……あっ、やばッ」
副団長のルジャは崩れた床から滑落し、複数の内臓を破裂させて即死した。
団長のラハンは一人の民も救助できなかった。彼は瓦礫を持ち上げようと蹲っている間に、崩壊した上層より落ちてきた鉄柵に首を落とされて即死した。
「そんな、こんなことって」
貴族街は世界に影響力を持つ者が何千、何万人もいたが、彼らもまた一人残らず犠牲者となった。
上層部で暮らす彼らが圧死することは少なかったが、バビロニアの高さが生む落下の衝撃に耐えられる者はいなかった。
「……バビロニアが、沈んでいる……」
精霊姫パトレイシアは、大窓から望める外の景色を見て、気が遠くなった。
バビロニアは最下層より崩れつつあったが、それだけに留まらない。
周辺一帯の地面を巻き込むように、地中に向かって崩落しているのが見えたのだ。
円形に一定間隔で基礎を穿たれた岩盤が、崩落の衝撃によってくり抜かれたのであろう。
それと共に、地下深くに張り巡らされた無計画な坑道が受け皿となり、バビロニア全体を飲み込もうとしているのだ。
たとえ落下から生き延びたとしても、地の底で生きながらえたとしても、そこにあるのは死の底と繋がった魔窟。
這い上がれる可能性など……微塵もない。
「……なぜ、こんなことに」
パトレイシアは上層にまで響いてくる民の悲鳴を聴きながら、落下と瓦礫の圧力によってすり潰され、死亡した。
「ぐふッ……三人、か。我が体躯であれば上々であろう? クカ、クカカカカ……」
「はぁ、はぁ……! 狂王ノール! 俺はな、お前のことが前から気に入らなかったんだ……!」
玉座の間では、人と人との争いが繰り広げられていた。
バビロニアの頂上にあってももはや死は避けられぬと知った時、親衛隊の何人かが選んだのは……暴虐の限りを尽くしていた王に対する反逆だった。
だが予想外だったのは、小さな体のノールが手練れの親衛隊を三人も返り討ちにしたことである。
狂王は未来を読んでいたかのような動きで三人を殺し……それでも多勢に無勢、胸に剣を突き立てられたのだ。
「へへへ……あんたのその顔、見たかったぜ……!」
ノールは玉座ごと心臓を貫かれ、しばらく苦しんで……やがて沈黙した。
王を殺した男は、親衛隊長のグリムであった。彼はノールの下で虐殺を楽しんでいたが、それと同じくらいノールの横暴さを憎んでもいたのだろう。
すでにバビロニアは崩壊を待つばかりで、己の死も間際に迫っていたが、それでもグリムの顔は喜悦に染まっていた。
「若造が……」
「……あ?」
カタリと、仕掛けが動く音がする。
それは黄金の玉座に仕込まれた、王のみぞ知る魔導鍵。
「ゥルルルル」
狂王のペットたるドラゴンの枷を解除する仕掛けであった。
「嘘、だろ」
振り上げられた竜の巨腕を見上げながら、その言葉を最後に、グリムの命は掻き消された。
ドラゴンはそれから玉座の間を暴れまわり、生き残った親衛隊や大臣を皆殺しにし、最後には落下の衝撃と倒れかかった黄金の柱によって首をへし折られて死んだ。
「……」
狂王ノールはその光景をどこか冷めた目で見つめたまま、息を引き取った。
こうしてバビロニアは滅び、地上から姿を消した。
六百年以上の歴史は唐突に終わり、その最期は様々な伝説となって語り継がれることとなる。
グロウムーン大陸の中央に残されたのは、バビロニアの跡地のみ。
そこにはただの一体の亡骸もなく、栄華の痕跡は煉瓦の一つも出土することがなかったのだという。
「……」
そして、長い長い時を経て。
深い深い死の底で。
リチャードは目を覚ました。