象牙の小さな塔
レヴィは空を見上げていた。
分厚い瘴気の層に阻まれ、何も見えない大空洞の遥か上部。
そこに青空はなく、太陽も見えない。
しかし時間の経過とともに明暗は移ろい、時には雨も降る。
つまりその果てには、空や太陽が存在するのだ。
レヴィは塔から出たことはないし、貧民街の外の世界も知らない。
だがバビロニアの下層は幅広く作られており、その全てが天井に覆われているわけでもない。空を見る機会は度々あった。
貧民街に楽しい思い出はほとんどない。
それでも、レヴィは見知らぬ世界を恋しく思い始めていた。
地底の暮らしの中でさまざまな創作物やバビロニアの痕跡を見ていくうちに、人らしい刺激を受けたのだろう。
彼女は既に死んでいる。
しかしその精神は、決して幼い子供のままというわけではない。
リチャードは骨製の椅子に腰掛け、瞑想していた。
そうして、もう三日にもなるだろうか。
置物のように静かな彼だが、眠っているわけではなく、意識は常にはっきりしている。
彼が向き合っているのは、壁に立てかけられた一本の大きな象牙だ。
なんらかの象の魔物から採取されたものであろう。長さは4メートルほどで、重さは大人二人分近くあるように思われた。
それはかつて上層部で暮らしていた貴族のものらしく、表面の皮は可能な限り削った上で、内部の滑らかな白は宝石のように磨かれていた。
リチャードはその牙を持っていた魔物がどれほどの大きさかは知らなかったが、少なくともベヒーモスに近い巨躯であったのだろうと予想している。
象牙を見つけたのは空から哨戒を続けていたパトレイシアだった。
それを聞いたレヴィとルジャが現地に赴き、二人で協力して拾ってきたのである。
リチャードはかつて極めて有名で、腕の良い彫刻家であったが、それでもここまで巨大な象牙を見たことはなかった。
小さなものであれば何度も扱った経験がある。
暖かで生物みを秘めた白色は人の骨を強く想起させたので、安直な髑髏のモチーフを表現するにはうってつけだったし、何より材料の希少性故に一個あたりの売値を高くできた。
リチャードに商売気はなかったが、材料費を工面するためには時にそうした金策も必要だった。しかしそうした現実的な問題を差し置いても、象牙特有の木と金属の狭間にあるような彫り心地は格別であったので、妥協していたわけでもない。
むしろこうして巨大な象牙を目の前にして、リチャードはかつてないほどに悩んでいる。
象牙は太く長いほどに価値を増す。
そして、貴族は己の財力を誇示するために、巨大な象牙ならばなるべくそのままの形で磨きあげ、彫り物を施さずにいることが多かった。
結果として彫刻材として巨大な象牙が出回ることはなく、外皮を削っただけの状態で保管されていることが多かった。
リチャードの目の前に立てかけられたこれも、長年死蔵されてきた逸品であったのだろう。
『初めて見たときは、私も驚いたものです』
沈黙するリチャードの横から、青白く輝くパトレイシアがふわりと顔を出した。
『上層の高位貴族であっても、これほどの象牙はなかなか持っていないでしょう。話に聞いたこともありません。きっと、何代にも渡って受け継がれてきた家宝だったのかも』
象牙は高所から崩落に巻き込まれたにもかかわらず、損耗はなかった。
しかし考えてもみれば、それは巨大な魔物が己の唯一の武器として振り回し、叩きつけてきた生体素材だ。
落下の衝撃に耐えたのはある意味で当然だったのかもしれない。
『……現存するのは家宝ばかり、というのはなんとも遣る瀬無い話ですが……それがバビロニアの人々を覚醒させる作品へと昇華させるならば、きっと持ち主の方も本望でしょう』
パトレイシアはそう言うが、リチャードは静かに首を傾げた。
貴族がそのような殊勝なことを言う人間ばかりでないことを、彼は知っていたからだ。
当然元貴族であるパトレイシアもそのことは承知の上だったようで、苦笑いしている。
『建前ですよ、建前。亡くなった方々を悼む気持ちも嘘ではありませんが、それだけでは我々の身動きも取れませんからね。使えるものは、なんでも使っていかねばなりません』
リチャードは筆談で返さなかったが、その意図を支持するように頷いた。
『……これからも作品に利用できそうな物品は、可能な限りこちらへ送り届けます。我々にとって、リチャードさんの作品こそが全ての鍵なのですから』
口元は微笑んでいたが、パトレイシアの目は真剣そのものだ。
言葉に秘められた決意は、相応の硬度を秘めているのだろう。
埋没殿からの不死者の解放。あるいは救済。
リチャードはそうしたパトレイシアの目標にさほど興味は持たなかったが、人間らしく高みを目指すパトレイシア自身の精神性には多少の関心があった。
死しても尚、人間らしく足掻くことをやめないアンデッド。
生前と同じものに固執する自分自身には見られない彼女の変化は、ひょっとするとリチャードの新たなテーマとなり得るかもしれなかったからだ。
『……それでは、私はこれにて。作業前に失礼しました』
闇の底を見るようなリチャードの眼差しに、パトレイシアは不可解な寒気を覚えたのか、そのまま部屋を去っていった。
残されたリチャードはレイスが去った際の微かな魔力の残光をぼんやりと見つめ、そしてすぐに再び象牙と向き合った。
そして、また瞑想が始まる。
槌の音はなく、石を砕く響きもない。
ここ数日の坑道はとても静かで、穏やかな時間が流れていた。




