魂の奥底にまで響くもの
反響を続ける恐ろしい咆哮。
その劈きはどこかの壁面をわずかに崩し、地底に石の破片がぱらぱらと舞い落ちた。
レヴィはその音を聞いて咄嗟に頭を抱え、縮こまる。
が、崩落とまではいかないらしく、落ちてきたのも砂つぶ同然の小さなものだったようだ。彼女は安堵したが、事態はそれだけで終わることはなかった。
「! ウィスプが……集まってきた?」
先ほどまで雨を嫌がっているだけのウィスプが、こぞって燭台に集まり灯っていた。
青白い炎は不規則に揺れ、それはレヴィの目に怯えているように見えた。
「……あの声が、怖かったんだ」
ウィスプは恐れていた。というよりは、避けていたのだろう。
アンデッドと化したドラゴンの一種ドラゴンゾンビ。
それは生前より持ち合わせていた魔法耐性に加え、死霊系の捕食者でもある。特にウィスプなどはドラゴンゾンビがブレスを使うための燃料となるため、格好の捕食の対象なのであった。
ウィスプ達はそれを知ってか知らずか、燭台に化けてやり過ごそうとしているのである。
そして、ドラゴンを恐れているのはウィスプだけではない。
空中をさまよっていた煙のようなゴーストたちも瓦礫の中に埋まろうとしているし、遠目に見えるスケルトンも塔から離れるように動いていた。
「……みんな、怖がってる」
塔の上のドラゴンが咆哮を上げてから、地底全体がざわめいている。
特に大空洞の中央部、アンデッドが密集する場所などは顕著であり、遠く離れているはずのレヴィにもその騒がしさは伝わってきた。
誰かの叫び声が甲高く響き、狼の枯れた遠吠えが絶え間なく連なる。
レヴィはしばらく、アンデッドたちの不吉な合唱を静かに聴き続けていた。
「……あれ……」
やがて、遠くから蠢く何かが近づいてくる。
本来であれば、レヴィはそれを察した時点で逃げるべきだったのだろう。
逃げなかったのは彼女が咄嗟に行動できるだけの判断力が足りなかったのもあるし、状況の変化に幼い心がついていけなかったということもある。
ともあれ、レヴィは動かなかった。それが現実であった。
「やだ……うそ、あれって」
遠目に見える赤い衣。
バビロニア王直属の親衛隊の豪奢な騎士装束を着た白骨の男。
彼が手にするのは、ククリ刀のように折れ曲がった、鎌のような長剣。
レヴィはその姿に見覚えがあった。
忘れるはずもない。それは死後のレヴィにとって最も大きな脅威であり、具体的に存在し続ける恐怖のひとつなのだから。
近接戦闘に秀でた凶悪なアンデッド。死神と揶揄される、無差別な殺意の権化。
グリムリーパーだ。
「……どうしよう」
グリムリーパーは、レヴィに近い方角を目指して走っていた。
だがレヴィを目的に走っているというわけではなく、やや方向がズレている。彼は獲物を追いかけるというよりは、塔から逃げるように夢中で駆けているようだった。
見方によっては、その逃げ姿は滑稽ですらある。
自分を狙っているわけではないということはレヴィにもわかった。
しかしあのグリムリーパーが正気に戻った時。そうなった時に近くにレヴィがいたならば、彼は容赦なく斬りかかってくるだろう。
「逃げなきゃ……」
レヴィは自分とグリムリーパーの間に花嫁の立像を挟み、隠れた。そのまま立像の陰に身を隠したまま逃げようという魂胆である。
グリムリーパーは既に近くまで来ており、走る速さも落ち着きを見せ始めた。こうなれば、いつ襲いかかられてもおかしくはない。
「あ……」
レヴィが縋るように立像に隠れた時、彼女は自分のすぐそばで青白く発光するものを見つけた。
カーテンのように揺らめく青白い霊体のスカート。
流れるような美しい長髪。
「……お貴族様」
気がつけば、花嫁の立像のすぐそばにレイスが佇んでいた。
ウィスプの火が灯る煌びやかな燭台に囲まれて、美しいレイスは花嫁と向き合っている。
表情は動かず、相変わらず感情を読み取ることはできないが、それまで無意味な回遊を続けていたレイスが立ち止まっているということは、彼女が立像に何らかの気持ちを抱いたということなのだろう。
「カカ……カカカカ……」
「あ……」
白骨の頭蓋が、歯を打ち鳴らす。
楽器のようでもあり、甲高い笑い声でもあるその音を聞いて、レヴィは自分の身体が更に青褪めた心地になった。
先程まで何かに怯えていた様子だったグリムリーパーがうっそりと身体を揺すり、正気を取り戻している。
グリムリーパーはゆらりと辺りを見回し……自然と、立像に目が止まる。辺りには他に何も無いのだから、それは自然なことであった。
レヴィの小さな身体は立像の陰に隠れている。
グリムリーパーの側からは完全な死角になっており、その姿は完全に見えないはずであった。
「……カカカ」
だが、レヴィは知らなかった。
グリムリーパーは生物や魔物が発する魔力を見ることができるアンデッドであり、その感知能力は極めて高い。それは逃げた後に残存する微かな魔力の痕跡を辿れるほどだと言われ、一度発見されれば迎え討つ他に手立てはないとまで評される。
執拗に狙った獲物を追いかけ、命を刈り取る者。故に、それは死神と呼ばれ、恐れられているのだ。
グリムリーパーに多少の遮蔽物など意味を成さない。
「カカ、カカ、カカカカ」
グリムリーパーが歩いてくる。
遮蔽物たる花嫁の立像も多少はグリムリーパーの魂の琴線に触れたようだったが、それは以前のドラゴンの岩石像ほど劇的な効果を発さなかったようで、彼は構わずに近づき続ける。
段々と大きくなる足音に、レヴィは小さく縮めた身体を更に縮こまらせた。
グリムリーパーは立像の陰から身を乗り出し、ついにレヴィをその視界に収めた。
彼は嘲笑うように顎を打ち鳴らすと、嗜虐的に、ゆっくりと剣を振り上げる。
「やだ……助けて、職人さん……お兄ちゃん……だれか……」
レヴィはメイスを持っている。
しかし、つい最近教えられたはずの使い方は咄嗟に思い浮かばない。
そもそも今の彼女は、自分がその手に武器を持っていることすら忘れていたのかもしれない。
彼女の頭の中を占有するのは、自分の二度目の終わりであった。
『“レッサー・フレア”』
涼やかな声。
目を強く瞑ったレヴィの瞼の上から、強いオレンジの輝きが瞬いた。
同時に感じる強い熱と、瓦礫を吹き飛ばすほどの風。
「ガァアアアッ」
「え……」
呆然と目を開ければ、そこには全身から黒い煙を吐き出したグリムリーパーがいた。
豪奢な服を煤けさせたグリムリーパーは驚いた様子で一気に距離を取り、獣のように歯を打ち鳴らして威嚇した。
「な、なにが……」
『事情など知りません。知りませんが』
凛とした声につられ、レヴィは彫像を見上げた。
そこにはレイスが浮かんでいる。彼女はそれまで動くことのなかった超然とした無表情を崩し、凄みのある怒気を浮かべ、グリムリーパーを睨んでいた。
『幼子を襲っても良い法など、あって良いはずもありません』
レイス。それは魔法の扱いに秀でた幽体アンデッド。
そして、彼女の生前の名はパトレイシア。
数々の魔法を修めた故に“精霊姫”と称された、ハーフエルフの宮廷魔法士であった。