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塔の国にて

*ズルズル……*

「天使様、泣いてる」


 塔の根元にへばりつくように位置する貧民街。

 誰にも目を向けられることのないその片隅で、薄汚れた少女が彫像を見上げていた。


 バビロニア歴32年、アーティマ・ログセンドロン作。

 “世界を支える者”。


 天高くそびえる塔の帝国、バビロニアの根元に存在する巨大な柱にあしらわれた古い作品であった。

 大人十人でも囲みきれないほどの石柱の表面に、白亜の天使たちが並んでいる。

 天使らの由来は今の時代において定かでない。非常に古い時代の作品であるが故に。


「おい、行くぞレヴィ。いつもより遠くで水汲みしなきゃいけないんだ。急がないと」

「うん」


 学のない貧民たちにとっても興味はない。大事なのは今日の飲み水である。

 その彫像のうちの一体がここ数百年流したことのない赤錆びた涙を流していても、その意味に気付くこともない。




「運べ運べ! 肉が腐るぞ! 日頃の鍛錬の成果を見せろ! さっさと運べ!」


 同時刻。

 塔の下層にある運搬道にて、騎士団らが魔物の枝肉を担いでいる。

 今朝方、塔の外に跋扈する魔狼の群れを討伐し、手に入れたものであった。


「ラハン団長。どうして魔狼などを運ばせるんですか?」


 大量の肉を運び出す騎士達に檄を飛ばしていた大男に、おそるおそる尋ねる者がいた。


「ルジャか。傷は大丈夫なのか」

「見た目ほど大したことはありません。ポーションも使いましたから。……それよりも、あれです」

「ああ」

「魔狼の肉は、貧民でも食えたもんじゃないでしょう。悪い虫がいる。それを上に運ぶなんて……あいつら、何かやらかしたんです?」

「しごいているわけじゃない。王命さ」


 王命、その言葉に副団長のルジャは肩を震わせた。


「……眇の狂王。ですか」

「その呼び方はやめろ。聞こえたら事だ。……大方、ペットにくれてやる餌なのだろうさ。蛮族を引き連れていた頃よりはずっといい」

「……かも、しれませんね」


 騎士団は命令に絶対だ。

 逆らえば命はない。彼らが数ヶ月前に外から引き連れた蛮族らと同じ末路を辿るのは間違いないだろう。

 いや、あるいは見せしめのためにより酷い死が待っているのかもしれなかった。


「……せめて、馬車が使えたら良かったんですが。魔狼とはいえ、担いで登っていくのは大変ですよ」


 ルジャは所々ひび割れた石畳の街道を見て、眉根を寄せた。

 かつては整然と連なり美しく見えていたであろう石畳。


 バビロニア歴74年、イスクゥル作。

 “緑の道”。

 シンプルながら見栄え良く、量産にも耐久にも秀でた実用的な芸術であった。

 しかし今やその石畳の道も所々が荒れており、昔ほどの美しさはない。轍のいくつかにも損耗があるせいで、しばらく前から馬車を走らせることもできずにいた。


「じきに修理が入るさ。じきに……」


 一部の水道がどこかで破損しているなどの報告が上がっていることも、騎士団長のラハンは知っていた。下層の公共事業は急務である。

 だが、ここしばらくはその手が入る気配もない。

 人々は今の暮らしに不満と不安を抱えていたが、口を噤んでいる。粛清を恐れているのだ。

 そして粛清を恐れているのは、屈強なラハンも同じだった。


 誰もが口を閉ざしたまま、最下層のどこかに流失する水を見過ごしていた。




「どうしてです!? 僕らはあれほど練習したのに……!」

「悪く思わないでくれ、エバンス……歌唱団そのものが危機に瀕しているんだ」

「けど、だからって……! 僕らベルジェンス歌唱団は、三百年以上やってきたんでしょう!?」


 塔の中層に存在するとある劇団の本拠地では、甲高い怒鳴り声が響いていた。

 女のように高く艶のある声は、歌でなくともその魅力を失わない。しかしエバンスの声には、普段はかけらも見られない焦りと怒りが露わにされていた。


「……ああ。ベルジェンス歌唱団は昔からずっと、降臨祭のステージを任されてきた。我々の箔だ。誇りもある。……だが、眇の狂王が降臨祭から歌劇を無くせと仰ったのだ」

「そ、んな……」


 エバンスは顔を蒼白にし、言葉に詰まった。

 あまりにも理不尽な話であったが、それでも怒りより先に恐怖が勝る。バビロニアの狂王とは、それだけの支配力を持っていた。


「我々などまだマシな方さ。旅芸人などもう何百人も処刑されているのは知っているだろう。狂王は……芸術を嫌っておいでなのだ。いいや、無関心と言うべきか。とにかく、そのようなものに金を使うなどと、そう考えておられる」

「……僕らが積み上げてきたものが、無駄だと?」


 エバンスの声は震えていた。


「王に言わせれば、そうなのだろう」

「……酷い」

「エバンス。あまり王に反する言葉を口にするな。王に歯向かえばどうなるかなど、わかっているだろう。私は、お前に死んで欲しくない」


 劇団長の老人は、目に涙を湛えるエバンスの頭を優しく撫でた。


 貧民街の男娼から始まり、その美しさと声の透明感を買われて酒場の歌手に。そして歌唱団に拾われ、バビロニア随一の歌姫となった奇跡の少年エバンス。

 彼の人生はどん底から始まり、これからさらなる絶頂を迎えようとしていた。その矢先に出くわしたのがこの禁令である。


「いつか……またいつか、大舞台で歌えるさ」

「……」


 エバンスは堪らず舞台に駆け上がり、観客のいない暗闇に向かって歌い始めた。

 世界を震わせるような透き通った声。女神のような艶やかな響き。


 照明のない劇場の最奥を見上げる彼の目からは、とめどなく涙が溢れている。


「……悔しいさ。私もな」


 劇団長は心を共振させる物悲しい歌声から目を背け、舞台袖に飾られた古びた彫像を見つめることしかできなかった。


 バビロニア歴390年、コバック・ブルーストン作。

 “無名”。

 長年、華やかな舞台を片隅で彩ってきた抽象芸術。

 添え物としての密やかな美。名も無き芸術の一つであった。




「なぜ、処刑など!」


 バビロニアの上層で、一人の令嬢が声を荒げている。


「パトレイシアお嬢様。既に決められたことでございます」

「狂王の独断でしょう!?」

「今や、かの王を止められる者などおりませぬ。そしてお嬢様、声を抑えてくださいませ」

「私達が声を上げずして、誰が諌めるというのです!」


 その令嬢は若く、美貌も心も活力に満ちていた。

 何より彼女はこの上層部の住民であるにも関わらず、下層の民を憂うだけの道徳を持つ稀有な感性を持ち合わせていた。


「狂王の……ノールの暴政を止めねばなりません。このままでは民が疲弊し、バビロニアは根元から滅びてしまいます」

「しかしパトレイシアお嬢様。ノール陛下の手腕によってバビロニアの勢力圏が大幅に拡大されたのは事実でございます。貴族の多くはその旨味を甘受しておりますれば……お嬢様が旗印になったとて、ノール陛下の足下は小揺らぎもしないかと」

「……既に、その足下が不当に処刑され続けているのですよ。多くの人が。女子供でさえも。ここ三日で、どれほど多くの民が処刑されたことか」

「三百人ほどでございましょうか」


 眇の狂王ノールの暴政は、バビロニアの全てを震撼させていた。

 かつては民衆の娯楽ですらあった広場での公開処刑は、今や浮かれて見に行く者はいない。

 潔白を訴える者が発する心の底よりの断末魔は、娯楽とするにはあまりにも凄惨に過ぎ、そして他人事とするには距離が近過ぎた。


 毎日のように転がる首と胴体。血の溜まり。

 探せばそこには、知り合いの一人も見つかるかもしれない。

 明日は我が身かと思えば、誰もその光景を直視などできなかった。


「……いくらノールが王として優秀だとしても、あんまりです」


 狂王の地盤は頑強だった。

 その力と恐怖は建国以来最高であることを、人々は僅かにも疑っていない。


 百年続く近隣諸国との戦争に勝利し、蛮族を滅ぼし、竜の巣食う山を征伐した。たったの一代で多くの偉業を成し遂げた。

 狂王は恐ろしかったが、手腕は神のごときそれであった。


 バビロニアは世界最大の国として君臨し、今や逆らう外敵も、恐るべきものも何一つ存在しない。


「……まさか、あのリチャードまで処刑されてしまうだなんて」

「……」


 “精霊姫”パトレイシア。彼女の執務机の上には小さな珊瑚の彫像が置かれている。


 バビロニア歴439年、ペイチー・ビーシーズ作。

 “愛の水底”。

 この世ならざる世界のどこかにあるという、人魚が暮らす世界を象ったと云われる芸術作品であった。






「リチャード。褒美だ。貴様には死をくれてやろう」


 黄金の玉座の上で、小柄な男が底冷えする声を上げた。

 男の飛び出しかけた双眸は左右ともに外側を向き、絶え間なくギョロギョロと動いている。


「だが……」


 左目よりも一回り大きな赤みがかった目玉が、節くれだった手の中にある小さな彫刻を睨みつけた。


 バビロニア歴695年。リチャード作。

 “苔生した壁”。


「貴様が作ったというこのくだらない石ころに免じて、そうさな……特別に、死に方は選ばせてやろうか」


 狂王ノールはその醜悪な顔を更に歪め、嗤った。


「人に死を想起させる“死の芸術家リチャード”……貴様には相応しい褒美であろう?」


 小柄な身体。不釣り合いに大きな頭部。そして異形の目。

 亜人種よりも遥かに醜悪なその王は、しかし他のどのような賢者よりも高い知能を持ち、そして他のどの魔物よりも恐ろしい人間であった。


 バビロニアの最上に存在する玉座の間には多くの大臣が連なっていたが、誰もが一様に口を噤んでいる。彼らは王の許しなく口を開いたものがどうなるかを知っていた。

 ここで唯一音を出すことを許されているのは、王自身と、その背後で身体を丸めるようにして眠りこける一匹のドラゴンのみ。


「さあ、褒美(死に方)を選ばせてやるぞ。何がいい? 発言を許す。言え。さあ、言え」


 黄金の玉座より、黄金の十七階段を下り、別珍の絨毯が敷かれたそこに跪いているのは、痩せこけた男である。


 彫刻家リチャード。

 彼は死を宣告した狂王を前にして、未だにその無関心そうな表情を崩していない。


「ああ……貴様は声を出せぬのだったか? よいよい。なればこれを使うが良い」


 そう言って、王は一本の短剣を放り投げた。

 オリハルコンで出来た至宝の短剣である。リチャードは目の前に転がった短剣を掴み取ると、刃に指を沿わせて切れ味を確認している。


 当然、それは筆記具の類ではない。


「さあ、彫刻が好きなのだろう? クカカカカ。であれば、それを使って、」


 狂王が嗤い、全てを言い切る前には既に、リチャードは短剣を己の腕に突き立てていた。


 玉座の間にひしめく大臣たちが息を飲む。

 ふわりと漂う血の香にドラゴンが鼻をひくつかせる。

 狂王ノールは、大きなギョロ目の動きを僅かに停止させた。


 リチャードが動かす短剣の動きに躊躇はなかった。

 ザクザクと己の皮膚を切り、決して短くはないであろう言葉を刻んでいた。


 顔は苦痛に歪められていない。短く“斬首”と書くわけでもない。

 彼は淡々と、己の腕に文字を掻き続けている。


 やがて彫り終えると、彼は自身の血だらけになった腕の表面をぬぐい取り、横に向けて見せた。


 そこに刻まれた美しい文字の羅列に、狂王ノールは目を剥いた。




 “死の底にて餓え死にしたく存じます”



 それはバビロニアにおいて、最も恐ろしい死に方の一つとして考えられているものであった。




――おお、ミミルドルスよ! 長大なる地中の迷神よ!

――モルドへ去り逝く哀れな魂たちを、どうか一口に呑み干し給え!

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