97. 写
白い包帯を柘榴先生に巻き付ける。消毒液を使って傷口を清潔にし、ガーゼを当ててテープを切って。
慣れ親しんだ動作を繰り返す私は、柘榴先生の研究室にいた。正確には研究室の隣、仮眠室。私と流海が今日、手当された部屋だ。そこで今は柘榴先生を手当てするだなんて、軋んでしまうよ。
私は柘榴先生の手当てを出来る限り行い、彼女の着替えを探そうと踵を返した。
肩にかけ続けた救急手当セットが揺れる。私は一瞬だけ考え、理性決壊薬と緩和薬を取り出した。
二つの瓶が手の中でぶつかり、歯痒さが増長する。
薬を柘榴先生に渡せれば何か分かるかもしれないのに。流海を助けられるかもしれないのに。……猫先生を、助けられるかもしれないのに。
骨の折れる音がする。
筋肉の潰れる音がする。
思わず目を瞑った私は、隣の研究室から聞こえる声に意識を向けた。
「はい、これ。いばらちゃんと涙さんの分」
「ありがとう、永愛」
「いいよ、濡れた服のままってのも動きにくいし。実働部隊が役に立つね」
「そうね。まさかアテナに行く以外の理由で着るとは思わなかったけど」
会話からして、竜胆が着替えとして白装束を持ってきてくれたのだろうと予想する。私は生乾きの服を見て、伊吹にどうやって返そうかと斜め上を見た。そもそも返せるのだろうか、この服。伊吹は返して欲しいとか思っているのだろうか。分からねぇな。
私は余った袖を捲り直し、考え込む朝凪の声を拾った。
「霧崎さんを病院に連れて行きたいけど……救急車を呼んでも、研究員の人達に止められる可能性がある、かな」
「多分ね。四十四支部に何か起こってることも、近所の人が気づいてるかもしれないし……」
二人の悩みは私も考えた。今の状況で救急車を呼ぶのは得策ではないけど、柘榴先生を雨降る夜に運ぶのは大丈夫なのだろうか。しかしここに長居することも最善ではないし、もう少しだけ柘榴先生に耐えてもらう? 合羽とか傘とか、あるのかな。
私は二つの薬を鞄に仕舞い直し、落ちた髪を耳にかける。無性に流海と手を繋ぎたい気分ではあるが、片割れ君と伊吹はプラセボのある保管室に向かったのだ。
――プラセボ、盗むの?
――盗むよ。どうせ明日になれば問題になってるだろうし、ならプラセボ盗って消えても一緒だと思うんだよね
流海はさらりと発言し、私もそれには同意した。これだけの騒動を起こしているのだから明日が無事にくるだなんて思ってないんだよな。
伊吹は道中で小夜に連絡を入れるとも言っており、彼らは揃って研究室を後にした。小夜、一人で留守番してるんだろうな。そりゃ兄は心配にもなるか。
私は棚を漁ったり引き出しを開いたりを繰り返した。整理整頓された場所を漁るのは気が引けるが致し方ない。
そこで、不意に。私は目尻が少しひりつく感覚を覚えて、少しだけ動きを止めた。
触れた目元が熱くて、ちょっと湿って、微かに痛い。
目を瞑った私は、瞼の重さに疲れを覚えた。
「……泣きすぎだ、今日は」
呟けば、流海に「涙は泣き虫だなぁ」と言われる想像がついた。
薬を手に入れて泣いた。
流海に私の選択を告げて泣いた。
柘榴先生と猫先生を路地裏で見つけて泣いた。
猫先生の姿に、言葉に、泣いた。
「泣き虫……弱虫」
己を嘲ながら引き出しを開ける。そこで替えの白衣と着替えを見つけたから、安堵した私は何の気なしに机を見た。
机上には先生の手帳が置いてあり、付箋がたくさん覗いている。深い意味もなく持ち上げてみれば見た目以上の重量で、浮いた表紙から紙が落ちた。
二枚の紙を拾って、手触りから写真だと分かる。
好奇心に負けながら写真を裏返せば、私は言葉を失った。
「涙さん、霧崎さんの手当て、お手伝いしますよ。あと、実働部隊の衣装を永愛が持ってきてくれたので着替えませんか? 風邪をひいてしまいます」
カーテンの向こうから朝凪の声がする。
返事のできない私は、柘榴先生の着替えを握り締めた。
「涙さん?……開けますね」
カーテンが開いて、朝凪が近づいてくる。
彼女は私の肩口から顔を覗かせ、心配そうな表情で私と写真を見比べた。
「この写真は……」
写っているのは、黒髪の大人が二人と、今より若い先生達。
一人は、黒い短髪と丸く柔らかな目元が印象的な男性。
一人は、肩口までの黒髪と利発そう目が印象的な女性。
二人の間にヘアバンドをつけた猫先生と、恥ずかしそうに笑う柘榴先生が立っていた。
背景は、郊外に建てられた一軒家。
胸が締め付けられた私の前で、七本の蠟燭が揺れた気がした。
「これ、霧崎さんと猫柳さんですね。後のお二人は……?」
「……両親です」
口にすれば、朝凪が唇を閉じたと分かる。彼女が言葉を探す素振りをしたとも気づいた。
私は指の腹で写真を撫でて、二人の大人――お父さんとお母さんを凝視する。
夢ではなく、思い出でもなく、明確な二人の姿を目に刻む。
ぼやけていたお父さんとお母さんの姿は、鮮やかに私の記憶に上書きされた。
「私と流海の、親なんです。十年前に死んだんです。父も母もヤマイでした……後ろの家は、昔住んでいた場所です」
今はもう無くなってしまった我が家を見る。
家も、写真も、思い出も、全部ここに埋めてきてしまった。
あぁ……お墓参りも、行けないままなんだ。
私は蝋燭を吹き消した瞬間を思い出して、夢が消えた。
「朝凪」
「……はい、涙さん」
「今更ではありますが、あの日、私がマッキから鎮静されて、目覚めた日……傍にいてくれて、ありがとうございました。縋ってしまって、ごめんなさい」
――どこにも……ぃかないでぇ……
そう言ったのは私なのに、縋ってしまったのは私なのに。
私はそんな自分が許せなくて、温かさをくれた貴方達より、唯一の流海を選んでしまった。待っていてくれた朝凪達に背を向けて、一人で勝手に離れてしまった。
いなくなると決めつけていたのに。貴方達が残ってくれて、私の夢は夢と消えたのに。
しょせん私は、我儘な奴なのだと痛感した。
今だって巻き込んで、いらないものを背負わせて、綺麗な貴方を不安にさせてはいないだろうか。
私は二枚目の写真を見て、そこに写る四人を見据えた。
高校の制服を着た私と、私服の流海と、先生達。
カメラにぎこちなく笑っている私達は、傍から見ればどう映っているのだろうか。
私は写真を手帳に挟み直し、静かに息を吐いた。
「涙さんは、起きた時に私がいないと思っていましたか?」
朝凪に問われて、私は暫し無言になる。
それを彼女はどう受け取ったのか。
私は袖を握られたと思ったが、隣を見ることはしなかった。
「涙さんは、怖がりですね」
「……今更ですか」
「はい、今更、気づいてしまいました」
朝凪が苦笑した気がする。私は下手な相槌も打てず、怖がりの自分を隠しもしなかった。
私は怖がりだよ。流海を失うことが怖くて、先生達がいなくなるのも怖くて、朝凪達が離れるのも今では怖くて。それでも全てを手に入れるなんて傲慢だから、怖いを無視して駆け抜けたんだ。最大の怖いを消したくて、ウォー・ハンマーを振り下ろしたんだ。
袖を握られた感覚が強まる。私は何も言わず、どこか落ち着いている朝凪の声を聞いた。
「私、涙さんに言えないことをしたんです。いや……正しくはしている、ですね」
「へぇ」
朝凪が、私に言えないこと。
想像するけど、想像しきれず。考えるけれど、考えが及ばない。深く考える気が無いと言っても過言ではないだろう。
言えないことなんて人それぞれ持っている。私は朝凪に言えない行いをした。実働部隊に言えないことをした。それを話す気は今のところ無い。だからまぁ、他人にとやかく言える立場にないのだ。
私の頭の中を知らない朝凪は、小さく袖を引き続けた。
「涙さん、隠しごとがある私をどう思いますか?」
「別に、どうも思いませんよ。それを貴方が自ら選んでしているならば、自由かと」
近くにいる人には言えないこと。赤の他人にならば言えること。
好きな人には言えないこと。嫌いな人には言えること。
言えないことは色々だ。誰かに強要されたけど本当はしたくなかった。自分で選んで行った。それだけでも変わってくる。
私は朝凪の考えを読み切れないまま、耳を傾けていた。
「それが酷い自己満足でも、涙さんは許してくれますか?」
「逆に許さないと思うんですか?」
「思いません。涙さんはきっと、許してくれるんだろうなぁって思います」
……へぇ。
正直、少し驚いた。彼女が私に向けた距離感がむず痒くて、虚をつかれたから。
朝凪からすれば、私は許してくれる相手なのか。何をしても、どんなことを隠していても。
その距離は、想いは、あまりにも儚くて、落ち着かない。
「そうですか」
素っ気ない言葉を零して、着替えを持ち直す。朝凪は袖を離し、私は眠る柘榴先生の元に戻った。
朝凪の声が背中に当たる。
「私も一緒ですよ」
あ、まただ。
また、言葉の紙飛行機が落ちた。
柘榴先生の服に手をかけた私は、振り返ることが出来なかった。
「私も、涙さんが何を隠してても、何を行っていても、許せます」
こつり、こつり、こつりって。
背中の真ん中や、肩甲骨に紙飛行機が当たる。それは先端に墨を持っていて、私の体に沢山の染みを残した。
「それはまた、どうして?」
傷だらけの柘榴先生の腕を撫でる。私は先生の肌に触れて、汚れた衣服を着替えさせた。朝凪は介助してくれて、意識のない相手でもどうにか動かせる。
柘榴先生を挟んで向かいに立った朝凪は、仕方なさそうに笑っている気がした。
「だって、涙さんですから」
あぁ、刺さるな。
あぁ……染みるな。
この染みは、水で洗ったって、雨に打たれたって、流れやしないんだ。
「涙さんは、曲がったことが嫌いなんだろうなって思います。私が上着を汚してしまった時も、怪我を隠そうとした時も、正しい意見をくれました」
「そうでしたっけ」
「そうですよ」
まるで覚えてない様子に会話をする。本当はいつのことを言っているのか覚えている癖に。でも、だって、ここで朝凪とのやり取りを大概覚えているなんて言ったら、それこそ笑えてしまうだろ。
柘榴先生の痩せた体を見る。やはり腹部に残っている痕は、今日できた傷と似ていた。
「涙さんは、流海さんの為に正しくあろうとする人だって感じてます。自分の為では無くて、いつも必ず、流海さんの為なんです」
朝凪の視線が柘榴先生の手帳に向かう。私はその視線に気づかないふりをして、柘榴先生のボタンを留めた。
朝凪は先生に布団をかけて、私の手は黒い前髪に伸びる。柘榴先生の体温は戻っておらず、私の意識はそぞろなままだ。
「だから、そんな涙さんが選んでしていることならば、私は許せますよ」
背中を強く押されたような、両肩を持たれたような、息の止まる感覚。
私は実働部隊の白装束を貰い、指先に力を込めた。
「そう、ですか」
顎を引いて朝凪に背中を向ける。それは着替える為だ。彼女から目を逸らしたとか、そんな理由はない。
気づかれているのかと勘繰ってしまったけど。どこかで自分はボロを出したかと考えてしまうけど。
朝凪の紫がかった黒目を思い出して、違うのだと分かってしまった。
この子は何も気づいてない。
何も気づかないまま、私が隠し事をしていることだけ気が付いたから、安心させようとしてくれてるんだ。
外見が美しく、内面が綺麗で、どこまでも優しいから。
私は唇を軽く噛んでから、白装束の襟を留めた。
「そんな優しさを私に向けても、朝凪が傷つくだけかもしれませんよ」
「それは涙さんにも言えることです」
「朝凪は、良い子ですから」
「それも、涙さんに言えることです」
「……貴方は私を買い被ってる」
「涙さんも、です」
全部、全部、朝凪がいいように返される。
朝凪に優しさを向ければ私が傷つくと、私は良い人だと、買い被ってると。
そんな筈ないのに、なんて、それもきっと朝凪は「涙さんもです」と返すのだろうな。
私が何をしたか知らない癖に。私がどんな気持ちで走ったかも知らない癖に。
思って、やはり同じだと感じてしまった。
私は朝凪の隠しごとを知らない。それはきっと竜胆と関係しているのではないかとも思ったが、それはそう予想しただけだし。
私が知らない所で誰かを傷つけているのかもしれない。私と同じように裏切り行為をしているのかもしれない。本当は元から私達の味方ではないのかもしれない。
でも、そんなことをどれだけ考えたって、どれだけ行っていたって、私が朝凪を責める日なんて来ないのだろうと思ってしまった。
私は冷えた手に白い手袋をつけて、口を真横に結んだ。
「涙さん、私、酷いんですよ」
振り返れば、濡れて渇いた毛先を整える朝凪がいる。彼女の指先はいつも丁寧で、その仕草から見た目まで、全てを総称して美しかった。彼女は美しさを纏い、滲ませていた。
「私、勝手な気持ちを抱いたんです。それを隠して、他の優しい人を利用して、仕舞い込もうって、紛らわそうって思ってしまっているんです」
朝凪が腹部を握り締める。白に皺が寄れば直ぐに正そうとしていた。それが彼女らしくて、動向を見つめてしまう。
青い瞳を思い出して、蜂蜜色に上書きされて。
朝凪いばらは、泣きそうな顔で唇を動かしていた。
「そんな私に比べたら、流海さんを想い続ける涙さんは眩しくて……堪らなくなります」
そうやって、苦笑を我慢する彼女に言葉が浮かぶ。常に美しくあろうとするのに、自分は美しくないと思っている彼女に言いたくなる。
「……私が進む道は真っ黒かもしれませんよ」
「ドロドロで、道を円にした私より素敵です」
「どろどろ」
「ドロドロ、です」
私は朝凪の足元を見る。そして、隣の部屋にいる黒髪も思い出してしまった。
「綺麗な道なんて無いですよ。みんなどこか腐ってるし、壊れてるし、不安定です」
朝凪の道だけがドロドロな訳ではない。
竜胆だってきっとそう。
銀色だって、桜色だってきっとそう。
灰色の兄妹も、先生達も、金髪の男だって、どっか綻んでるに違いない。
目を伏せた私は、ちょっとだけ口角を上げている気がした。
「涙さん……」
朝凪が何か言いかける。
その時――柘榴先生から呻き声が聞こえたから。
私と朝凪は息を呑み、先生の震える睫毛を凝視した。
少女達は、正反対だと思っていたのにね。
***
次話は水曜か、木曜に投稿予定です。
最近遅れ気味で申し訳ございません。




