76. 抱
私は助けられる経験を多くしてきた方だと思う。
初めては家の瓦礫の中から助けられ、突っ込んで来た車との隙間から助けられ、溺れた川の中から助けられ、落ちた崖下から助けられてきた。
だから、助けられた時の安堵を知っている。あぁ、まだ私は生きてる、死んでない、息をしてる。空を見られる、人の声が聞こえる、と。
いつだって助けられる側で、私が助けることなんて無かった。私は助けなければいけない状況を作る側、いわゆる加害者だから。
私は誰も救えない。他人にとっては事故を呼び込む悪者だ。
それでも、そんな私でも助けたいって思う一人がいる。
私と同じ加害者側に立ち、私と同じように助けられる側の片割れ君。
優しくない制約で、私よりも助けられる頻度が多い弟。
我慢して、我慢して、二人ぼっちでやっと呼吸をしていたのに。血を吐く流海は現実で、私の助けたいは加速した。
だって家族だから。もう失いたくないから。流海の死体を見たくないから。
どうか君が苦しまないように。
どうにか君が幸せになれるように。
どうか私の隣に居てくれるように。
事故を呼ばない為、周りを笑顔でいさせる為、流海はいつも私以外に笑ってる。相手が微笑みやすいように、釣られて笑ってしまうように。
――誰かの為じゃないよ。これは、巡り巡って自分の為だ
背中合わせで語った流海は、果たして笑っていたのだろうか。
笑いたくないのに笑って、防衛の為に笑って、笑顔の作り方を知ってしまって。
もう、幼い日のようには笑ってくれない。家族四人で居た頃の笑い方なんて、私達はとうの昔に忘れてしまった。
あぁ、流海、流海、大事な私の片割れ君。
無理して笑う君の横顔なんて、私は見たくないよ。
笑顔を嫌ってしまうなら、君の周りから笑みなんて消えればいいと思う。
誰にも会わなければ、私達は表情を作らなくていいよね。
二人ぼっちならば誰も傷つかないよね。
それを揺るがしたのは私の心情で、行動だ。
実働部隊と会っている時、流海はいつも微笑んでいる。その表情を見る度に、私だけを見てくれれば微笑まなくていいよって思うから。
抱き締めて、繋ぎとめて、守りたくて。
そんな君に、アテナで助けられた。
いる筈のない本部に君はいた。
私との約束を破ったのは、初めてだな。
帰ったら喧嘩するかな。怒られるかな。どこまで話そうか。どこまで教えようか。どれだけ私は流海を傷つけていたか、教えてくれるかい。
願う私は薙刀にハンマーを叩きつける。金属音は廊下に木霊した。
息も切れ切れに嘉音と対峙する。ライオスの効果が切れ始めた。そろそろ時間だ。帰らなければいけないタイムリミットだ。
怯みそうな足を鼓舞して前に踏み込む。嘉音をこの先へ進ませないために。
――涙、僕に何をして欲しい?
今すぐ帰って欲しかったよ、危ないから。でも言わない。私が流海の立場だったら絶対に頷けないから。
――部屋番号七十二と、七十五。そこにある薬を取って来て欲しい
――……戦わなくていいの?
――私が走るより、流海が走ってくれる方が速い。だから、お願い
傷だらけの私の足より、流海の方が速く走れるに決まってる。
お願いすれば、流海はペストマスクの下で不服そうな顔をしたんだろ。知ってるよ、分かるよ、だって双子だもの。
流海の背中を押し出せば、流海も私の背中を叩いてくれた。
それだけで私は戦える。嘉音を相手に出来るよ、ありがとう。
「考え事? 余裕だね」
嘉音の薙刀をウォー・ハンマーで受け止める。腕が震えるほど力が込められており、傷口から血が滲むのが感じ取れた。
「流海が来るなんて聞いてないけど」
「私だって、予想外ですよ!」
薙刀を弾き返して足を踏ん張り続ける。七十二の部屋に入ってくれた流海を信じて、駆けてくれる片割れを信頼して。
私は、嘉音と朧を先に進ませない。
嘉音は顔をしかめて私の奥を確認している。
枝の出入り口には朧が立っているが、彼は武器を構えていなかった。
私は嘉音と武器を叩きつけ合う。嘉音は手首を使って薙刀を操り、ハンマーを押さえつける形を取った。
今の私では嘉音に勝てない。違う、勝たなくていい。足を止めさせていればいい。
武器を抑え込まれようとも、主導権だけは与えるな。
「それで? 嘉音、貴方から見た朧は裏切り者だったんですか?」
私は意図的にペストマスクを近づけ、嘉音の瞳を見つめた。
灰色の目はすがめられ、額がぶつかりそうな距離まで詰められた。
「それ、今聞く? 空気ぶち壊しなんだけど」
「気になったので。貴方、ずっと考えていたでしょう?」
ペストマスク越しに声を張る。ライオスの効果が持つのは後少しかな。残り時間見てないから何ともいえないが、そろそろ肺が痛んできた。
嘉音は私を見つめて、少しだけ眉を下げていた。
「……俺にとっても、殲滅団にとっても――朧は、裏切り者だったよ」
嘉音の腕に力が入る。言葉はまるで自分に言い聞かせるような声色で、私はハンマーを落とされないように力を込めた。
「アイツが、あんなに訳わかんない行動するとは思ってなかった」
「訳が分からないのは、貴方がアテナで育ったからですよ」
「はぁ?」
均衡を保っていた腕から力を抜く。嘉音は不意に崩れた穂先に視線を向け、私は足を振り上げた。
嘉音の顎に回し蹴りを入れる。反射的に顔を後ろに下げた男は眉間に皺を寄せ、私は距離を詰めた。
青刃のナイフとリングダガーをぶつける。
「人は葛藤するんです。理性と本能に挟まれて、規則と不規則を思考して、規律と不規律に悩んで、息苦しさに喘ぐんです」
「もしそうだとして、本能を優先するのは怠慢だ。不規則を成すのは意思の薄弱だ。不規律を望むのは傲慢だ……そう言ってる俺が、殲滅団の俺がいる」
「だからアテナも殲滅団も嫌いなんです。綺麗すぎて汚くて、清らかすぎて息が詰まる」
何度もぶつかるナイフから火花を散らし、呼吸が出来る間は言葉を紡ぐ。腹から声を出して、相手の意識を私にだけ向け続ける。
「嘉音、貴方はもう知ってる筈です。本能を優先して、不規則を成し、不規律を望んだ結果を」
嘉音のナイフが迷う。
自分の言葉を思い出せよ、少年。
――正直になりなよ、朧
お前はもう、その感情を受け止めてるんだろ。
「正直になった結果、私と戦う事を楽しいと思った貴方だって汚れてるんです」
朧のことなんて言えないよ。
――俺は今、楽しいよ
言葉にしたお前は、もう純粋な殲滅団ではないだろ。
苦渋に顔を染めた朧と同じなんだ。
「貴方だって既に、立派な裏切り者ですよ」
嘉音の目が丸くなり、男は距離を取る。私は追撃することなく息を整え、ウォー・ハンマーを構え直した。
目の前で嘉音は自分の口に手を当てる。
嘉音、お前と朧はそっくりだよ。
自分の正義を信じているからこそ、どうにか修正しようと足掻き続ける無様さも。
悪い相手を探して、作って、自分は正しいのだと思い込みたい愚かさも。
そしてそれはきっと、私も一緒なんだ。
私は自分を信じてる。自分が決めてきた道を背負ってる。私は、私を正しいと思ってる。
欲しいもの全てを手に出来る奴なんて一握りだ。私は取捨選択をしなければいけない。だから私は、実働部隊ではなく流海を選んできたんだ。
嘉音、お前はどちらだろうな。
欲しいもの全てを手に出来る奴なのか、取捨選択する奴なのか。
男の顔が上がる。
その顔は、曇っていない。陰っていない。
嘉音は、私をただ真っ直ぐに凝視していた。
何も言わず、何も主張せず、ただただ射抜くように。
私は背中に鳥肌を立てて腰を落とす。肩幅に広げた足に力を入れて、いつでも動けるように相手を観察する。
嘉音の瞳孔が開く。獲物を狩らんとする獣のように。相手を見定める瞳になる。
目元を染めた嘉音はリングダガーを上着に仕舞い、薙刀を両手で構えた。
私の視線が嘉音の顔に向かう。男の視線で行動を判断したくて、後れを取りたくなくて。
そんな私を知ってか知らずか、八重歯を見せた嘉音は――喜々として笑いやがった。
あぁ……やらかした。
嘉音の笑顔を認識した瞬間、私の足元に亀裂が入る。亀裂は一気に穴を開け、心臓がせり上がった。
崩落、落下、高さ、ここは本部、傷の度合い、衝撃、これ、しま、ッ
廊下の縁を掴み損ねる。指先は床を掠めるだけで、体中から冷や汗が噴き出した。
伸ばした手で宙を掴み、息苦しさに噎せこんでしまう。
駄目だ、酸素、足りてない。頭、回らなくなってくる。
少しだけ目の前が霞んだ。視界が二重になった。
習慣として崩れた瓦礫に腕をぶつけ、事故を消化する。それでも落ちることは止まらない、止められない。
――涙、お前は死ぬ直前に……誰を呼ぶ、何を願う
朧の声が脳裏を巡る。悔しさが口に広がる。
私の体は、抗えない重力の元に落下した。
「ッ、るか、」
何も掴めなかった私は、無意識に片割れを呼んでしまう。
数えきれないほど繰り返してきた名前を零してしまう。
意識を飛ばすことを予想しながら、最低な結末を予測しながら。
私は、流海を想い続けていたんだ。
「――涙!!」
そんな私に応えてくれる声がする。
私は目を見開いて、躊躇なく飛び降りてくるペストマスクを見つめた。
霞んだ視界が鮮明になる。気づけば私は、もう一度手を開いていた。
流海が私の手を握ってくれる。
指が絡まって、引き寄せ合って、激しくはためく上着の音なんて無視をして。
私が流海の胸に埋まったのか、流海が私に覆いかぶさったのかなんて分からない。
ただただ私達はお互いに腕を回して、本部の枝から落下した。
「掴まっててよ!」
マイクを介さずして流海の声が響く。私は流海の首にしがみつき、片割れは私の腰に回した腕で抱き寄せてくれた。
流海のクロスボウから糸のついた矢が撃ち出される。矢はワンフロア下の枝に突き刺さり、矢と糸で繋がったクロスボウを流海は握り締めた。
私は流海の首に縋り寄り、同時に糸が勢いよく張られた。体に衝撃が走る。二人分の体重を支えるには糸が細い、もってあと数秒。
流海は体に大きな横揺れをつける。幹と離れた体はブランコにでも乗ったような浮遊感と不安感を足底から起こし、私は奥歯を噛んだ。
耳元で流海の心音が聞こえる気がした。大きく振りのついた体は幹に近づき、再び離れる。糸が軋む。矢が動く。
糸が切れかけた時、流海の体が今までで一番の勢いをつけて幹に向かう。
そこで糸は切れて、私達の体は正しく飛んだ。
「涙!」
ふと、上から呼ばれる。
私は反射的に顔を上げて、落とされた黒い砂時計を見つめた。
理解がまだ出来てない。でも、これは、掴まないといけないやつ。
――倒れた際にウォー・ハンマーが手を離れ、上着のポケットからは砂時計が転がっていく。
あ、
私は咄嗟に砂時計を掴み、砂がほとんどアテナへ零れている様子を見る。
流海は力強く幹に両足を着き、そのままスノボーでもするように本部を滑り降りた。
片割れは私を力強く抱える。流海は近づく地面にタイミングを合わせて膝を曲げ、私の頭を腕で覆った。
衝撃を殺す為には転がった方が良い。両足で着地した場合、下手したら足が折れる。
頭が考えた時、流海が幹を蹴って地面に転がる。自分を下敷きにして、私より幾分も成長した体を盾にするみたいに。
私は衝撃に体を固くし、輝く砂塵が私達を包んでいた。
全身に痺れと鈍痛が走る。呼吸は浅いままで頭痛がし始め、視界が眩む。
押し寄せる不調に微かに呻いた私は、しかし意識を保ち続けた。
自分よりも、心配したい相手がいるから。
歯を食いしばって体を起こした時、流海と私の声は揃って響いた。
「ッ、はッ、涙! 大丈夫!?」
「流海! 怪我は!?」
流海が切羽詰まった声と共に私を覗き込んでくる。ペストマスクの嘴をぶつけた私達は微かに見える黒目を観察し、互いが無事であると悟っていた。
思わず脱力しそうになった時、私は咳き込んでしまう。流海も頭上で咳き込んでおり、私の体温は一気に引いた。
私の咳き込みはライオスの効果が薄れ始めた、酸欠状態に近づいているからだとして。
流海はどっちだ。流海は私より後にアテナに来たんだろ。なら、まだライオスの効果はある筈で、だったら、だったら今の咳はッ
焦った私の腕を流海が握る。片割れは私の頭に頬を乗せて、仕方がなさそうに呼吸していた。
「僕は平気だよ……だから帰ろう、涙」
「る、か……」
流海の手が、砂時計を持った私の手を逆さにさせる。
私の体は砂に変わり、流海も砂時計を逆さにした。
私達の体が砂になる。砂になって、塵も残さず、消えていく。
微かに見上げたのは壊れた枝。
そこから見下ろす灰色の目は、二組あった。
無表情の嘉音は手を振っており、朧は口を結んでいる。
何を考えているか読めない顔。何がしたいのか分からない顔。きっとそれは、アイツらの中でも分かっていないんだろうな。
嘉音の口が動く。
"またね"
私はそう読み取って、流海と共にアレスへ戻った。
転移室に二人とも座り込んだ形で構築される。
私はアルアミラやペストマスクを外して肺一杯に呼吸する。首筋や額には脂汗も浮いており、頭痛は鈍く続いていた。
私はそこで見てしまう。向かいに座っている流海の膝に、白い服に、点状の血液が落ちた様を。
口角を震わせながら上げる。
私は無理やり笑って、流海を見上げた。
片割れの顎に滲んだ血が見える。
流海の白い手袋の甲にも、同じ赤がある。
私の視界は一気に潤み、無言の流海に引き寄せられた。
後頭部に片割れの手が添えられて、心音が聞こえる。早鐘を刻む心臓は流海が必死に生きている証で、頭上では深い咳が再び聞こえた。
「……これは、涙のせいじゃないよ。これは僕のせい。涙の心配を無視して、勝手をした僕のせいなんだ」
痰の絡んだ声で流海が慰めてくれる。私の頭を叩くように撫でて、足の間に私を閉じ込めて。
私はウォー・ハンマーを手放して、室内に金属音が響いた。
流海は暫しの間をとって呼吸を整え、私は唇を噛むしかできない。流海の背中を撫でるのが怖くて、抱き締めるのが不安で、どんな言葉も無意味だと思えてならなくて。
下を向いたまま固まる私の前に、不意に流海は手を出してきた。
「見て……涙」
開かれる流海の手。
そこにある――二つの瓶。
私は息を詰めて、指先を流海の上着に触れさせた。
「こっちは、七十五の部屋にあった薬」
それは薄い水色の瓶。私達が何も知らないまま仮定を立て、実在すると教えられた、理性決壊薬。
「こっちは……七十二の部屋に、あった薬」
それは乳白色の瓶。以前嘉音が口にしていた、栄養ドリンクのような、緩和薬。
流海は私の手に薬を乗せて、空いた手が背中に回される。あやすように私を閉じ込めた片割れは、深い呼吸を繰り返していた。
「……教えてね、涙。これが何で、涙は何をしてたのか」
流海の手が私の背と頭を撫でる。
私は嗚咽を噛み殺し、背中を丸めて、流海の胸に顔を埋めた。
薬を握り締めて、片割れの心音だけを聞いて。
流海は、私が泣き止むまで背中を撫で続けてくれた。
やっと、やっと、手に入れた。
――けれども。
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次話は三日挟んで、土曜日に投稿予定です。




