71. 虚
パナケイアの更衣室で、私は桜にメッセージを送る。初めての挨拶としては礼儀に欠けるかもしれないが、私はコレしか送る文面が思いつかなかったのだ。
桜の返事を待たずに廊下へ出る。清潔な廊下を歩くと酷く静かな心地になるが、いつものことだ。
全身を覆う白い衣装に顔を隠すペストマスク。手にしたウォー・ハンマーを馴染ませる為に回せば空気の切れる音がした。
朝凪や竜胆も一緒にアテナへ行くと言ってきたが、どうせ向こうで降り立つ場所は違うのだと丸め込んだのが数分前。伊吹は小夜に会ってからアテナに行くと伝えてきたので、勝手にどうぞと置いて来た。
彼らと居ると滲むから。私の心が緩んでしまう。私の正義が揺れてしまう。
流海の幸せと同時に、朝凪達との明日を欲する自分なんて許せないのに。友達になれないことを嘆いた自分は背負っていくと決めたのに。
やはり何か他の道は無いか、なんて。
囁く私は黙っとけ。
「涙」
「あ、流海」
転移室に辿り着くと扉の隣に流海が居た。私は弾む足取りで近づき、腕を広げてくれた片割れにすり寄っていく。
「柘榴先生の用事は終わった感じ?」
「んー……いや、今待機中って感じ」
「待機中」
「そう。詳細は教えられてないんだけど、柘榴先生どっか走って行っちゃったから。今日はずっと訓練室で筋トレとクロスボウの手入れしてた」
「あれま」
肩口に額を埋めてくる流海の背を撫でる。柘榴先生が走るなんて何事だろうかと思ったが、流海が無事そうなので一先ず慌てることはしない。今日の話し合いの結果を流海に伝える時、先生達にも聞いてもらって、その時にでも確認しよう。
思考しながらアルアミラと帽子、ペストマスクを一度外す。笑って流海を見上げれば、片割れ君は口を耳元に近づけてきた。
「それで、涙の方はどうだった?」
「収穫が沢山あったよ。帰ってきたら報告する」
「分かった」
流海の頬を挟んで弄ぶ。流海の目元は柔らかくなり、寸での所で笑わないよう努めてくれた。
「……ねぇ涙、無理してない?」
「無理なんてしてないよ」
「嘘だろうなぁ」
「なんのことだか」
「涙はいつも、僕の為、僕の為って頑張ってくれるから……」
言葉を止めた流海を見る。黒い瞳を揺らした片割れは、私の肩に再び額を乗せた。
「……僕は、涙の重荷になりたいわけじゃないんだよ」
蛇口に溜まった水が落ちるように、流海が小さな声を零す。私は片割れの背に回した手に力を入れ、脳裏に浮かんだ伊吹達を見ないふりした。
「違うよ流海。流海を重荷だなんて思った事ない。流海がいるから私は息が出来るんだ。自分の呼吸を守りたくて、一人になりたくなくて……流海と幸せになりたいから、走ってるだけさ」
「今走るべきは僕なのに、ごめんね……涙」
「流海は何も悪くないから謝るなよ。今日はナイーブ君か?」
「別に。思っただけ」
「そうかそうか」
笑って流海の頭を撫で崩す。そうすれば流海は私を強く強く抱き締めるから、片割れの感情を痛いほど受け止めた。
どうせ自分は役立たずだとか思ってるんだろ。いつも足を引っ張るとか一人勝手に嘆いてるんだろ。馬鹿だなぁ流海。変な所で頑固な君が、私は愛おしくて仕方がないよ。
私の手を握り締めた朝凪を思い出す。
微かに自分の笑みが引き攣った気がする。
直ぐに満面の笑みを浮かべた私は、嘘偽りない言葉を吐き出した。
「大好きだよ、流海。私が明日も生きる為、流海も明日へ進んでくれ」
「それが涙の為なら」
「ありがとう」
流海と離れてペストマスク等をつけ、転移室に入る。扉に凭れた片割れは、不安げな顔を隠しもしなかった。
「やっぱり、僕も行っちゃ駄目?」
砂時計を少しだけ見て、流海に嘴を向ける。
メディシンを点滴して、血を吐く事実を抱え込んでいた片割れ君。
私に残った最後の家族。生まれた時からずっと一緒。大切で、守りたくて、無くしたくない唯一よ。
君を無くせば私は壊れる。君が消えれば私も消える。そんな未来が来ないように私は進んでいたい。流海と一緒に、ただ生きてる明日が欲しいんだ。
私は見えないにも関わらず、ペストマスクの下で笑っていた。
「駄目だよ流海。お前は、こっちに来たら駄目なんだ」
伝えて砂時計を逆さにする。顔に影を落とした片割れに背を向けて。
砂になった私はアレスを離れ、アテナへと転移した。
白銀の芝を踏んで砂時計を仕舞う。見慣れた宝石の林の中で、白い軍服に身を包んだ者達を確認して。
笑みを消した私は、ペストマスク越しでも聞こえるように声を張った。
「どうも、嘉音、螢、空牙」
「来たね、涙」
私が昨日帰還した地点で待っていた嘉音。その背後には螢と空牙が立っており、軽く手を振られた。やめろよ、無駄に良心的な態度を向けられても困る。
私は二人に何も返すことなく、歩き出した嘉音の背に続いた。螢と空牙もそれは分かっていたのだろう。黙って後ろに着き、私は白い三人に囲まれる形で林を進んだ。
嘉音は淡々と言葉を口にする。
「案内するよ、本部の近くまで。その後は一人で潜り込んでね」
「分かってます」
「あと、今日は朧がいる日だから殺されないでよ? 俺が本部で涙を見つけるまで逃げ延びてね」
「それ、結局私は戦う羽目になってますよね。朧と戦うか嘉音と戦うかの違いならば、今回だけは見つかる前に退散しますよ」
「それは俺が許せないからやめて」
暴君かよ。
喉まで出かかった言葉を飲み込んでおく。嘉音は涼しい顔で言葉を並べ、珍しくリングダガーを回していた。ナイフはアレスでしか見たことが無かったのだが、アテナで使わないと言う訳でもないらしい。
私の前を歩く男は、鼻歌でも奏でそうなほど上機嫌に見えた。……気持ち悪いな。
螢と空牙が私達を観察している気がするが、そこは無視しておく。二人は嘉音とまた違うベクトルだ。私を通してアレスを知ろうとする姿勢が垣間見える。私をアレス代表にするなんて間違ってるぞ。言わないけど。
「そうだ涙。良い事教えてあげるから実働部隊のヤマイ、教えてよ」
唐突な嘉音の言葉に、息を吸う。
脳裏には直ぐに四人のヤマイが浮かび、私は冷静な自分を引きずり出した。
嘉音が求めているのは、彼が思い描いてきた害悪たるヤマイの姿。それを私に投影して、自分のヤマイ像を元に戻そうと拗れてやがる。
不覚にも、正直な私と、もう一人の私が内情で暴れそうになった。
温かい紅茶を飲んだせいか。甘ったるいシフォンケーキを食べたせいか。穏やかな空間に居たせいか。
雪がちらつくベランダで、無駄に語ってしまったせいか。
混乱しそうな思考を整理して、捨てて、削って、私は未来を考える。過去は戻らない。未来の為の今を決めろ。
どうすることが流海の為になるのかを。
私の正義になるのかを。
「良い事の内容によります。それによって、私も教えるヤマイを決めるので」
「あー……分かった。良い事って言うのは、理性を捨てさせる薬の場所と効果について。アレスの毒の緩和薬と一緒に理性決壊薬も狙って、悪いヤマイになってよ」
嘉音の言葉に一瞬だけ息を呑んでしまう。
理性を捨てさせる薬。それは即ち、私達を化け物に堕とす薬だと勘づいて。
幸か不幸か、桜邸で得た知識は自分が慌てることを予防してくれた。
「やっぱり、そんな薬があったんですね。仕込んでいたのは武器に、でしょうか」
「なんだ、気づいてたんだ」
「つい数時間前に仮定を立てた程度の進捗です。まさか嘉音の方から語ってくれるとは思いませんでした」
「無知なままでいない姿勢に感心しちゃったんだけど。気持ち悪い」
「勝手に吐いてなさい」
お互い毒づきながら螢と空牙にも視線を向ける。二人も微かに目を丸くしていた為、こちら側が仮定を立てているとは本当に思っていなかったのだろう。
無知はやめると決めたんだ。いつまでも、お前達ばかりが知っている状況なんて望んでない。
導いて来た回答に丸が付けられた心地になりながら、私は嘉音から知識を与えられ続けた。
「涙が言う通り、俺達の武器には薬をつけてるよ。でもおかしいな、これは時間が経つと気化して消えるからアレスでは研究されてないと思ってたんだけど。どこで気づいたの」
「経験と過去の資料からですよ。なんでそんな遠回しなことをするか知りませんけど。武器があるならいっそそのまま殺せばいいのに」
「勿論、左手に刻まれてるマークの小さい奴はその場で殺すこともあるよ。それって危険度みたいなのを示してるんでしょ?」
嘉音が己の左手の甲を叩く。
私は貫かれた印数を思い出し、無言の肯定を返しておいた。
「左手を隠してるヤマイは周りに危害を加える可能性が高いってことが殲滅団の間では語られててね。だから任務では、危険度の高いヤマイの理性を捨てさせる方向で動いてるんだよ」
「それは何故」
「だって危険度の高いヤマイが理性を捨てれば、他のヤマイも巻き込んで死んでくれるでしょ? 手間は省きたいんだよね」
――あ?
言葉を無くす。
音が消える。
こめかみで、血管が切れる。
気づけば私はウォー・ハンマーを回して、嘉音の頭へ叩き込んでいた。
なんて言ったコイツ。
マッキがヤマイを巻き込んでくれる? 死んでくれる? 手間が省ける?
私の体温は一気に上がり、奥歯を噛み締めた音が鼓膜を揺らした。
腹の底で溶岩が煮えている。煮えたぎって溢れそうになる。溢れた熱が私の喉を焼いていく。
嘉音はリングダガーを使ってハンマーの軌道を変え、私は地面を割っていた。
直ぐにハンマーの頭を持ち上げて嘉音に殴りかかる。螢に「涙さんッ」と止められた気がしたが聞く意味がない。
嘉音は目元を染めながらナイフを回し、ウォー・ハンマーを紙一重で躱していく。後ろ向きに私から距離を取る男を容赦なく猛追すれば、嘉音は口角を上げかけた。
即座に視線を胴体に逸らす。
その肋骨、砕いて肺を貫けばいいね。
私は真横からウォー・ハンマーを振り抜き、しゃがんだ嘉音の頭上を切った。
嘉音が屈伸のバネを利用し、ペストマスクに刃を叩き込まれそうになる。私はナイフを抜いて刃を打ち当て、林には金属音が木霊した。
力を込めて、嘉音と刃の押し合いを余儀なくされる。
均衡状態は私の頭を不意に冷静にさせ、正直ではない私が囁いた。
――そうだよなぁ。そうだ、そうだろ。私は馬鹿か? 馬鹿だな、浅慮だ。救いようのない愚図だ。気づくのが遅すぎる。
目の前にいるコイツは敵だ。私達を害悪だと嘯く屑共だ。誠実さを私達に向けることなど無いのだから、その思考はどこまでいっても私と交わらないだろ。
ならば、私が誠実である意味がどこにある。
二の足を踏んだ己を嘲笑う。
私は、流海にだけ誠実であればいい。
私のことだけを考える自己中でいい。
コイツらに誠実である意味はない。
ナイフを引いて即時後退する。嘉音はナイフを回しながら私を観察し、追いついて来た螢と空牙には目もくれなかった。
「二つの薬、本部のどこにあるんですか」
「なんだ、癇癪はもう終わり?」
「無駄口を叩かずに答えなさい」
「命令するなよ害悪」
「見下すのも大概にしろよ没個性」
嘉音が頬を痙攣させ、深く長く息をつく。
私はハンマーで地面を殴り、嘉音の目が細められた。
アテナに滞在できるのは一時間だけ。無駄にすんなよ、砕くぞ。
「……薬があるのは本部の中層階。部屋はたくさん並んでるけど、緩和薬は部屋番号七十二、理性決壊薬は七十五にあるよ。配布される時に部屋の奥の棚から出されてたからそこを探してごらん。厳重な扉を壊せたらの話だけど」
「壊しますよ。是が非でも」
ナイフを仕舞ってハンマーを肩に担ぐ。
嘉音は灰色の瞳で私を射抜き、空気だけで対価を求めてきた。
私はペストマスクの下で口を結び、道を決める。
私は私の為に、同じヤマイを危険に晒す。
勝手に踏み込んで、信用を踏みにじって、信頼を踏みしめて。
嘉音は灰色の目を細めて、人差し指の先にリングダガーをひっかけた。
「思いのほか喋ったからさ、一人だと割に合わない。二人くらいは売ってよね?」
「……良いですよ」
勝手に喋ったのはお前だろ、と正直思った。それでも聞いたからには答えなければいけない。それが取引なのだから。
けれどもそこに、誠実さはいらないよな。
だって殲滅団はヤマイに優しくないんだから。
嘉音は私が歪むことを望んでいるんだから。
私は一人目のヤマイを口にする。
桜色の髪を揺らして、いつもペストマスクを付けてくれる子。
いつも微笑みを隠してくれる貴方に、私は恩を仇で返すのだ。
――素直な方ですね、本当に
「一人目のヤマイは、実働部隊の補助員――桜小梅という子です。彼女は、名前を呼んだ相手の被虐性欲を格段に上昇させるヤマイです」
「まぞ、」
「ひずむ」
今まで黙りこくっていた螢と空牙が首を傾ける。私は二人に視線を向け、言葉選びに気を遣った。
軋む感情には蓋をして、素直なように見せかけて。
「マゾヒズムとは簡単に言って、痛みに悦を覚える状態の事です。彼女のヤマイは名前を呼ぶ行為によって、相手が傷つくことを望むよう精神的に作用させるんです。傷つくことで喜びを感じられる性癖に転換されるので、私にとっての魔法使いですよ」
「まほーつかい」
螢が顔を輝かせて私の周りを跳ね始める。先程の切羽詰まった顔はどこへやら、可愛い顔したこの子もどこか壊れているんだろうな。
察する私は嘉音に向き直って言葉を吐く。罪悪感と優越感を煮詰めながら。
「奇跡といっても過言ではないかもしれないですよ。今までヤマイに助けられたと思った事なんてありませんでしたから」
「痛みに悦を覚えるなんて、相変わらずヤマイはおかしいな」
「おかしくないヤマイはいないと以前言いましたよね。そして彼女のヤマイは私にとって薬も同義。害悪では無いんです」
「勝手に酔ってなよ。それで、詳細は?」
「名前を呼ばれてからの効果はおよそ十五分。ヤマイに罹れば正常思考は難しくなると思いますが、そこまで脅威でもないですよ。彼女が名前を呼ぼうとも、それを聞きさえしなければヤマイには罹りませんので」
「へぇ、武器は?」
「ボーラを使っています。見たことありますよね? 長い桜髪のメンバーです。補助員の立ち位置にいますので本人に戦闘経験は少ないですよ。長期戦に持ち込めば簡単でしょ。彼女、基本的に一人行動ですし」
つらつらと、ぺらぺらと。
語る自分を嘲笑する。自分勝手な己を蔑んで、目の前で私の話に耳を傾ける木偶に吐き気を覚えながら。全ては片割れの為だと譲れない心を掻き毟って。
これは流海の為で、私の為だ。お前達の言いなりになる為ではない。
私は固くなっていた自分の頭に気づき、二人目のヤマイを浮かべた。
灰色の髪を揺らして、いつも私を叱るお節介。
――この不毛で不合理な状況ってさぁ……アテナの戦闘員全員殺して、パナケイア潰せば終わるんじゃねぇのかなって
無限マラソンは終わりにしよう。お前に目標の兆しが見えたならば、臆することなく駆けてけよ。
なぁ、理性的なお兄ちゃん。
私の手を掴む、変わり者君。
「二人目は実働部隊のメンバーである――伊吹朔夜です。彼は肌が触れ合った部分を凍らせるヤマイ。武器はトンファー。知りません? 灰色髪の男です」
「あぁ……アイツか」
嘉音の顔が少しだけ渋くなる。何度も会ったことはあるのだろう。伊吹は私と同じようにアレスでも戦闘員を対応してるからな。
私は言葉に装飾を加えて、淡々と取引を続けた。
「彼自身は戦闘経験が豊富なので一筋縄ではいかないでしょうね。ヤマイ自体は桜同様、そこまで脅威ではありませんよ。彼の掌や腕に肌を触られてしまったら凍りますけど、こちらから触る分には問題ないので」
本当に嘘を編み込んで吐き出した。
真実に偽りを混ぜて見えなくした。
これは罪悪感が起こさせたことではない。嘉音達への意趣返しであり、馬鹿正直だった自分に対する鬱憤の整理でもある。
嘉音は私のペストマスクを見つめ、一拍置いてから問いかけてきた。
「彼、いつも肌を隠してるよね。凍らせることが出来るならそれで充分戦えるのに、どうしてヤマイを武器にしないの?」
「ヤマイを発症させれば彼の肌も凍るからですよ。彼が肌を隠すのは自己防衛です」
「それ、凍った肌は砕けやすくなるんですか?」
「さぁ? 試してみてはどうですか?」
螢の問い掛けには適当に答える。実際知らないし、伊吹がそんなヘマをするとは思わない。
まずお前達は、アイツの肌に触れることなんて出来ないだろ。
「……あんた、底意地が悪いっすよね」
「そうなるよう望んだのは空牙達ではないですか」
呟く空牙の上げ足を取る。底意地悪くて結構だ。
私に歪みを求めた時点で間違いだろ。私に悪を求めたのはそちらだろ。
嘉音は私の全身を見定めて、リングダガーを仕舞いながら道を開けた。
「行きなよ。ここを真っ直ぐ行けば本部に着く」
「どうも」
会釈もせずに駆け出した。流海の為だと言い聞かせた。
尾を引く二人のヤマイになら、殴られてもいいかと思いながら。
「涙」
嘉音の声に微かに振り返る。男は何を考えているか分からない表情で私を凝視していた。
「また、あとでね」
馬鹿正直はやめた。
それでも、売った事に変わりはない。
***
次話は木曜日に投稿予定です。
殴り込み。




