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69. 躊

 

 朝凪の願望にこたえてはいけない。告げてはいけない。明確に返事をしないまま相手に誤解を与えても、相手の良いように受け止められても、私は訂正できる勇気を持っていないのだから。


 私は朝凪の手を引いて客間に戻る。何事も無かったように、無難な会話を交えながら。


「朝凪って感動モノの映画、観れなさそうですよね」


「ぅ、み、観れないです。ボロボロ泣きます。涙さんはホラー映画を真顔で観てそうです」


「私、ホラー映画は一人だと観れませんが?」


「え、」


「え」


「……えぇ?」


「流海にバックハグされて手を握り締めてもらわないと観れませんが?」


「……急にギャップを挟んでくるのは駄目だと思います」


「偏見が酷い」


 * * *


「あ、お帰りなさいませ!」


 客間に戻るとスキップしそうな桜に出迎えられ、私は一歩朝凪の前に立った。特に他意はない。


 桜は何も言わず、朗らかな空気で私達に紅茶を渡してくれた。湯気立つそれは態々淹れ直してくれたのだろう。私は柊と桜に会釈を送り、朝凪の前に立った竜胆は横目に見るだけにした。


 ……過保護かよ。


 口の中に湧いて出た言葉を紅茶で流し込む。そうすれば未だにベランダにいる伊吹を見つけたので、頬を撫でた寒風を思い出してしまった。


「桜、まだ紅茶あります?」


「はい、勿論!」


 元気よく返事をした桜の後ろで柊がポットを持つ。お前の耳は桜の会話全て聞いてんのか気持ち悪いな。


 内心毒づきながらシルバーのトレーを受け取る。そこには私の紅茶ともう一つ、ソーサーに乗ったカップが並び、ミルクの入ったクリーマーとシュガーポットも置かれた。どうやら柊は何を言わずとも察してくれたらしい。


「絶対落とすなよ」


「落としませんよ」


 柊からの信用がないことを実感していれば、銀色の男は窓を開けてくれた。私は会釈してベランダに出て、背後で窓が閉まる音を聞く。鼻の頭を少し赤くした伊吹は怪訝な表情で振り返った。


「辛気臭いですね、少年」


「お前みたいな強心臓してねぇんだよ、こっちは」


「そうですか」


 雑な会話を交わしてトレーを差し出す。伊吹は微かに目を丸くし、私はソーサーに乗った上品なカップを見た。


「受け取らせる以外の選択肢作ってないんで、受け取ってもらえます?」


「……おう」


 伊吹は手袋をした手でソーサーとカップを持つ。私は渡したことを確認してから、小さなテーブルにトレーを置いた。各ベランダにテーブルは常備されているんだろうか。お金持ちの考えることは分からない。


 私は朝凪と立ったベランダにもテーブルがあったと記憶を手繰り寄せ、自分のカップに口をつけた。


「……お前さぁ」


「はい」


「ゴールの無いマラソンしたことあるか」


「ありませんよ、そんな地獄の競技」


「そうか」


 鼻を啜った伊吹が紅茶を飲む。灰色の彼は口を真横に結び、居心地の悪そうな態度でミルクと砂糖を紅茶に足していた。


「伊吹はしたことあるんですか、ゴール無きマラソン」


「ある。てか、ついさっきまでしてた」


「へぇ」


 伊吹は味の変わったであろう紅茶を口に含み、やはり唇を真横に結んだ。お前、紅茶苦手だろ。似合わないし。


 私は独断と偏見を交えた感想を浮かべ、伊吹の言葉を催促した。


「何か言いたいならどうぞ。体のいい聞き役くらいにはなってやりましょう」


「……そこは流海と違うのな」


 灰色の瞳に目を向ける。どうして流海と比べられたのかは知らないが、追及するつもりも今は無かった。


 伊吹は暫しの間を挟み、私も口は開かない。語られなければ私に成す術は無いのだ。だから黙々と、淡々と、灰色が口を開くのを待ってみた。


「……俺はさぁ、小夜にメディシンの投与権を渡す為に実働部隊(ワイルドハント)にいるんだよ」


 ベランダの柵に凭れかかり、伊吹は天を仰ぐ。温もったであろう彼の息は白さを増し、私は無感動に耳を傾けた。


「空穂とは違う。お前は流海を治す為に実働部隊(ワイルドハント)にいるんだろ。それは明確な目標で、過程はどうであれ、いつか何かしらの終わりが来る」


 終わりか。まぁ、確かにな。


 流海が治ることは私の目標達成であり実働部隊(ワイルドハント)にその後も所属し続けるかどうかは考えていなかった。達成後の事を達成できていない時点で考える気力はないのだ。


 伊吹は紅茶を煽ってカップを空にする。ソーサーにカップが置かれる音は嫌に高く響き、伊吹は唸るように声を低くした。


「でも、俺は違うんだよ。俺は永遠と、それこそヤマイが無くならない限り実働部隊(ワイルドハント)に所属するつもりでいたんだ。そうすれば小夜のヤマイが悪化することも、もう、マッキにさせることも無いと思って。それならどれだけ俺がしんどくたって、反吐が出そうだって走り続けてやる気でいたんだ」


 伊吹がカップをトレーに置く。そこで初めて灰色の瞳は私を射抜き、手袋が握り締められる衣擦れが聞こえた。


「でも、今日のせいで俺のマラソンにゴールが出来た。分かるか? 今まで終わりが無かった道に突然目的地が出来たんだよ」


 喘ぐように男は主張する。叫びそうな顔で私を凝視する。


 私は彼が望むよう、聞き役に徹し続けた。


「これは幸せか? ちげぇよ、最低な茶番に気づいた怒りしかねえんだ。俺は今、怒ってて、悔しくて、情けねぇんだ」


 震える声は朝凪とはまた種類が違う。目の前の少年は感情を必死に押し殺して、蓋をして、平静を保とうとしたが出来ていないだけだ。


 伊吹は自分を抑えるように俯き、誰も殴れない掌で顔を覆った。


「さっきの資料とか見て思った。この不毛で不合理な状況ってさぁ……アテナの戦闘員全員殺して、パナケイア潰せば終わるんじゃねぇのかなって」


 伊吹の顔が両手に隠されていく。彼は虚脱しながら柵に背中を預け、ベランダには再び沈黙が流れた。


 私は紅茶を飲みながら伊吹を見つめる。聞き役はそろそろ終わりかと検討をつけて。


 軽くカップを回した私は、思ったままに返答した。


「壮大な思考ですね」


「……否定しろよ」


「しません」


「馬鹿だって罵れよ」


「嫌です」


「いつもみたくハンマー振り回せよ」


「誰彼構わず殴っている訳ではないので」


「俺の考えは妄想にしかならないって、平手でもしてくれよ」


「それで夢が覚める訳でもあるまいし」


「俺の餓鬼みてぇな空想、お前が壊してくれよ」


「目標を達成しない理由を他人に求めるなよ」


 紅茶を嚥下して伊吹を見つめる。丸くなった灰色の目はどこか滑稽で、私は煙草の煙でも吐くように息を吐いた。煙草は個人的に嫌いだけどな。


「伊吹は頭が固いですよね。賢そうな顔して」


「は?」


「貴方が実働部隊(ワイルドハント)に所属する理由、小夜にメディシンを投与してもらう為って言いましたよね」


「だったら何だよ」


「もっと柔らかく考えれば良いのにって話です」


 伊吹の顔に若干苛立ちが見える。私は自分が無表情のままであることを自覚し、己の性格の悪さも垣間見た。


 伊吹は私が流海と違うと言った。言い方からして、流海は伊吹の言いたい何かを聞かない選択をしたのだろう。


 ならば聞いた私は流海より良い奴だと判断されるのかもしれないが、それは違う。


 話を聞くことは少なからず相手に干渉する。流海は干渉しないことを選んだのだろうが、それは二人ぼっちを望む片割れならば正しい判断だ。干渉を許さず、語る前に口を閉ざすことが出来れば相手から距離を取れる。何でも受け入れて無駄な期待を持たせることも無い、良心的な拒絶だ。


 対する私は優柔不断だ。聞くだけ聞いて、私が思う意見だけ言って、その後の相手の行動に責任は取らないし寄り添いもしないのだから。掻き回すだけ掻き回して後は放置だなんてどこの気分屋だろう。


 それでも私は言葉を選び、伝えていよう。喋るように促したのは私だが、それに流されて語ったのは伊吹なのだから。これは屁理屈か。まぁいい。私はこれ以上、不要な感情は背負いたくないのだから。


 無責任な私は、適当に相手へ干渉した。


「凝り固まってますよ、伊吹。小夜にメディシンを与えたいから実働部隊(ワイルドハント)にいて、走り過ぎたんでしょうね。本質を見失ってます」


「……賢いお前の言葉は、馬鹿な俺には分からねぇよ」


「私が賢いだなんて見当違いですが、話が脱線するので広げるのは止めておきます」


「そうしてくれよ、賢者様」


「拗ねないでください、善行の人」


 伊吹が眉間に皺を寄せる。口を微かに曲げた男は本当に、手段と目的を履き違えるのがお上手なようだ。


 何を迷うのか。どうしてえてしまうのか。お前は何度も言っているのに。その行動で示しているのに。


 私は空にしたカップをトレーに置き、灰色の毛先に視線を向けた。


「貴方はずっと言っているではないですか。貴方の目的は実働部隊(ワイルドハント)に所属する事でもなければ、メディシンを貰う事でもない。貴方の本質は()()()()()()()でしょ」


 灰色の目が見開かれる。微かに強くなった風の中には、雪の欠片が少しだけ混ざった気がした。


「目が眩んでますよ。手段と目的を履き違えるから無限マラソンなんてしてしまうんです。目標は誰かが設定するものではありません。自分で設定して成し遂げるんです。成し遂げる為に方法を模索して、終わらせるんです」


「なら、俺が浮かべた目標を……お前は、肯定するのかよ」


「肯定も否定もしませんよ。それを伊吹が正しいと思うか、間違いだと思うかだけです。言いましたよね? 目標を達成しない理由を他人に求めるなって」


 シュガーポットの蓋を指で叩く。軽い金属音は冷たい空気に木霊して、灰色の瞳が逸らされることはなかった。


「私は流海を治します。流海と一緒に幸せになります。誰が何と言おうとも、それが私にとっては正しい行いなので。その過程がどうなっても、何を起こしても」


 だから私は、朝凪との関係を自分のせいにする。抱いた後悔は私のせいだ。彼女の心と私の今がすれ違ってしまったのは、紛うことなき私の責任だ。それを誰のせいにもしない。今の私の内情は、過去の私が作り上げて、明日の私へ引き継いでいく。


 伊吹は柔らかそうな前髪を掻き崩し、肩で大きく深呼吸していた。


 ……あぁ、そっか。


「伊吹って頭が固いわけでは無くて、理性的過ぎるんですね」


「……そりゃ、本能と願望だけで生きてる空穂よりは理性的だろうよ」


「喧嘩売ってます? それは買いましょうか」


「そういうとこだぞ」


 勢いよく脳天に手刀を入れられる。私は反射的に肩を竦めて口を結び、納得できないまま眉間に皺を寄せた。


 伊吹は私の頭を叩くように撫でて、深いため息を吐く。撫でても絆されねぇよ。私の頭は手置きではないので離せ。


 私は不満を飲みこみ、対する伊吹は砕けた言葉を垂れ流し始めた。


「……な~ぁ~、ほんとさ~……あー、もー……」


「なんですか急に。情緒不安定ですか? 大変ですね」


「この辺に教会ってあったか? 俺は告解室に行きたい」


「私は知りません。ほとんど顔の見えない相手に懺悔するなら、その辺の壁に懺悔するのも変わらないでしょ。あ、神様に怒られますかね」


「お前の口から神様なんて単語が出るとは思わなかった」


「言葉の綾ですよ。私は無神論者です。神様なんて人が勝手にそう名付けただけの何かですよ。まぁ、もしもこの世に神と言える存在が居たとすれば、ありとあらゆる恨み辛みを吐き散らして呪いますけど」


「は、同感」


 伊吹の手が私に下を向かせる。私の視界からは彼の顔が消えて、お互いの爪先が見えた。


 伊吹は私の頭を撫で続ける。髪を整えるように指をさし込んだかと思えば、柔く静かに崩すを繰り返す。


「……流海に怒られたよ。お前達の痛みを、俺の責任にしようとしたら」


「そりゃ怒るでしょうね。私達の痛みは私達のものです。貴方が背負うべきものではない」


「流海と同じこと言うなよ」


「双子ですから」


 頬が痙攣した私は、伊吹の手を払って顔を上げる。彼の顔には無表情が浮かび、ゆっくりと雪が舞い始めた。


「伊吹、貴方と朝凪は似ています。自分の周りで起こる悪いことは全て自分のせいだと抱えてしまう。朝凪はそれを伝えてくれる分まだマシですが、貴方は誰にも告げないから尚更質が悪い」


「だから、流海に伝えようとしたら怒られたんだよ」


「だってそれは伊吹が背負わなくていいことですから。聞く前に怒るでしょうね」


「この……ほんと、なんか……あ゛ーー……」


「知りませんでした? 私も流海も、貴方や朝凪達のように優しくはないんです」


 伊吹に頭を叩かれ、撫でられてを繰り返される。頭頂部が剥げそうなんですけど。払おうとすれば今度は両頬を掴まれ、伸ばされたり潰されたりと遊ばれた。これはいつまで我慢してやろうか。


 真顔で私の顔を遊ぶ男を見る。コイツ、感情の整理は出来たのだろうか。


「話して、落ち着きましたか」


「どうだろうな。何か取り敢えず、今はどうでもよくなった」


 頬を寄せられて、かと思えば力を抜かれる。顔の体操をする趣味は無いが、伊吹は手袋をしてるから温かさが移るんだよな。寒い日には最適である。


 私は勝手に暖を取る為に両頬を遊ばせることにし、別の話題を振った。


「これ、手袋を外して触られたら私の頬は凍るんですか?」


「そうだよ。俺の掌と一緒に」


「お互い凍るんですね」


 伊吹いぶき朔夜さくや、印数六――肌が触れ合った部分を凍らせるヤマイ。


 初めて顔を合わせた路地裏を思い出し、伊吹の顔を見つめる。嘉音の声を脳内で再生しながら。


 ――売ってよ、流海の為だ


 あぁ、嫌だな。こうして実働部隊(ワイルドハント)のメンバーと会っていると、逐一嘉音の言葉を思い出してしまうんだから。


 私は静かに拳を握り、ヤマイについて問い続けた。


「私が伊吹の顔に触れたら、私の手と伊吹の頬が凍ります?」


「あぁ、だから試すなよ。前に流海の指先が凍った時は心臓止まるかと思ったんだから」


「私の片割れに何してるんですか」


「事故だ、事故」


 伊吹がため息を吐いた口元を見る。流海の指先が伊吹のどこを触って凍ったかは知らないが、つまりは皮膚が触れ合ったんだろ。何があったんだよ。


 聞こうとしたら伊吹の目が「聞くな」と訴えてる気がして若干こめかみに力が入る。伊吹はいつも顔以外の肌は露出しない徹底ぶりだから、やはり触るなら顔だよな。帰ったら流海に聞こう。


「皮膚同士の接触をした場合、時間で何か変わったりするんですか」


「あぁ、長ければ長いほど氷が分厚くなる。一瞬だったら凍傷にはならねぇレベルかな」


「洗顔とか大変そうですね」


「人のヤマイ聞いた感想がそれかよ」


「憐れみもさげすみも満腹でしょう?」


「ご親切にどーも」


 伊吹が再び私の顔を下に向けさせる。震えた男の指先は笑っていると思わせるから、私は気づかれないように目を伏せた。


 こうも簡単に教えてくれるようになるとは、出会った頃は思わなかったのにな。伊吹はヤマイを口外した方が発症を抑えられるのだろうが、それにしても警戒心は持っておけよ。


 なんて、私の我儘か。


「伊吹」


「なんだよ」


「目標を達成するのって、葛藤とか色々、抱えるものが増えて大変だったりします」


 トレーに乗せた食器を横目に見て、呟いてみる。独り言のように、譫言うわごとのように。聞き逃されても問題ないとどこかで思いながら。


「それでも考えすぎたら溺れそうになるので、結局は単純にいくのが最善かと」


「……経験談か?」


「ただの持論です」


 私の顔から伊吹の手が離れる。温もった頬に手の甲で触れれば、指先を握られた。やっぱり手袋ってあったかいな。


 実感する私は、シンプルな意見を口にした。


「私達は結局の所、ただのブラコンとシスコンなんですよ。片割れの為、妹の為。きょうだいを傷つける者が許せなくて、守りたくて、救いたい。単純明快です」


「誰がシスコンだ」


「無自覚ですか、小夜も大変ですね」


「お前達と一緒にすんな。倫理も節度も無視した依存きょうだいが」


「依存も立派な愛ですよ」


「重度の偏愛主義者か」


「口先だけの純愛を謳うより良いかと」


 愛など語るは容易いだろうよ。優しさを見せるのは簡単だろうよ。


 それでも、愛することを実行するには意志がいる。優しさを貫くには覚悟がいる。


「貴方が偏愛と呼ぶ感情が、今日の仮定を導いたんですよ」


「あぁそうかい、そうかよ、ムカつくな」


 口角を横に伸ばした伊吹が私の鼻をつまむ。まるで幼児を相手にするような態度に口を結べば、伊吹は眉間に皺を寄せた。


 その表情は知ってる。笑いを堪えた顔だ。私はお前達に出会ってから、その表情を沢山見てきてしまったのだから。


「なら、教えてくれよ賢者様。単純なこの世界を動かしてるのはなんだ? どうすれば俺は俺が欲しい明日を手に入れられる?」


「手に入れる方法は知りませんが、動かしているものは簡単です。個々人の正義と怒りですよ。勝った正義が正しくなる。叫び続けた怒りが動力になる。それだけです」


「愛だの善意だの言われなくて良かったよ」


「汚いアレスで生きてますから」


「俺も頭の先から爪先まで汚れてるわけだ」


「汚れてないと自負する奴らと比べれば、汚れてる方が気楽ですよ」


 だから私は汚れながら自分の正義を主張するんだ。流海の為だと自分を鼓舞し続けるんだ。例えそれが、誰を裏切る行為であったとしても。


 私は伊吹の唇を見て、ふと思った事を実行した。


 自分の指の甲で伊吹の下唇を押す。紅茶で少し温もっている部位は柔らかく、適度な弾力もあった。指触りも良いままで、私の指も伊吹の唇も凍ることはない。やっぱりか。


 皮膚同士の接触は凍るが、片方が皮膚で片方が別物ならヤマイは起こらないことを実感する。私の皮膚が伊吹に触れることで凍るのではなく、伊吹の皮膚が他者と共に氷を発生させるのだ。理解。


 私は自分の中に出来ていくヤマイリストを思い浮かべ、ふと伊吹の顔に気が付いた。


「顔が赤いですね。笑える」


「……なに、して、る」


「下唇って内臓の一部らしいんです。伊吹のヤマイが皮膚と皮膚の接触ならば、皮膚と内臓はどうなのかと思って試しました。発症しませんでしたね」


「ばッ、おまッ」


 伊吹の首から額までが赤くなる。あぁ、流海と同じような接触は駄目だったわけか。すまんな初心うぶ


「すみません、軽率でしたね」


「ほんと、おまえは、なんか、ちょっと、ほんと、考えて行動しろよ!?」


「そんな騒がないでください。キスした訳でもあるまいし」


 感想を伝えればヘッドロックを決められる。私が「うわ、」と呟く間に、伊吹は荒々しく室内に歩いて行った。無理な姿勢で引きずられると転びそうになるだろ、首に回した腕解けよ。


 文句は浮かんだが一応黙っておく。多分今は私が悪いのだろう。


 私は伊吹の腕を持ちながら、柊達の声を聞いていた。


「空穂姉、セクハラも大概にしとけよ」


「これ、ヘッドロック決められてる私が謝る側なんですか。さっき謝ったのに」


「その賢い頭で考えろ馬鹿!! 流海と同じような事すんじゃねぇよ!」


「何やらお二人で少女漫画みたいなことをされていましたわね! とてもドキドキ致しましたわ!」


「えぇ……私は流海にだけドキドキしてたいんで、ごめんなさい伊吹」


「なんで俺は告白もしてねぇのに振られたみたいになってんだよ。マジで首絞めるぞ?」


「もう締まってます。ギブですギブ」


 伊吹の腕を叩いて降参を示す。


 室内に朝凪と竜胆がいないと気づきながら。


 温かい室内で、二人ぼっちでは感じられなかった騒がしさを耳にしながら。


 伊吹から離れた私は首を摩り、無性に流海を抱き締めたくなっていた。


「……あ、そうだ。伊吹、お酢チャレンジってなんですか?」


「今それ聞くか? やっぱりお前馬鹿か? 馬鹿だろふざけんなよ」


「理不尽」


お化けは嫌いだよ。

だって殴れないから。


***

次話は金曜日に投稿予定です。

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