64. 害
スマホに入る実働部隊からの招集。アテナの戦闘員がアレスにやって来た連絡。
静かな部屋で僕はイヤホンをつけて、伊吹君と竜胆君もスマホを見ていた。
「北区二ブロック目、及び東区四ブロック目にてアテナの戦闘員を確認。実働部隊は至急行動を。相手戦闘員は各三名、ヤマイは現在路地裏を逃走中。ヘルスを巻き込むことは決して無いように」
「東区は私といばらちゃんがいるから行けるよ!」
「よろしく雲雀ちゃん、いばらちゃん。北区は誰か行けそう?」
「あ、その声は樒ちゃんだ! 女の子の方だ! お久しぶりです!」
「はーい、久しぶり」
聞こえてきたのは棗さんと知らない女の声。女の声に対して棗さんが「樒ちゃん」と呼んだことに疑問を抱けば、竜胆君が肩を強張らせた空気を察した。
僕は竜胆君の手元を一瞥して、勝手に返事をする。
「北区は僕と伊吹君で行くよ」
「ぇ、流海」
あ――涙の声だ。
我ながら簡単な性格をしてると思う。涙の声がして、涙が僕を呼んでくれるだけで気持ちが穏やかになるんだから。
易くできた僕は、不安を隠しきれていない涙に切願した。
アテナに僕が行くことを恐れた涙、僕を心配してくれる涙、僕を想ってくれる涙。君は何も、心配しなくていいんだよ。
僕は弱虫な僕が嫌いだ。涙に心配をかける僕なんて消えてしまえばいいと恨む。涙を安心させてあげられる僕だけが、涙の傍に居ればいいと思う。
だけど、人間はそんな簡単に強くなれないから。どれだけ努力をしたって芽が出るとは限らないから。
だからどうか、僕が芽吹く為の信頼を頂戴。
「大丈夫だよ。僕を信じて、涙」
言葉にしきれない想いを乗せる。
そうすれば、涙は僕が欲しい言葉をくれた。
「ずっと、信じてるよ……流海」
「……ありがとう」
あぁ、あぁ、涙、涙、可愛い涙。
君が何を考えてるのかは知らない。何を隠しているのかも僕は探れていない。探った時、知った時、君が遠くに行ってしまいそうで怖いから。心も体も離れてしまって、僕は独りぼっちになるのではないかと思ってしまうから。
そうなる前に、君がもっと楽になれるように僕も頑張るから。
僕は通信を一度切って、持ち帰っているクロスボウを鞄に入れた。
「行けるよね、伊吹君」
「ぁ……あぁ」
「待って、俺も、」
「竜胆君は朝凪さんの所に行きなよ。心配が滲んでるから」
立ち上がった伊吹君と、彼を隠すように立った竜胆君。僕は蜂蜜色の瞳を見つめて、握り締められたスマホに視線を落とした。
「引いたら後悔するんでしょ。なら頑張って引き留めなよ、縋ってみなよ。そうしないと、君は損をする人のままだ」
僕にとって竜胆君と朝凪さんの関係なんてどうでもいい。興味はないし、どうにでもなればいいと思う。ただ気がそぞろな彼に着いてこられても迷惑ってだけだ。
竜胆君は瞼を伏せると、泣き出しそうな顔で笑っていた。
「俺はいいんだよ、損する人で……でも、ありがとう」
言い残した竜胆君は鞄を持って出て行く。僕は彼の棘を内心で拒絶し、顔を覆ったままの伊吹君を見た。
「笑わなくていいよ、伊吹君の顔は見ないから。僕は前だけ向いてる」
帽子を被って踵を返す。そうすれば伊吹君も黙って着いてきたから、僕は口を結んでいた。
何かを自分のせいにする伊吹君が嫌い。自分を押し殺してる竜胆君が嫌い。
優しいから君達が嫌い。真っ直ぐだから君達が嫌い。その優しいで涙を苦しめた君達が憎い。僕にも温かい感情を向けてくる君達が鬱陶しい。
僕と涙の二人ぼっちを壊さないで、なんて。
僕と涙は、もう既に二人ぼっちではないのかもしれないけど。
涙、涙、君はどこに向かってるの。どこに行こうとしてるの。僕を置いてどこに行くの。
聞きたいのに聞けなくて、涙について伊吹君と話すことも嫌だから、僕は黙って玄関を開けた。
* * *
スマホに送信される地図を見ていた時、違和感はあった。ヤマイは路地裏を逃げてる報告だったのに、北区の戦闘員達の移動速度はやけに遅かったのだから。
見知った路地裏を先回りして、鞄からトンファーを出した伊吹君と戦闘員を挟む位置に着く。しかしそこに追われているヤマイの姿はなくて、リングダガーを持ったペストマスクが僕を見つめていた。彼の両サイドには鉤爪をつけた小柄な戦闘員と、十本の指先に尖った武器をつけた戦闘員がいる。
「あぁ、今日は流海が来たんだ」
リングダガーを回す戦闘員。彼の名前は知ってる。涙と路地裏で戦っていた嘉音だ。
あの雪の日、涙を連れ去って何かを話した悪者なんだ。
「螢、空牙、向こうの灰色は任せた」
「はい」
「分かりました」
嘉音の指示で瞬時に二人の戦闘員は上着を翻す。勢いよく伊吹君に飛び掛かる姿を見てクロスボウを構えれば、嘉音が僕の前に立ちはだかった。
「やっぱり分からないな」
呟く嘉音の声を拾ってしまう。伊吹君は視界の端で二人の戦闘員を相手取ってるけど、特に押されている雰囲気はなかった。いつもは律儀でよく分からない彼も、武器を持てば集中力が桁外れになるって嫌でも思い知らされる。
だから僕は嘉音にだけ集中し、本来ならば援護にこそ向いている武器を構え続けた。
「何が分からないの」
「涙が流海を大事に想う理由」
体が揺れる。
心臓が揺れる。
照準が、ズレる。
僕は奥歯を噛んで、ペストマスクの眉間にクロスボウを向け直した。
「流海にそれだけの価値があるのかな?」
「黙れよ」
嘉音の重心を見る。微かに右足主軸。
理解してクロスボウの引き金を引く。嘉音はすぐさま右足側へ躱すから、僕は一気に距離を詰めた。
左足でペストマスクの顎を蹴り飛ばす。しかし足には止められた感触しかなく、嘉音は右手で僕の足首を掴んでいた。
駄目だな、ここで引いたら負ける。
言い聞かせて対処する。どうすることが最善か、どう動くことが最適か、どう動けば僕は涙を心配させないか。
唯一地面に着いていた右足で蹴りを入れようとする。両足は完全に地面から離れ、嘉音は僕の左足を捨てて後退した。無茶な体勢での蹴りが入るだなんて最初から思ってないよ。
地面に着地する前にクロスボウを構え、嘉音に向かって引き金を引く。相手の重心は後ろ。ナイフは左手、下ろし気味。顔を狙った矢は、その左手で弾くんだろ。
想像した通り嘉音がリングダガーで矢を弾く。下にあった手を上げたから、左の脇腹に隙が出来る。
考えろ、考えて考えて、先を読んで動け。
着地した瞬間、転がっていた硝子瓶を拾って嘉音との距離を詰める。左わき腹が空いてることなんて本人も気づいてる。対処される。どういった方法でくる。
躱すには重心がブレてる。僕の体勢が低いから右手での対処は効率悪い。左足は少し浮いてる。下げる為の動作だから蹴りに変更するにも僕の方が速い。右足も一緒。後退の方法を取った時点で両足での対処は難しくなる。
見て、見て、見て、考えろ。
僕の観察する力は、涙を心配させない為に培ってきたんだから。
硝子瓶を叩き込んでも嘉音は左腕で妨害するだろう。そう動くことが最善で、それ以外の動きは全部ロスが多すぎるもんね。
想定しながら硝子瓶で嘉音の脇腹を殴る。彼は左肘で硝子瓶を砕いて殴打を止め、その左手にはリングダガーが無かった。
見る。
あぁ、コイツ、右手に持ち替えやがった。下ろした左手より、空いてる右手でナイフを持った。
捻じった上体ならリングダガーを振り下ろすのが最適だよね。分かった。
僕の左肩に向かって刃が迫る。僕は手に残った硝子瓶を掌で潰し、欠片ごと嘉音の右手首を掴んだ。
痛いか、刺さったか、抉れたか。
涙が我慢してきた痛みは、この程度ではないけどな。
クロスボウはまだ矢を装填し直せてないから撃てない。でも、本体だって結構重いから。
握った嘉音の右手を勢いよく下げ、欠片と一緒に手を開く。空気に触れた掌は痛んだけど、そんなの些細な痛みなんだ。
嘉音の体勢が崩れる。前に踏み出した足に体重をかけた僕は、クロスボウを鈍器に変えた。
激しく嘉音の顎を殴打する。見れば僕らの物より薄いペストマスクに亀裂が入ったから、畳みかける為にクロスボウで再度殴ろうと決めた。
「あ゛ー……ほんと、揃いも揃って」
嘉音の体勢は完全に崩れていた。
あ、けど、駄目だ。
理解して重心を無理やり後ろに移動させる。嘉音はそれでも両手で僕の後頭部を掴み、前傾の体勢を活用した。
場数が違うし、悔しいけど無傷は無理か。
息を止めて、予想できる痛み全てに耐えるよう集中する。
嘉音は僕の頭を下げて、額に膝蹴りを入れてきた。
皮膚が破けて視界が揺れる。帽子が落ちて呻きが漏れる。気持ち悪さは爪先まで一気に駆け抜け、両手の先が震えた。
あぁ、でも、でもさ。
この程度、僕が耐えられないと思うか。
息を吸って嘉音のヒビを見上げる。
真っ白に染まった寒い日。赤が散らばる雪景色の中で、涙の上に乗ってた男。
綺麗な涙を黒で覆ったペストマスク。
僕の涙を傷つけた、クソ野郎。
気づけば僕は、自分でも驚くほど低い声を発していた。
「ほんと、虫唾が走る」
離れる嘉音の足を両手で掴んで捻り上げる。関節を決めれば外せたかもしれないが、僕にはまだそこまでの技術が無いから。
目には目を。歯には歯を。暴力には、暴力を。
後ろに倒れた嘉音は即座に受け身を取る。僕は嘉音の体に乗り上げたが、それを待っていたようにリングダガーの切っ先が迫った。
それは、涙の印数を貫いた武器。
あぁ、僕も一緒が良いよ、涙。
クロスボウを捨てて、リングダガーの切っ先を左掌で受け止める。体重をかけて掌を貫かせれば、僕の口角は上がってしまった。
顔にかかる血飛沫も、嘉音に落ちる僕の血も、涙と同じになる為の糧であるならば愛おしい。
リングダガーと一緒に嘉音の手を握る。涙も同じ痛いを感じたのであれば、涙も同じ場所に傷があるのであれば、涙と僕を隔てる印数を貫いてくれたのであれば。
この痛みは、恍惚とした快感に昇華される。
「ありがとう、涙と同じにしてくれて」
お礼に嘉音のペストマスクを右手で殴る。握り込んだ掌は硝子片で切れているが、全く持って問題ない。
あぁ、涙、涙、涙、君はコイツに何を言われた? 何をされた? 全部教えて欲しい。全部、全部、僕の知らないことなんて無くして、前みたいに二人ぼっちになって、手を握って、寄り添い合って、痛みすらも分け合って!
僕の涙。僕だけの涙。僕だけの、大事な大事な、女の子。
何度だって想うよ。何度だって望むよ。
お願い涙、僕を置いて、遠くへ遠くへ行かないで。
「はは、可哀想だな、流海」
微かに割れたペストマスクから、嘉音の笑い声が零れる。
僕の体はアテナの空気を吸った日を思い出し、吐き気と眩暈と、震える関節の痛みを感じた。それらは既に終わった錯覚なのに、嘉音の言葉も相まって僕の暴力を止める。
僕の視線の先には、嘲る嘉音が倒れていた。
「何も教えられてない、守られてばかりの流海。不憫だな、哀れだな、あぁでも、なんでだろ。そんなお前を見て、俺は笑いが込み上げてるよ」
こめかみに青筋が浮かんだ自覚がある。
嘉音は貫いた僕の手を引き寄せて、ナイフを抜き、耳元に顔を近づけた。
「残念だろうけど――涙は俺のだよ」
切れる。
「涙は俺の獲物だ」
割ける。
「俺が涙を、殺すんだ」
血管が、理性が、感情が、引き千切れる。
バラバラに、無秩序に、滅茶苦茶に、乱雑に、感情が、感情が、感情がッ!!
コイツの口が、目が、耳が、心臓が、二度と機能しなくなればいい。その口で涙の名前を呟いて、その目で涙を見て、その耳で涙の声を聞いて、その心臓で動かした体を涙に近づけるんだから。止まれ、止まれ、全部止まって――死んじまえッ
嘉音のペストマスクを掴み、後頭部を地面に叩きつける。笑うような呻き声を無視してもう一度叩きつける。砕けろと、崩れろと、圧倒的な感情に背中を押されながら。
「――!!」
周りの音が聞こえない。何の音も、誰の声も届かない僕の腕は、体は、心は止まらない。
ここで殺す。この場で殺す。この害毒を、害虫を、害悪を、ここで潰す。
瞬間、僕の裂けた額に蹴りが入れられた。嘉音ではない。男はまだ僕の下にいる。
微かに意識が逸れた時には鳩尾に次の蹴りを入れられ、体が地面を滑った。それでも直ぐに立ち上がる。立ち上がらなければいけなかったから。
嘉音は割れたペストマスクを押さえて起きる。隣に立つのは鉤爪をつけた小柄なペストマスク。状況を判断する中で、微かに咳き込んだ嘉音の声だけが僕には届いた。
「やっぱり涙に比べても……弱いね、流海」
「ッこ、の!」
立ち上がった時、路地の向こうから飛び込む影を見る。
伊吹君を越えて、暗器をつけたペストマスクも超えて。
長いハンマーを握り締めて、鋭く振り被った――片割れちゃん。
「やぁ、涙」
振り返る嘉音と二人のペストマスクが同時に砂時計を逆さにする。体を砂に変えて、それでも涙はウォー・ハンマーを叩き落とした。
砂になった嘉音の体を鈍器がすり抜ける。涙は眉間に皺を寄せながらも口角を上げて、確かに笑顔を保持してた。
嘉音の腕が広がったように見える。黒が一歩を踏み出した気がする。
着地した涙を抱き込むように、覆うように、黒い砂が一瞬だけ舞い上がった。
喉の奥に吐き気が沸き上がる。これは血ではない。言葉にならない嫌悪で、怒気で、屈辱だ。
「ッ涙!」
消えた黒い砂の向こうへ走る。
立っていた涙は悔しそうな微笑を浮かべて、僕の方へ足を踏み出してくれた。
「流海」
両手を目一杯広げて涙を抱き締める。涙も思い切り抱き締めてくれた瞬間、僕らは揃ってしゃがみ込んだ。
暴れる僕の心臓と同様に、涙の早すぎる鼓動を聞く。僕は涙を閉じ込めるように抱き締めて、締め付けて、目を固く閉じた。
言葉が沢山溢れそうになって、泥のような感情が押し寄せる。掌から流れる血で涙を染めたくて、涙を汚したくて堪らなくなる。
「……怪我してるな、流海」
それでも、沈みそうな僕の意識を引き上げてくれるのも、いつも決まって涙なんだ。
「……ごめん、心配しないでって言っといて、信じてって、言ったくせに……ごめんなさい」
涙の腕が少しだけ震える。僕の服を掴んでいた掌は開かれて、僕の体温が一気に引いた。
離れないで、ここにいて、僕を置いて行かないで、僕の傍にいて、涙、涙、僕を残して、どこにも、どこにもッ
焦る内情に眩暈がした時、頭に柔らかく涙の手が乗る。もう一つの手は僕の背中を一定の速度で撫でるから、僕の視界は滲むんだ。
震える僕の耳に、あったかい涙の声が入ってくる。
「信じてたよ、大丈夫。流海はアテナの奴らなんかに負けないって、信じてた」
「るい、」
「謝るのは私の方だ。信じてるのに怖くてさ……駆けつけてごめんな、流海」
あぁ、涙、涙、僕の涙。
涙の華奢な体に縋りついて、肩口に顔を押し付けて、僕の体から力が抜けていく。
「空穂、来たのか」
「はい。伊吹……怪我を?」
「掠った程度だから平気だ。それより、追われてたヤマイが見当たらねぇんだけど知らねぇか?」
「それらしき人なら隣の通りで樒が対応しています。言葉が支離滅裂になるほど怯えていたので、恐らく彼らかと。怪我はありませんでした」
「そうか」
安堵するような伊吹君の声と、淡々とした涙の声に感情が綯い交ぜになっていく。
爛れた感情を押し殺した僕は、愛しい片割れの服に自分の血を染み込ませた。
誰にも渡さない。
***
次話は木曜日投稿予定です。
次回より涙ちゃん視点に戻ります。




