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53. 歪

 

 嘉音が私を連れて来たのは屋上の塔屋だった。扉を開ければ雪が静かに降り続けており、柊がいる場所からは対角線上である。


 嘉音は扉を後ろ手に閉めて軒下に立つ。螢と空牙は少しだけ歩き出し、新雪には二人だけの足跡が残っていった。


「……凄いね、空牙。言葉に出来ないけど、やっぱり凄い」


 螢が鉤爪をつけた右手を空に掲げ、声を弾ませながら雪を踏みしめる。空牙はその後を着いて歩き、肩に積もる雪に触れた。


「冷たいな、これ。軽いし、すぐ溶ける……あ? なんか手袋濡れた」


「わ、本当だ! 溶けたのはどうしてかな、こうして積もってるのは溶けてないのに、触ると溶ける? でも肩や帽子についてるものは溶けてないし」


「圧力の問題か? もしくは二番目に触れた物質に反応して溶けるとか……いや、時間って可能性もあるのか。降って直ぐなら溶けるけど、時間が経てば溶けにくくなるとか」


「それなら私達が踏んだ部分の状態が変化するのも頷けるね。見て、足跡の部分も水っぽくはなってるけど、溶け切ってない。これは空気と触れてる時間も何かあるのかな。だから――」


 しゃがんで自分達の足跡を観察している螢と空牙。二人から滲み出るのは好奇心と探求心に見えるのだが、それは私の勘違いだろうか。


「……第四条、学び続けなければならない」


 呟く私を嘉音が下ろす。靴下で踏んだタイルは冷たく、ギプスを嵌めた左足は浮かせておいた。嘉音は私の左手を掴み、上手い具合にバランスを取らせてくる。


「えらく親切ですね。第三条のせいですか?」


「親切を忘れてはならない……いいや、それはヤマイには適合されない」


「あぁ、汚染されますもんね。ならこの腕も離して下さい、汚れますよ?」


「とっくに汚されてるよ」


 言葉に反して、左手を握り締められる。


 私は自分の足を見下ろしてから、館内に消えた流海を想っていた。私のことに気づいているのかどうなのか。一体どうして、何も言わずに離れてしまったのか。


 流海、君は何を隠してる? 何を私に気づかせたくない?


 不安は払拭されないまま、私の中に残ってる。


「涙、君の正義は何?」


「……急になんですか」


 隣を見ればペストマスクは空を見上げている。私の視線は螢と空牙にも向き、彼らが「雪」を知らないと伝えてきた。


 私達にとっては当たり前の如く知っている物質。しかし彼らは知らないのだろう。


 双子を知らないように……母親を知らないように。


 アテナの夜を私は知らない。曇りも雨も知らない。


 私はアテナについて、何も知らない。


 アテナで生きる彼らについても同等に。


 まぁ、興味があるわけではないけどな。


 彼らは流海を苦しめる元凶の一団だ。それに情など湧きはしない。


「いいから、教えてよ」


 嘉音は私の正義を問うてくる。


 私の正義など、正しさなど、とうの昔から決まっているのに。


「私の正義は、どんなことがあっても流海を治す事です。どれだけ無茶だと言われても、どれだけ無理だと言われても、どれだけ他者に見放されても、私は流海を治してみせる。治す為の材料を見つけてみせる。大多数に望まれなくとも、私はあの子に生きて欲しいから。そして、あの子と一緒に幸せになるんです。元気になったあの子と一緒に、社会にどれだけうとまれようとも……幸せに、なるんです」


 瞼の裏に浮かんだ家がある。両親の笑顔と温かさのあった場所は、確かに幸せだったんだ。


 その幸せを壊した私が、幸せを望んでいいのかは知らないが。そんな資格はないかもしれないが。それでも私は、もう一度流海と幸せになる日を望んでる。


「流海との幸せって何?」


 嘉音が問いを深めてくる。私は曇り空を見上げて、夢に近い望みを口にした。


「あの子が自然と笑ってくれること。私が、笑わなくてもいいこと。それが私達の幸せです。ただ自然体で、ただ普通に、お互いの顔を見て歩いて行けたらそれでいい」


「その幸せは、酷く在り来たりだ」


「それでも、私達にとっては最大の幸福です」


 お前の幸せと私達の幸せは違うだろうよ。だから口を挟むな殺したがり。


 嘉音は聞こえるように息を吐いた。私にとっては、お前達はメディシンを得る為の駒であり障害物でしかないと言ってやろうかな。


 考えていれば、先に口を開いたのは嘉音だった。


「俺にとってヤマイは殺すのが正しいんだ。傷つけることが当たり前で、生きてることは正しくないから罰してる」


「そうですか、最低ですね」


 苛立つ私は嘉音を横目に、コイツの首はメディシン何日分だろうかと考えた。皇に聞いておけばよかった。戦闘員を一人殺せば、どれほどのメディシンが貰えるのか。今の私には戦闘能力が皆無なのだが。


 流石にギプスを嵌めた状態では戦いにくい。ウォー・ハンマーもないし、ナイフも未所持だ。間違えたな。


「今まで俺はヤマイと話したことなんて無かった。どうせ殺す相手に、ヤマイに話が通じるなんて思ってなかったからね」


「ならばさっさと殺してみなさいよ」


「君は()()()()()()()()()()()


「……はぁ?」


 いぶかしんだ自覚がある。嘉音は黒いペストマスクをこちらに向けて、嘴が近づいて来た。


 覗き込むように、観察するよに、男は私を見つめている。


 不意に腰に感じたのは凶器が触れる感覚だ。眼球だけ動かせば、リングダガーが私の腹部に添えられている。


「君は()()()()()()()()()()()()


 動きかけた嘉音のナイフを右手で止める。


 その間に嘉音は私の足を払い、背中から雪に向かって押し倒された。


 曇り空を背景に、嘉音は私の鳩尾に切っ先を当てている。コイツに馬乗りされる経験は二度目であるが、一度目と違って嘉音からの憎悪やあざけりを感じることが出来なかった。


 コイツの考えが分からない。嘉音は今、何を思って私に刃を向けている?


 いや待て、違う。今思うべきはそこではない。


 コイツはさっき何と言った。


 私が理性を捨てても戻って来たと、死ななかったと言わなかったか?


 体温が一気に失せて嘉音の首を掴む。布に隠された喉仏を掌で感じれば、嘉音は切っ先を腹部に少しだけ埋めてきた。


「嘉音、貴方達はヤマイに何をしてるんですか。理性を捨てさせるって言うのは、戻って来たって、まさかッ」


「知りたいならば取引だ」


 私の心臓がうるさく鳴り響く。体のポンプは慌ただしく血液を送り出し、指先を痙攣させた。


「ねぇ涙、流海はアテナの空気を吸ったんだよね。涙はそれを治す薬が欲しい」


 苛立ちが募っていく。嘉音が持つ刃は服を伝い、心臓の上に添えられた。


「俺達もアテナの空気を治す方法は知らない。俺達にとっては毒でも何でもないんだからね」


「人の期待を折りたいんですか」


「違うよ。俺が提案したいのは――薬に成り得るかもしれない情報を流してあげようかって話」


「……は?」


 意味が分からなくて目を丸くしてしまう。


 嘉音を見上げれば、黒いペストマスクも私の方を向いていた。


 コイツは今なんと言った。情報を流す? 流海の薬に成り得るかもしれない情報を? 殺したい殺したいと言っていた私に対して?


 疑問が溢れて言葉が出てこない。喉が張り付いたように息もしづらくなり、私の口は無様に開閉した。


「驚きすぎだよ」


「……い、みが分からないです。それは今までの貴方の否定ではないですか。私を殺したいのでしょう? 私達ヤマイを殺すのだと、浄化するのだと言っていたではないですか。貴方の覚悟はその程度なんですか? 貴方の信念は? 正義は? 貴方の刃はそんなに軽かったんですか」


 不信と疑念が混ざり合って、一種の落胆すらも滲み出る。


 嘉音の喉を掴んでいた手からは、微かに力が抜けてしまった。


「俺の正義は、正しくあることだ。アテナの七ヶ条を守り、違反を罰し、ヤマイを殲滅する。でもね、少しだけそれが分からなくなった」


「何を、」


「涙、正しさとは何だと思う」


 風が嘉音の上着を揺らしている。私は黒い上着に包まれて、白銀の世界から切り離された。


「俺はヤマイを殺すことを正しいと思ってる。でも、涙からすればそれは間違いなんだろ? おかしな話だ。こんなに会話が出来るのに、君は俺の正義を否定する」


「貴方の正義は、私の命を否定しているからです。ならば私も否定します。私達は、生きていたって良いんです。生きることを間違いだなんて認めないし、許しません」


 嘉音から目を逸らすことはしない。この男の正義に賛同などしない。否定して、否定して、私は私の正しさを押し通す。


 私は私の正しさを疑わない。流海を治す。流海を生かす。私はその為ならばどんな否定の言葉も、拒絶の態度も受け取らない。


 溜息を吐いた嘉音は「だから嫌なんだ」と呟いていた。


「……自分の正義を疑った俺は、身動きが取れなくなった。だから、動けるように君を利用したいんだ」


 嘉音の空いている手が私の首に触れる。マフラーの上から気道を押さえる姿勢だと察しがつき、私は奥歯を噛んでみた。


「このままだと俺は君を殺せない。理性を捨てても戻って来た君を、俺は殺したくて堪らないのに。戻った君を見た時、俺は最初に何と思った? まだ戦えると思ったんだ。まだ話が出来るってッ」


 嘉音の声に憤りが乗る。それは八つ当たりではないか。私が生きることにお前が怒ろうと何だろうと、私には関係ない。


 それに、気づいているか嘉音。今のお前はまるで――私が生きていたことに安堵しているではないか。


 私は掴む場所を嘉音の喉から手首に変え、苛立ちを込めて握り締めた。


「朧に抱いた疑念が貴方の正義を揺るがしたんですか。朝陽と夕陽が貴方に何か言ったんですか。他者に疑われたことが初めてでしたか。ヤマイと会話できるなんて知りませんでしたか!」


「あぁ、そうだよ。全部が俺をぐちゃぐちゃにする。正しくありたい俺を否定する。殲滅団(ニケ)の中に裏切り者がいるかもしれないことも、俺が疑われることも、涙と話してる俺も、俺の正義が否定する!」


「ならば貴方の正義はそこまでだ」


「いいや、俺は折れたりしない。涙が生きてると分かった時から、ずっと考え続けてるから。今度はどうやって傷つけようか、どうすれば君は死ぬだろうか。君の心も殺す為に、俺は何をすべきだろうか」


「貴方に私は殺せない。私以外のヤマイも、今の貴方は殺せない」


「俺は涙以外のヤマイを狙ってないよ。君が言ったんだから、目移りするなって。初めて会った時から君は俺の信念をへし折って、殺せると思ったのに生きていた。あぁ嫌になるな、死ぬと思ったヤマイが生きてるなんて夢見が悪くて吐きそうだ」


 嘉音の手が私の首を絞めていく。刃が私の服を貫き、素肌に冷たく触れてきた。


 それでも私は、嘉音から目を逸らさない。


「……やっぱり駄目だ。今も君の心は死んでない」


「心が折れなければ、私は何度でも生き返りますよ」


「あぁ、どこまでも嫌い、嫌いだ気持ち悪い。その目も言葉も、君は俺の知るヤマイの形を壊すばかりしてくるんだ」


 ナイフが私から離れていく。マフラーと気道を押さえていた手も離れていき、私の頭の方には螢と空牙も近づいた。


 黒いペストマスク達に覗き込まれる。まるで何かの宗教のように。さながら私は、生贄のように。


「だから涙、俺と取引をしよう。俺が再び動けるように、俺の正義を疑わないように、俺のヤマイ像を元に戻す為に。俺は涙にアテナの薬について情報を流してあげる、朧についても教えてあげる。だから代わりに、君はヤマイについて、アレスについて、君が所属する団体についての情報を頂戴」


 心臓が痛くなる。吐く息の白さが増して、喉が震えて、目を見開いて。


 嘉音は気づいているのだろうか。自分の言葉が矛盾だらけだと言うことに。


「そうすれば君は、生まれ育った全てを、流海の為だけに裏切った――悪者になる」


 嘉音が囁く。私に選択を迫ってくる。


「それでもいいよね。だって君は流海の為にアテナに来ているんだろう? それが君の正義だ。なら流海の為に裏切り者になってよ。流海の為に俺と取引してよ。そうすればヤマイであり、且つ仲間を裏切った君を、俺は悪としてもっと憎めるようになるんだから」


 それは歪んだ解決策。自分の考えを曲げて、曲げて、どうにか軌道修正しようとする足掻きにしか私には見えない。


 螢と空牙は黙って私を見下ろし続け、嘉音はナイフを振り上げた。


 左掌がリングダガーに貫かれる。


 突然のことに反応できなかった私は、呻き声を噛み締めた。


「俺に君を恨む機会を頂戴。もっと、もっと、出会った頃みたいに恨みつらみだけで君を見てたいんだ。殺したいんだ。だから俺に恨ませて、君を最低に見せて。俺と君は同等ではない。追い出された君達ヤマイと俺が対等な筈がない。なのに君は生き残るばかりする。俺の期待通りに死んでくれない。その心を折りたいのに、その体の機能を止めたいのに」


 刃は私の印数を貫いた。流れる血潮は雪を浸し、溶かし、汚していく。


「あぁ、涙、涙、涙、俺の為に――最低なヤマイになってよ」


 嘉音は私の手からリングダガーを抜く。滴る血液は赤色で、嘉音が流す血の色も同じだった筈だ。


「涙さん、私もヤマイについて知りたいんです。だから教えてくれませんか……嘉音さんとの取引に、応じてくれませんか?」


 螢の手が私の額に触れる。冷えて少し濡れた手袋は、私の前髪を撫でつけた。


「俺はアレスの事が知りたい。螢や嘉音さんが興味を頂いた原因を知りたい。俺の知りたい感情を解消させてくれ」


 空牙は私のマフラーを掴む。持ち上げられた端は脱力的に離されて、静かに雪に落ちていった。


 私の肺は凍り付き、自分の足元を砕かれそうな気分になる。


「……貴方達の、信念は……どこにあるんですか」


 心底分からなかった。目の前にいる三人が、一体どうして私に声をかけるのか。


 何を思って殺したいと思う対象に声を掛け、言葉を交わし、裏切れと言い、知りたいと見つめてくれるのか。


「私は正しき者を救いたいんです。今まではずっとアテナにいる人が正しいと思ってました。でもそれに自信がないんです。涙さんは私達からアムブロシアとかを盗っていきますけど、殺しはしないんです。生きたいだけだとも、救いたいのだとも言われます。だから私は、涙さんも正しいのではないかと思ってしまいました」


「俺は螢の監視ついでに、自分を知りたい。アテナで俺達は歩兵だ。アテナを清く保つ指針となり、目標を達成する為の戦士だ。でも、俺は俺を知りたい。歩兵でも戦士でもない俺がいる気がする。だから知りたい。アレスで生きるヤマイ達は、ヤマイ以外の者達は、俺に何か教えてくれる気がするから」


 黒いペストマスク達が私を見下ろす。


 凝視して、歪な取引を持ち出して、私の自由を奪っていく。


 凍えるような寒さに撫でられた私は、息苦しくも悟ってしまった。


 目の前のペストマスク達は、自分の正義のために――私が歪むことを望んでる、と。



正義の味方がいるならば、敵である悪も作らなくてはいけないから。


黒の彼らは少女に対し、自分達の悪になれと囁いた。


***

次話は月曜日に投稿予定です。


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