41. 揺
……朧から逃亡するという、唇を噛み締める行動を取らされて数分。私達は乳白色の洞窟に入り込んでいた。暗闇でも輝く洞窟内は目に悪く、私の苛立ちを助長する。
伊吹は私を膝に乗せたまま深い息を吐く。頭上で息を吐かれるのは余り良い気分がしないな。いや、全く良い気がしないなこの野郎。
「伊吹、肩を脱臼させられるのと足の健を痛めるのとではどちらをお望みですか」
「どちらも、望まねぇわ……馬鹿」
帽子のつばを上げて伊吹を見る。肩で息をしている男はペストマスクの額を撫でてくるから余計に苛立った。ド突き回すぞ。
文句を並べようと息を吸った時、私が喋るよりも早く体が引かれた。
胡坐をかいた伊吹の膝から引きずり下ろされる。そのまま背後から抱き締められるから、呼吸は落ち着いていった。自分で言うのも何だが現金な性格だ。
体の前で交差した流海の腕を見る。私の二の腕を握る片割れの手には力が込められて、背後にある空気は優しいものでは無かった。
あーぁ……。
「伊吹のせいで流海が怒ったではないですか」
「怒りたいのはこっちなんだが?」
伊吹が全身で呆れた空気を醸し出す。コイツとはやっぱり意見が合わねぇな。
流海は私の帽子を潰しながら頭に顎を乗せる。伊吹はペストマスクの額を押さえて頭を振った。私は視線を隣へ移動させ、頷き合っていた朝凪と竜胆を確認する。
弓と矢筒を抱えて座り込んだ朝凪。武器と共に自分を抱き締めるような仕草をする彼女は、眉を下げた表情でも浮かべているのだろうか。左前腕につけた盾は少しだけ傷ついている様子だ。
朝凪の隣で倒れている竜胆は同性を抱えて走る所業をやり遂げた。そのせいか現在は体全体で呼吸をしており、何やら頭も抱えている。流海はそんなに重くないだろと言いたかったが、衣装や武器の重さが加算されていると考え直した。
「流海君は、ともかく……涙さんはあの、朧に、会ったことあった、よね……? ぅえ……」
「確か、アテナに初めて来た日に……ですよね」
「それより前にありますよ」
「あるね」
「「最低の出会いだった」」
顔を上げた竜胆と、弱くイヤホンを繋いだ朝凪から視線を逸らす。流海の腕にはより力が籠もり、私も片割れの腕に手を添えた。
視界に入れたウォー・ハンマー。今まではペストマスクを砕く想像しか出来なかったが、今は違う。
あの黒髪の頭を砕いてしまおう。あの灰色の眼球が見開かれればいい。あのお綺麗な顔を血だらけにしてみせる。だから私はウォー・ハンマーを手に取ったのだ。
βを撃ち抜いた銃を砕けばお前の牙を削げるだろうか。お前は他にどんな牙を隠しているだろうか。全て砕くから曝け出せよ、私にとっての極悪人。
――涙が持ってるそのナイフ……持ち主の名前は――朧
あぁ、感謝するよ嘉音。お前が路地裏で教えてくれなければ、私は出会った朧と鳥頭を結び付けるには至らなかった。
なぁ、朧。お前は私達を覚えているか。私はお前を忘れねぇよ。いつまでも、いつまでも。お前は私達の敵であり、嘉音には裏切り者かもしれないと疑念を持たれてる。
体も心も殺してしまいたい。仲間も命も無くせばいい。
流海の腕を握り締める。そうすれば流海も私を抱き締めてくれるから、私の中には苛立ちと安堵が混ぜ込まれた。
「え、流海君、会ったことあるの?」
まだ息が整っていない竜胆が体を起こす。ペストマスクのせいで一度呼吸が乱れると長引くらしい。朝凪の隣に座り直した竜胆は少女の肩を摩っていた。それは朝凪を労わっているのか自分を落ち着かせているのかなんて、私が考える意味はないか。
私は流海に体重をかけて膝を抱える。私を足で囲い込んだ流海は顎を置き直していた。
「僕をアテナに連れ込んだのは朧だ」
イヤホンから流れる、塞ぐことの出来ない事実。伊吹達も流海の言葉を聞き逃すことは無く、洞窟内には張り詰めた静けさが瞬時に張り巡らされた。
流海の足が私の体を引き寄せる。まるで小さな箱の中に入れられたような感覚。その箱が流海であるならば大歓迎だ。
私は少し顎を上げて流海を見る。気づいた片割れは私のペストマスクに嘴を寄せてくれた。まるで動物の番が顔を擦り合わせるように。
「私達が路地裏で出会ったペストマスク」
「身勝手な生きたがり」
「それがあの男です」
「憎むべき奴だよ」
流海の手が私の肩に移動してより覆い被さってくる。そうしなければ走り出しそうな弟は、まるで私を楔にしているようだ。
朝凪は何か喋る動作をしようとしたが、言葉を選びきれなかったようにマスクを俯かせる。竜胆にも流海がアテナの空気を吸った理由は話していたため、出せる言葉が見つからないのだろう。
この二人は感情を直ぐに滲ませるから、その空気が私にまで伝染しそうで怖くなる。
「どうして連れ去ったペストマスクが朧だって知ってるんだ」
伊吹の声がイヤホンから流れてくる。男の声は先程と違って感情を見せず、ペストマスクのせいでその表情さえ分からなかった。
白いペストマスクの嘴は私達に向いている。その灰色の瞳も、きっと私達に向いている。
「……アテナの戦闘員が教えてくれたと言ったら、貴方は信じますか?」
流海の嘴を撫でながら伊吹に問いかける。微動打にしない男は一体何を考えているのか。流海ほど相手の起伏を読み取れない私では分かりかねてしまった。
「お前、アイツらと繋がってるのか」
伊吹の右手が動く。
だから私は左手を動かして、素早くウォー・ハンマーを伊吹に向けた。
相手の右手が握ったトンファー。立てられた膝は白い上着を靡かせ、爪先は私の方へ向いていた。
ハンマーの頭で伊吹のペストマスクに触れる。軽く顎を持ち上げてやれば男はトンファーを握り締めていた。
……へぇ。
「これは心外ですね。まるで人を裏切り者のように」
「はぐらかすなよ。余計に疑っちまうだろ」
「ちょ、朔夜君! 止めなよ!」
「涙さんもハンマーを下ろしてください! そんな、仲間内で!」
立ち上がった竜胆と朝凪を見ないまま、私を抱いていた腕が動く。
伊吹の額に矢が装填されたままのクロスボウが突き付けられた。
流海は私を引き寄せて、言葉を零すことはない。
「る、流海君まで! 止めてって!」
竜胆がクロスボウとトンファーを押さえ、朝凪はウォー・ハンマーを持った私の手を握る。
そこで気づいてしまう。朝凪の手袋が濡れているような感覚に。
私はハンマーを下ろさないまま朝凪に顔を向ける。
彼女の顔は伊吹に向かい、その声には怒気が乗っていた。
「伊吹さん、話も聞かずに涙さん達を疑うなんて許しませんよ!!」
マスクの壁を越えて響く朝凪の声。その無条件の信頼が、私の心臓を揺らしやがった。
だからこそ、だからこそ、だからこそ。
私の視線は彼女の腕に向かい、気づけばウォー・ハンマーを落としてしまう。
正面からでは分からなかった赤を見る。朝凪の左二の腕に滲んだ赤を知る。
小さくも確かな滲みを隠していたであろう彼女の右掌は、私が嫌いな色に染まっていた。
「朝凪」
彼女の左腕を掴んで流海から離れる。肩を震わせた朝凪も気づいたように後退したが、私はそれを許さなかった。
そこで初めて伊吹も気づいたのだろう。トンファーを下ろした男に合わせるように流海もクロスボウを引く。素早く移動した竜胆は私と朝凪の間に入りかけたが、私は歯牙にもかけなかった。
「見せてください」
「い、いや、涙さん、これは少し掠っただけで、ぁの、幸い傷も浅いんですよ」
「見せなさい」
「涙さん、いばらちゃんを怒らないで。この子は悪いことをしたわけじゃ、」
「黙ってください竜胆。私は朝凪に傷を見せてくださいと言ってるんですから」
「落ち着いてくれないと、いばらちゃんだって怖がるでしょ!」
「永愛! 大丈夫だから! 涙さんも、私は大丈夫なんです! ぁの、いつも涙さんが受けてる怪我とかに比べたら全然でしょ!? 痛みもそんなに、」
「黙って見せろ」
苛立ちながら竜胆を押しのけて朝凪を引き寄せる。見れば二の腕の裏側が切れて血が滲んでいた。袖が焼けるように切れているのを見るに、朧の銃弾か。それが痛くない筈ないだろ。掠めてる時点で幸いな訳がない。
幸いと言えるのは、服が大きく裂けていないから肌が晒されていないことだ。でも傷口には空気も触れただろう。アテナの空気は肌からも浸透すると柊は言っていたがそれはどの程度だ。この程度の怪我なら平気なのか。
私だって今まで怪我をしてきたが特に異変は起こってない。ならば朝凪の傷の範囲も平気か。いや、怪我をしている時点で平気の単語とはさよならすべきだ。
自分の上着の裾を踏んで短く破る。流石、けっこう力を入れないと破れない編み方をされてる。桜達の手間を増やしたな。帰ったら謝って、直さなくても良いと言うべきか。
「る、涙さ、」
「私の怪我と自分の怪我を比べて大丈夫だとか言わないでください。私は私、朝凪は朝凪だ。朝凪が痛いと感じたならばそれは痛いんですよ、馬鹿ですか」
彼女の細い二の腕を簡易的な包帯で縛る。苛立つのは、私が日頃受けている怪我と自分の怪我を彼女が比べた事だ。
どうして他人の尺度に自分の尺度を合わせようとするのか。人が耐えられる痛みなんて十人十色だろ。人が痛いと感じるものなんてその人にしかないだろ。
苛々しながら包帯をきつく縛ってやる。思った以上に朝凪の腕は細かった。小枝か、すぐ折れそう。失礼だろうか。
「……だって、涙さんはいつも、どんな怪我でも耐えているから、私もこの程度でそんな、」
「私の痛いに朝凪が合わせる必要なんてないでしょ。私が耐えられる範囲は私しか知らないし、朝凪が耐えられる範囲は朝凪しか知らないんです」
「で、でも!」
「これ以上ゴチャゴチャ言うなら左腕の血が止まるまで縛りますよ」
低くした声を張れば朝凪が勢いよく左腕を庇う仕草をする。竜胆も再び間に入って来たから、私は分かりやすく肩を落としておいた。少しだけ赤が付いた自分の手袋が視界に映る。
あぁ、まだこの苛立ちは治まらないらしい。
「……竜胆、朝凪が怪我をしたことに気づいていましたね」
「う……はい」
「おい永愛」
「違う、違うんです! 私が黙っててほしくてお願いしただけなんです!」
「でしょうね」
洞窟に入った時の二人を、息を吐きながら思い出す。頷き合ってたと思ったが、お互いの無事の確認ではなく怪我の黙秘の合図だなんて誰が気づける。くそ。
苛立ったまま呆れてもいる私は、思わず口から零れそうになった言葉を飲み込んだ。自分が浮かべた言葉に冷や汗をかき、指先が震えてしまう。
駄目だな、ほんと……毒されてる。滲んで、染みになってる。
どの面下げて、私はこの言葉を吐こうとしたんだよ。
「涙、材料を探しに行こう」
不意に私の体が持ち上げられ、足が反射的に自立した。私の腰を抱いた流海はウォー・ハンマーを渡してくれたから、お礼にマスクの嘴を合わせてやる。
「おい流海、空穂、話は終わってねぇぞ」
「僕達は裏切ってなんかないよ、伊吹君。ただアテナの中に裏切り者がいるって疑ってる奴がいて、情報交換を求められただけ。あ、実働部隊に関することは何も話してないから安心して。話したのは僕がアテナに連れて行かれた時の状況だけだよ」
「なんで相手がそんなこと知りたがる」
「僕がアテナに連れ込まれた事、こっちの戦闘員達は知らなかったみたいだからね。疑わしきは罰したいらしい」
「……なぁ流海、」
「今日はもう良いでしょ。僕は今凄く虫の居所が悪いんだ。これ以上尋問みたいな会話はしたくない」
冷たい流海の声が会話を止めさせ、強く腕を引かれる。流海は洞窟から出て腕時計を確認し、近くにある材料がγだと検討をつけた。
「る、流海君! 涙さん!」
「ありがとね竜胆君、運んでくれて」
流海は大股で進む。洞窟があったのは乳白色の岩山の裾で、他にも多くの穴が見受けられた。反対側には駆け抜けてきた水晶の林が広がっており、私と流海は裾に沿って歩いて行く。
「今日はγを取ったら終わりかな。とっても刺激的な初日だった」
イヤホンを介さないまま流海が喋る。少し声を張っているのだろうが、マスクのせいで聞き逃しそうな声量だ。
私は流海の横に立って耳をそばだてる。流海にだけ集中する。それが片割れの意図だと分かっているから。
「朧の顔も分かって良かったよ、大きな収穫だ」
片割れに身を寄せて耳を傾け続ける。弟は私の腕を握るばかりだから、手を握り返せないではないか。
「あの双子君はこれからどう動いてくれるのかな。勝手に自滅してくれたら嬉しいよね」
流海の大きな一歩は私の二歩である。その埋められない差を小走りになることで埋めようとして、自分達の違いに嫌気がさしそうだった。
――お母さんって、なに?
泡のように浮かんできたのは「朝陽」と「夕陽」の言葉。「ふたご」を知らない双子は、ならばどうやって生まれたのだろうか。
君達のお母さんはどんな人だった? どんな声で名前を呼んでくれた?
私は流海を見上げて、ペストマスクに守られた顔は年々父に似ていくと感じていた。
「流海」
それでも父と流海を重ねることなどしない。流海は私の片割れで、残された唯一なのだから、と。
歩調を落とした流海はペストマスクを私に向けてくれた。
「大好きだよ。私は流海が、流海だけが大好きだ」
流海の指先が震える。
片割れは顔を歪めた気がする。
泣きたいのを我慢するような顔をした気がする。
私はウォー・ハンマーを肩に担ぎ、握られている腕を上げてみた。
「だから手を繋ぎ直しても良いか? これだと一方的すぎて、私が寂しい」
「……僕も寂しい」
ギリギリ聞き取れた流海の声に笑ってしまう。片割れはきちんと私と手を繋ぎ直し、軽く揺らした。大変可愛い満点。
「……寂しいよ」
私の肩に額を乗せた流海を見る。小さな寂しいの意味を汲み取りながら。
目を伏せた私は流海の首元に頭を預けて、脳裏に浮かんだ子達を振り払った。
「涙さん! 流海君!」
それでも、耳に直接流れる声までは振り払えないから。
また私の指先が震えてしまう。流海に伝わってしまう。
これ以上、私達を掻き乱さないでほしいのに。
「置いて行かないでください!」
袖を引かれるから見てしまう。流海の肩口から顔を上げて。
そこには朝凪と竜胆がいるから、私は少しだけ後ずさってしまった。
「逃げられるのも、嫌です」
袖がきつく握り直される。
朝凪の両手は私を固く捕まえて、竜胆は流海の腕を持っていた。
「……さっきは悪かったよ、先走って」
伊吹がアルアミラに隠れた項を撫でる仕草をする。居心地悪そうにマイクを繋ぐ男は、どうしてそうも律儀なのか。
「疑わしいと思うならば、近づかなくて良いですよ」
「僕達が疑われることをしたのは事実なんだから」
「疑わしいならばもっと知るべきだろ……って、永愛と朝凪に言われた」
「俺達は背中を押しただけ」
「これ以上、置いていかれるのは困りますから」
私は流海の手を握る。流海はそれ以上の力で私の手を握り締める。
目の前にいる三人はどうして私と流海を気にかけてくれるのか。
気持ちは分らないまま、それでも表情は予想できるから嫌になる。
竜胆はきっと苦笑してる。朝凪だって困ったように笑っている。笑い声だって浮かべてしまう。
あぁ、失敗した。失敗したな……失敗したよ。
私のヤマイは、私にも周りにも優しくない。優しいヤマイなんて存在しない。憎らしいだけで、私の首を絞めていく。
笑顔を想像してしまった私は――岩山に亀裂が入る音を聞いていた。
染まることを恐れる彼女に、想像の笑顔すら牙をむく。
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次話投稿は木曜日を予定しています。
日々のPVやブックマークに感謝しかございません。
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