118. 憂
「――って、ことを今してるんですよね」
「危ないから今すぐやめなさい」
「いやー無理っすねー」
流暢な皇の説明に対し、柘榴先生はこれでもかというほど怪訝な顔をした。やはり私達の夢は大人からすれば無謀らしい。
柘榴先生は両手の中で薬を握り締め、眉間に皺を寄せた。
「アテナへの干渉もアレスへの反乱も、危険極まりないだろう。やめなさい」
「危険がないとやり遂げられませんよ。ほら、双子姉も危険と引き換えにその薬を貰ってきたらしいじゃないですか」
皇の指が薬を叩く。柘榴先生の顔にはより険しさが募り、彼女しか見ていない金髪は笑ったようだ。
「空気的に、霧崎さんは双子姉を受け止めたんでしょ? だったら俺達の作戦も受け止めて応援してくださいよ」
「涙の話と今の作戦には大きな違いがあるよ。私が事前に知ったかどうかだ。涙の行動だって事前に知っていれば止めたし叱ったね」
「事後だったら止めないと?」
「止めようがないだろう。その過程にすら気づかなかった者に後からとやかく言う資格はないと私は思っているしね。だが今は違う。先に危険なことをすると知ったんだ。ならば止めるだろう」
「えー、これ、俺が話したの失敗ってやつか」
赤い瞳が私と伊吹に向けられる。失敗も何も、説明すれば柘榴先生の心労や危惧が増えることくらい予想できただろうに。止めなかった私達にも非はあるけどさ。
伊吹は頭を掻き、私は肩を脱力させた。
「どんな返事を予想してたんすか」
「頑張れって感じの応援」
「言い難いね」
「きぃーりさーきさーん」
皇が不服そうに語尾を伸ばす。その態度はいつも通りの筈なのに、少しだけ緊張しているようにも取れてしまった。流海がいれば皇の心境も読めたのだろうが、残念ながら私の観察力はその域まで達していない。
私は、胸を叩く流海を思い出した。
あの子の為に私は走れた。残り時間は柘榴先生が守ってくれる。バトンは繋いだ。どうかと願って、辿り着いた。
柘榴先生は難しい顔をしたまま皇を見ていた。
「パナケイアの第一支部は各支部の支部長レベルしか入る事は許されてない筈だよ。そんな所に行けるのは確かに桜と柊くらいだろうが、簡単に掌握だって出来ないだろう。他の支部が崩れても代えが効くけど、第一支部だけは例外だからね」
「そんな重要な所なんすか」
「重要だね。アテナの本部のような場所さ。全国のヤマイの情報が集まっているだろし、実働部隊のライオスや砂時計を発案したのも第一支部だよ」
「砂時計の、発案を?」
思い出したのは殲滅団が祈っていた巨大な砂時計。桜はヤマイを囲う場所のヒントとして砂時計の仕組みに目をつけているようだが、先に核心に迫るのも桜ではなかろうか。
異世界へ渡れる砂時計。アテナとアレスを混ぜる代物。
砂時計が象徴する事柄は、なんだったっけ。
「柘榴先生は砂時計の構造などについて知っているんですか? どうしてアテナとアレスを行き来できるのか、とか」
「いや、原理も構造も私は知らない。砂時計の製造はすべて第一支部に一括されているからね」
顎に手を添えた先生は教えてくれる。研究員の目になっている彼女はとても凛とした横顔をしている。
「アテナとアレスがかつて一つだった。本部について、殲滅団について……恐らくだが、全てを知っているのは極一部だろうね。私は何も聞かされていないし、資料のなかでも見たことがない。涙に教えてもらわないと知らないままだったと思うよ」
先生が薬を見下ろす。その声には哀愁が乗っている気がしてならないな。気にしないでよ先生。私が勝手にしたことなんだから。
顔を上げた先生はあっけらかんと言ってみせた。
「だがまぁ、私は外れ者だったからね。パナケイアに地下があることも知らなかったんだ。もしかしたら、他の職員達は何かしら知っていたのかもしれない」
柘榴先生は呟く。「もう確認もできないけどね」と。
私は柘榴先生を見つめて、皇は椅子から立ち上がっていた。
「別にいーじゃないですか。知らないことは悪いことじゃないですし、どーせ猫柳さんだって知らなかったんでしょうし」
「それは励ましかな?」
「さぁ、どーでしょ」
「……ありがとう、皇」
柘榴先生が皇だけに柔らかく笑う。私は自分に向けられた笑顔ではないと知りながら、その笑顔が一度でも自分に向いたことはないのだと目を伏せた。
先生達が人に笑う姿は見たことがある。流海にはいつも笑っているからね。
その笑顔は私に向かない。私にだけは、決して向けられない。
当たり前のことを再確認していれば、皇が黙って項を掻く。私には男の後頭部しか見えないが、空気がどことなく居心地悪そうだ。
「……つーわけで、俺がさっき話した内容も知らないことにしといてくださいよ」
「それは出来ないね。皇も、伊吹も、涙も。危ないからやめなさい」
「しかし先生、このままだとヤマイは虐げられるだけですよ」
「そうかもしれない。でも、君達子どもが背負うべきことではないだろう」
「背負ってくれる大人がいないから、俺達が背負うんです」
おい、その言い方は、
思った瞬間に私は伊吹の腕を叩き、灰色は「あ゛」と顔に冷や汗を浮かべた。柘榴先生の黒い目を見る。口を少しだけ開閉させた先生は、眉を八の字に下げてしまった。
「すみません霧崎さん、言い方が悪かったです」
「柘榴先生に背負えと言っているわけではないんですよ。断じて。ただ、誰も救ってくれないなら、自分達で藻掻くしかないというか……けっきょく私達は、自分達に都合のいいハッピーエンドが欲しいんです」
「だから俺達は、無謀なこともやりたいんです。第一支部にも行きますし、噂だって流します。殲滅団にも話に行きますし、神殺しだって考えるんです」
真面目な伊吹が一歩だけ私の前に立つ。私は灰色の髪を見上げ、柘榴先生は苦虫を噛み潰したような顔になっていた。つられるように私の表情まで歪んでしまう。
心配しなくていいよ、なんて言えない。柘榴先生が目覚めるのを待つ間、私は気が気ではなかったのだから。あんな思いをこの人にさせようとしているのだと思うと、強く出られない自分がいる。
だから私は挿げ替えたい。柘榴先生が気にかけるべきは、こちらではないのだと。
「お願いします、柘榴先生。先生は、流海のことだけ、薬のことだけ、考えてくれたら大丈夫ですから。私達の方はちゃんと、しますから」
「どちらも考えるよ。流海のことも、涙達のことも」
柘榴先生が机に薬を置く。私はそれ以上何も言葉がなく、少しだけ顎を引いた。
「……私は無力なヘルスだ。君達のように痛みに耐える強さも、孤高で努力できる器量もない。だから心配だけはさせてくれ。いつまでも待たせてくれ。支えさせてくれ。それしか私には出来ないんだから」
立ち上がりそうだと思った。まだ歩けない柘榴先生が、ベッドから。
だから私は先生に近づいて、点滴の繋がった腕に触れた。
黒い目と視線が絡む。その表情の機微を見て、私は咄嗟に目を閉じた。
柘榴先生の手が背中に回って、私の膝がゆっくり折れる。
私を抱きしめてくれた腕は片腕だけ。もう片腕は金髪に触れていると知って、私は先生の袖に指をかけた。
「勝手に決めて、勝手に危ないことをして。全てが良い方向に転がるかなんて分からないのに……仕方がない子達。日頃我慢ばかりしている君達の夢を、私が止められるはずもないと気づいているのに」
柘榴先生の腕が震えた。無茶なことをする私達が止まらないと、聡明な先生は気づいているから。どれだけ説得されようと、走り始めた私達は止められない。
「約束してくれ。涙も、皇も、伊吹も。他の子達もだ。決して死なないと、自分を大切にすると……約束してくれ。いつでもやめていいから。アレスの大人から、私と猫柳が守るから。何が何でも、守るから」
肩に埋まった柘榴先生の頭。彼女の背中が言っていた。私は無力だ、と。
無力ほど歯がゆいことはない。力が欲しいと思っても、勇気が欲しいと思っても、それは一日やそこらで身につくものではないのだから。
私は柘榴先生の背中に手を回し、皇が一番に答えていた。
「死なねぇし、俺はいつでも自分本位ですよ」
「私も、死にません。先生達が守ってくれるなら、それだけで勇気になります」
「……約束します。心配してくれて、ありがとうございます」
柘榴先生が唇を噛む音がする。
私は外に広がる薄い雨雲を見て、それでもここは寒くないと安堵した。
* * *
――桜がしようとしていることは資金提供の停止だね。それは言葉にする以上にパナケイアにとっては痛手だろう
柘榴先生の言葉を思い出しながら帰路につく。パナケイアに勤めていた人の意見は大いに参考になることだ。
――もちろん他の資金源だって存在するが、その中でも桜家が占める割合も力加減も大きい。もしそれが成功すれば物理的に威力のある反撃だろうね
私達は路地裏を隠れるように歩く。皇には「俺達はネズミか?」などと茶々を入れられたが無視だ。こちとら何年も路地裏通行してんだよ。
――パナケイアが桜に虚を突かれた時、ヤマイからの義憤が上がれば精神的に影響の強い批判にもなる。比率は少ないとは言え、ヤマイの声が揃うことは流石に無視されなくなるからね。そこで、私みたいにヤマイを分かっているヘルスも加勢してくれると尚いいんだが……
柘榴先生はPCを見て、棗達の噂を発見したらしい。
パナケイアがヤマイを使って実験していること。
マッキを誘発させられること。
言葉が少ないだけ現実味が増す。
マッキの文字に反応しないヤマイはない。
私達も確認したが、半日で噂は広がっている様子だった。文字から文字へ。人から人へ。ネットから口へ。
パナケイアも気づけば削除に動くだろうけど、それより噂の足は速い。一度ネットに出た以上、完全削除はできないよ。
――噂は良い手だ。子どもだけでなく大人も見る。そしてヤマイを患った大人は、強いよ。ヘルスなんかよりもずっと。人の痛みを知って、どうにも出来ない環境を知って、息苦しさの中で生きているだろうから。水を得た魚になるかもしれない
柘榴先生が握ってくれた手はまだ温かい。早く元気になってねと、私はちゃんと笑えたかな。
――大人はヘルスだけじゃない。ヤマイだって勿論いる。だから頼りなさい。彼らは等しく優しいから。パナケイアにいる間、見てきたヤマイはみんな下を向いていたけど、誰かを下に見る人はいなかった
噂を見て足が軽くなる。私達だけではない。アレスにいるヤマイは、私達だけではない。
その後押しがされている気がして、もっともっと酷い事実が広がればいいと願っていた。
不安よ募れ。怒りよ燃えろ。義憤よ積もれ。不満よ弾けろ。
「壊れろ、世界」
願った背後で皇が笑った気がする。伊吹は黙ってスマホを仕舞い、私は路地裏に現れた気配に足を止めた。
二つ隣。呼吸が荒い。血の匂い。
「どうした? 涙」
「……先に帰っててくれますか。少し気になることがあるので」
伊吹に伝えて曲がる予定のなかった角に入る。そうすれば伊吹も皇も着いてきたので、私はよくわからない表情になってしまった。
「先に帰れと……」
「馬鹿、一人でどっか行くな。何が気になったかちゃんと言え」
「そーいうこった」
伊吹に額を小突かれる。かと思えば皇に肩を組まれたので、私は分かりやすく溜息を吐いた。別に、さして重要な事ではないと思いたいんだけど。
「気配が急に増えたと思ったんです。殲滅団かと思ったので覗きに」
「丸腰でか?」
「まぁ。路地なら武器になりえる物の一つや二つあるかと」
「その猪突猛進どうにかしろ?」
「……はぁ」
伊吹に軽くお小言を貰う間に辿り着く。気を取り直した私は路地を覗き、そこに倒れる黒と白を見つけた。
黒いペストマスクをつけているのは二人。浅い呼吸を繰り返しながら、汚れた路地に仲間を放っている。
倒れているのは四人の白い殲滅団。手当てをされた彼ら――嘉音達は、ペストマスクをつけていなかった。
「「あ、」」
「いた……」
「会えた……」
ペストマスク達から安堵の籠った声がする。私は確認がてら膝をつき、何の気なしに問いかけてみた。
「その声、朝陽と夕陽でしょうか?」
二人のペストマスクが同時に頷く。私は緩く首を傾け、散漫な動きで壁に凭れた朧に視線を向けた。なんだ、意識あるのかよ。苦しんでるか? 苦しんどけよ。盛大に苦しめ鳥頭が。
私の呪い虚しく、綺麗な顔の男はゆっくり目を開ける。朧は数度咳をしたが呼吸は出来ており、その目は暗い灰色に染まっていた。
端正な顔がこちらを見て、私の姿を確認する。かと思えば驚愕に目を見開いたようなので、私は傷だらけの足を見下ろした。
……あ。
なんとなく察した私は耳を塞ぎ、掠れた朧の悲鳴を聞いた。
「足ッ!!」
……ぅるせぇ。
丁度いい。
汚れたお前達も駒になれ。
***
次話は金曜日に投稿します。




