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103. 温

 

「着いたぞ」


 揺れる微睡みの中に声が降ってくる。呻きながら瞼を開ければ、息をついている柊が車の扉を開けていた。


 後頭部座席の私達は寝ぼけ眼で顔を上げ、鉛のように重たくなった体を引きずり歩く。柊曰く、桜の両親はパナケイアの本部に出張中であり、使用人達も既に床に入っているらしい。桜と柊を待たないのな、という質問は飲み込んだ。そこに触れたら駄目な気がする。


 桜邸の裏口から静かに入れば、軽快な足取りの棗に出迎えられた。


「やぁやぁみんな、お疲れ様! 小夜ちゃんも一緒だとは驚いたけどね」


「走っちゃいました」


「走っちゃったかー。偉い!」


 棗が小夜に笑いかける。動き回る少女の手は灰色の頭を撫でて、私も流海も揃って目を逸らした。いつ誰が、どんな顔をしてもいいように。どんな表情も、自分には向いていないのだと思う為に。


「皇さん以外が揃った所で、ちょっとした会議がしたい……と言いたいけど、みんなお風呂が先かなって小梅ちゃんが言ってたよ」


「それは有難いです……」


 目が上手く開かない朝凪が、無意識のように髪を触っている。濡れて汗をかいて戦ってと、私達の見た目は人様に見せられたものでは無い。


「いばらちゃん達、先にどうぞ、俺達荷物置いたりしてるから」


「同時に入れるぞ。浴室は二つある」


 竜胆の厚意を柊が真横から突き飛ばす。庶民派である私達は黙って柊に視線を向けて、後方では棗が膝を叩いて笑っている気がした。既に彼女は風呂を体験済みらしい。浴室が二つあるってなんだ?


 疑問符を飛ばす私達は、棗と別れ、柊に着いて廊下を進む。そうすれば本当に二つの脱衣所を教えられ、疑問符は余計に増えた。


 ちなみに二つの浴室の違いは温泉を引いているかどうからしい。温泉を引くってなんだ。分からねぇな。


「女の子達で温泉の方どうぞ」


「それは、ありがとうございます」


 再び竜胆から厚意を貰い、私と朝凪、小夜はよく分からないまま脱衣所に足を踏み入れる。脱衣所の内装にも「ここはホテルか?」と錯覚したが口にはしなかった。桜邸では余計なことを口走るなと柊に猛獣扱いされたからな。私は人間なので黙るぞ。しかしこれだけは言わせてくれ。


「自宅に温泉って、」


「涙さん」


 まだ何も言ってない。


 私は口を結んで朝凪から目を逸らす。小夜は楽しそうな雰囲気で服を脱ぎ始めた。笑顔を我慢させているのは自覚している。はしゃぎたそうだもの。大丈夫だよ、見ないから。


「小夜、笑っていいですよ」


「駄目です。これは私が決めた事なんですから~」


 目から包帯を外した少女は、瞼を下ろしたまま口を真横に伸ばす。私はそれ以上なにも言えなくなり、「そうですか」の呟きで全部を飲み込んだ。


 汚れた白装束を脱いだところで、伊吹の服をどこにやったっけと思い出す。私、持って帰ったっけ。


「朝凪、着替えた服ってどうしました?」


「あ、それなら柊君が来た時に永愛が回収してくれましたよ。永愛や伊吹さんも服を着替えてたので、その時に準備した袋に、こう、ぽいって」


 ジェスチャーする朝凪を見て、蜂蜜色の目を思い出す。やっぱり、彼は人知らぬ所で動く器量があるのだなと感心しながら。


 伊吹にいつ服を返そうかとか、この後の会議って何かなとか、嘉音達はどうしたのかとか……先生達は無事に病院に着いたかな、とか。


 色々考えながら体中を洗う。時々怪我に引っかかって痺れたが、その辺は慣れだ。


 ぐるぐると回る思考に疲れが増長される。頭から熱いシャワーを被った私は、よく分からない広さの浴槽に浸かった。ほんとに温泉だ。


「あったかいですねぇ~……」


「ですね……寝そうです」


「私もです……」


 隣で顎まで浸かった小夜は、綺麗な瞼を閉じて蕩けそうになっている。反対に浸かっている朝凪は髪の毛を気にしているようで、私は視線を向けた。濡れても貴方は綺麗ですよ。水も滴るイイ女、的な。いま伝えると言わせたように感じさせる気がしたので、黙っておくけど。


 傷だらけの腕を見て、新しい傷にお湯が染みた。


 ……あぁ、そうだ。


「朝凪、今日はありがとうございました。地下に落ちかけた時、少し焦っていたんです。貴方が来てくれて良かった」


 思い出して、お礼を告げる。


「小夜も、武器を持ってきてくれてありがとうございました。よく分かりましたね」


「えへへ、前お兄ちゃんが涙さんの家行った時、住所とか聞いてたので」


 小夜が隣で満足気な空気を醸し出す。少女の行動力に感心した私は頷きを返し、掬ったお湯で顔を洗った。生き返る……。


 浴槽の縁に後頭部を乗せる。瞼を下ろせば眠りそうなので、綺麗な天上のタイル目でも数えようか。いや、長風呂しないが一番か……。


 微睡みそうになっていれば、隣から雫の落ちる音がした。見れば朝凪の頬から、お湯か、違うものか分からない雫が落ちている。


「……元気ですか、朝凪」


「はぃ、はい……元気です」


「ならよかった」


 それ以上の言葉を私は知らない。だから私は天井のタイル目を見つめて、体を温めることに集中した。


 * * *


「鎖、切れて良かったね」


「チェーンクリッパーを貸してもらえたから」


 脱衣所から三人揃って出ると、ちょうど流海達と合流する。流海と竜胆は満足そうな顔つきで、伊吹は一足先に柊達へパナケイアでの報告に行ったらしい。あいつは休むってことを知らないのだろうか。


 灰色を思い出しつつ、片割れと髪を拭き合う。互いの短髪を丁寧にタオルで叩けば、無表情の流海がタオル生地と黒髪の向こうにいた。笑う私の髪を拭いてくれる片割れから鎖の音はしない。それはとても、良いことだね。


「ここが桜邸か。驚いたなぁ」


「桜曰く、広いから迷子にならないようにだって」


「なるほど、涙と手を離さなければ良いと」


「そういうこと」


 互いの頭からタオルを下ろし、脱衣所の洗濯機に放り込ませてもらう。身に纏ったのは、こちらの洗濯機で高速洗濯・脱水された白装束だ。そのせいで完全に気が休まることはないが、血だらけの服を纏っているより何倍もマシである。


 気を取り直した私達は、伊吹達がいるという部屋に向かおうとする。


 その時、不意に竜胆のスマホが鳴った。


「え……あ、」


 スマホを出した竜胆は目を丸くし、私に差し出してくる。何事かと思って受け取れば、画面には〈樒さん〉の文字が映されていた。


 私と流海の指先が震える。


 あぁ、これは……これは。


 流海の指が通話を押し、私の指はスピーカーボタンに触れる。


 端末の向こうからは、息をつく皇の声がした。


「お、出たか永愛。無事か? そこに双子いるか?」


「無事ですし、双子が出てますよ。今は桜の家に来ています」


「なんだ、気にかけ損だな」


 皇の言葉に対して、私と流海は問いを出せない。聞きたいことは沢山あるのに、それに対する返答が、恐ろしくて。


 息が震えて、スマホを握り締めてしまう。口を開けない私と流海を、朝凪達が心配する空気が伝わった。


 柘榴先生……猫先生。


 何を聞こう、第一声は、何から問えば、二人は、二人は……二人は?


「安心しろよ」


 固まりそうだった思考に皇の声が響く。瞼を開けば、笑ったような男の声がスピーカーから届けられた。


「霧崎さんはちゃんと病院に連れてった。猫柳さんは引き渡せばパナケイアが来ると思ったからな、俺の家に連れてきて寝かせてるぜー」


 弾んだような皇の声が続ける。「俺を褒めろよ」なんて。


 私の視界は滲んで、流海が震える声を発した。


「柘榴先生、助かるの? 猫先生も……?」


「霧崎さんはだいぶ危なかったらしいが、処置は終わってるぜ。応急手当が良かったんだとよ。猫柳さんは知らん。今は人のベッド占領して寝てるだけだしな。包帯とか買って出来る限り手当はしたが、ヤマイの症状は引かねぇな」


「それだけ聞ければ、いまは、じゅうぶんです」


 揺れた声で返答し、膝から少し力が抜ける。


 私は流海と一緒にしゃがみ込み、両目から溢れた泪に笑ってしまった。泪は枯れないものなんだな、なんて。


 笑えてくる、笑えてしまう、笑ってしまう。


 あぁ、あぁ、柘榴先生、猫先生、先生、先生……先生。


「「よかった……」」


 片割れとこめかみを寄せ合って、肩を抱いて、スマホに雫を落とす。隣には小夜や朝凪、竜胆が一緒に膝を着いて、背中を摩ってくれた。


 温かさが染みて、染み込んで、泪が止まらなくなる。これは今日流した中でも、一番温かい泪だと理解しながら。


 少し間を取った皇は、笑うような声を響かせた。


「安心しろっつったけど、今だけだぞ。これからやること、話すことは沢山あるんだ。俺は取り敢えず霧崎さんの連絡係になってやる」


「それは有難いです。貴方にとっても、得する役割ですね」


「おーおー好きに言っとけ。永愛、後で双子に俺の連絡先教えとけよ。いちいちお前を間に挟んでても面倒だしな」


「はい、分かりました」


 全員の声が弾んでしまう。これは、この場の全員が同じ心境であると伝えるようで、私の泪も笑みも止まらなかった。


 柘榴先生、早く治しましょうね。早く、元気になりましょうね。


 猫先生、助かりましょうね。ちゃんと、治す方法を探しましょうね。


 思って、想って、浅くなる息すら堪らなくなる。


 また四人で話がしたいと思って、叱って欲しいと思って。


「「ありがとう」」


 私と流海は、溢れる感情を乗せて皇に伝えた。


 そうすれば男は、仕方がなさそうに息をつくんだ。


「お前らの為じゃねぇよ。これは俺の為だ」


 男は「じゃぁまたな」と残して通話を切る。


 流海はスマホを拭いて竜胆に返し、私は自分の目元を押さえることで精一杯だった。


 擦ってはいけない、赤くなるから。

 膝をつき続けてはいけない、時間は止まってくれないから。


 大事な人が、今は無事だと分かったのだから。


 泪を止めた私は流海と一緒に立ち上がる。朝凪達に感謝を伝えて。三人は何も言わずに首を横に振り、私は濡れた頬を指先で拭った。


 安心できた、息がより出来るようになった。


 だから、私はまだ考えられる。


 気持ちを切り替えて向かったのは、昼間に通された大広間。五人揃って扉を開けると、室内の机には新しい資料が積まれていた。待っていたのは桜と棗、椿、柊、伊吹の五人である。


「皆様、お疲れ様でございます。パナケイアでのあらましはお伺いしましたわ」


「そうですか。そちらは何を?」


「パナケイアと、今後について模索中」


 椿は眠たげな声で資料を振った。夜こそ彼の活動時間とも言えるが、眠り続ける男は起きていること事態が眠たいらしい。


 頷く私達は長机に近づく。対面には柊、桜、椿、立ち続ける棗。桜に促された柊も席に着き、対面に私達は腰かけた。竜胆、朝凪、私、流海、小夜、伊吹の順に。武器を立てかけて。時間は既に深夜に差し掛かっている。


「何か収穫はありました?」


「パナケイアの創立話なんてどうかな」


 棗が資料を指先で叩く。その顔は無表情であり、流海は瞼を下ろしていた。だから私が、全員の表情を見つめている。


「それは興味深いですね」


 思わず答えれば、部屋の空気の緊張感が増す。私の指は机を一度叩き、棗は桜を確認した。


 桜髪の少女は手元の資料に視線を落とし、感情の読めない顔をする。


「パナケイアの創立目的、それは――アテナに戻ることでしたわ」


 語られる言葉に心臓が痛く脈打つ。


「これは童話にもならない話でございます」


 ――……ヤマイ、が、ヤマイ、さぇ、いなければ……ヘルスは、ぁの、せかぃに、アテ、ナに、もどれ、る……んだ


 あぁ、辻褄が、合っていくんだな。


 確信して、口を結ぶ。知る筈のなかったことを知っていく。


 そうして、私達の作戦会議は始まった。

体も心も温めた。


***

次話は火曜日に投稿予定です。



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