101. 躇
喉が締まるような音を聞く。
顔を押さえた嘉音が後ずさる。
ペストマスクの破片を踏んだ私は、自分が見ている光景が信じられなかった。
「嘉音さん!」
「空気がッ」
螢と空牙が走りかけ、その先を朝凪と竜胆が遮る。黒い二人は戸惑ったように武器を構え、朧は嘉音を見つめていた。
「嘉音」
朧の声に心配はない。ただ相手の状況を確認するような、不思議な声色。まるで、平気だと思っているような、そんな声。
私には嘉音の黒い瞳が焼き付いており、次の一手を振り被ることが出来なかった。
これは、きっと、おかしなこと。
純粋に、無垢に育てられた戦士にとって、受け止めがたいこと。
私達にとっても、理解が追い付かないこと。
流海の為に口角を上げている私は、嘉音に向かってウォー・ハンマーの頭を向けた。
「嘉音、貴方は一体ッ」
「言わないでよ、涙」
掠れた声が私を止める。倒れない殲滅団が動きを見せる。
顔から手を下ろした嘉音の左目は、やはり黒く染まっていた。
いつも私を見ていた灰色ではない。曖昧なあの色ではない。
「あ゛あ゛、あ゛ーッ、苦しいッ!!」
嘉音はアルアミラを掻き毟り、ペストマスクの亀裂に指をかける。私は男の奇行を見つめ、螢はマスクの口元を押さえていた。空牙は少女を背に隠し、朝凪と竜胆も嘉音の動向を見つめている。
流海は変わらずクロスボウを構え、嘉音は血の滴る両手でペストマスクを掻き乱した。
肩で大きな息をして、背中を深く上下させて。
嘉音は――ペストマスクを取ったのだ。
アルアミラと共に、つば広帽と共に、殲滅団の顔が露わになる。
黒い短髪を揺らして、黒く染まった左目と、真っ白に染まった右目を見開いて。
リングダガーを落とした嘉音は、血のついた手で顔を覆っていた。
「あ、あ、くそ、くそ、くそ、クソッ!!」
嘉音のがなり声が廊下に木霊する。深く噎せこんだ相手は、両手の隙間から重たい血反吐を吐きだした。
何度も何度も咳き込んで、色の変わった瞳を激しく揺らし、それでも嘉音は膝を折らない。
窓に背中を当てて、嘉音は激しく咳き込んでいる。白い廊下には血が広がり、私は咄嗟にリングダガーを拾った。
「涙、あいつ、」
「……」
伊吹に対して何も返せない。流海がいつ私を見てもいいように笑みを浮かべてはいるが、頭は嘉音のことで一杯だ。
「あ゛ーーーーーッ、涙!!」
口元を拭った嘉音が、顔を上げる。
色の変わった両目で、血の跡が残った口元を雑に触って。男はピアスの穴がある耳を髪に隠し、苛立たし気にそこにいた。
それ以上苦しむことも、倒れることも、吐血することもなく。
黒と白の目に微かな灰色を浮かべた嘉音は、直ぐにその色が消えた事にも気づかないのだろう。
「戦え」
嘉音は左胸を掻き毟る。
「俺と戦え」
掻いた喉には赤い線が浮かぶ。
「俺を裏切り者にした君の、俺の頭と感性を掻き乱してくる君の最期を、俺にッ」
「嘉音さん!!」
口の端から血を流した嘉音。その気迫に戦闘態勢を取れば、劈くような螢の声がした。
喉を押さえる少女は肩を震わせ、ペストマスクの縁に指をかけた。
「螢ッ」
「だって、だって、空牙ぁ……」
空牙が螢の腕を掴む。少女は今にも泣きそうな声で仲間を見上げ、私達の気が逸れてしまった。
だから、今までとは違う発砲音に対応が遅れたんだ。
「流海さん!」
「小夜ちゃん止まってて!!」
白い網が視界の端で広がり、片割れを捕まえる。流海が突き飛ばした小夜は両手を前に出したが、片割れの声に怯んでしまったようだ。
流海を捕まえたのは朧だ。昼間に私を捕まえた網目は流海に絡まり、雑に片割れを引き寄せる。
「流海ッ!!」
私は勢いよく流海の元へ駆け出し、朧本人への対応が後手に回った。
ガラ空きの背中を取られる。後頭部を掴まれた私は、額から床に叩きつけられた。朧は私の背中に膝を置き、勢いよく流海を引き寄せる。
「「離せ、ッ朧!!」」
「ぜんぶ、お前達のせいだ」
朧に私達の言葉が届かない。私の頭には銃口が向き、目の前には掴まった流海の顔が近づいた。
あぁ、笑え、私。
笑って流海の目を見る。歯を食いしばっている片割れは手を伸ばすから、私も腕を伸ばした。
指と指を絡めて、片割れと手を繋ぐ。
私の後頭部では銃のハンマーが引かれる音がし、伊吹達が動く気配もした。
「動くな」
一瞬で、その場の空気が凍る。
地を這う朧の声が周囲を圧迫し、動けば私の引き金が引かれると示してくる。
私は強く流海の手を握り、片割れが顔を上げた音を聞いた。
「涙を先に撃つなんて許さないよ、朧」
「流海、」
「僕を先に撃てばいい。それすら聞かないなら、僕らを同時に殺せ」
流海の目が、言っている。お前にそれが出来るならば、と。
私は流海の手を握り締めて、伊吹達の上擦った心配の声は受け止めきれなかった。
朧の銃が揺れる。
あぁ、こいつ……撃てないんだ。
分かって、視線で朧を射抜けば、殲滅団は声を荒らげていた。
「また、また、お前達はそうだ。いつだって、どんな場面だって、自分の命を乞わないんだからッ」
朧の手から銃が落ちる。ペストマスクを覆って天を仰いだ男は、息苦しそうに仮面を掻き続けた。
「お前達にさえ出会わなければ、俺は、俺達は、染まらなかったのに、変わらなかったのに!」
「朧、」
「俺があの時、流海を殺すことを迷わなければ、置いて去ろうとしなければ、嘉音と涙は出会わなかったかもしれない。そうすれば俺達は裏切り者にならなかった。アテナを、殲滅団を、裏切ることなどなかったのに!!」
朧が流海を捕まえたネットガンを床に叩きつける。背中を曲げて床に蹲った男は、ペストマスクを両手で覆ったままだった。
まるで、懇願するように、懺悔するように、男は額を床につけている。
私は流海と手を繋いだまま揃って上体を起こし、朧との間には伊吹が入って来た。
トンファーを構える男は、朧の動きを凝視している。
「ここには、裏切り者しかいないってば」
嘉音が歩み寄ってくる。オッドアイになっている男は時折喉を鳴らす呼吸をしているが、やはり倒れることも……死ぬことも、なかったんだ。
それは、有り得ないこと。有り得てはいけないこと。
混ざり合わない筈の世界で、綺麗な者が汚れた空気を吸って、生きているなんて。
私は流海の手を握り締めて、嘉音から目を逸らすことは出来なかった。
何度も咳き込み、覚束無い足取りの嘉音が口を開く。
「ヤマイも正しいかもしれないって思った殲滅団」
螢の肩が揺れる。それを見た朝凪は目を見開いており、鉤爪を抱いた少女は喉元を掻き続けていた。
「自分の可能性を知りたくなった殲滅団」
空牙は指から暗器を外す。竜胆はサーベルを下ろし、空牙は螢の前に立ち続けるだけであった。
「葛藤なんて感情を覚えて、アテナの信条を遂行できなくなった殲滅団」
朧は静かに顔を上げる。男は今にもペストマスクも、アルアミラも、つば広帽も外してしまいそうだ。
「……たった一人のヤマイを殺したくて、輪を乱し始めた殲滅団」
顔色の悪い嘉音が咳き込んだ。男は口元をもう一度拭い、朧からペストマスクが落とされる音がした。
軽い音と一緒に、端正な顔立ちが露わになる。アルアミラを剥げば黒い髪が顔を隠し、いつかの日のようにつば広帽子が落ちていく。
朧の左目は黒くなり、右目は無垢な白に染っていた。
私達の息が詰まる。伊吹のトンファーが大きく揺れる。
ペストマスクを外す音は、螢からも、空牙からも聞こえてきた。
動けない朝凪と竜胆は、初めて殲滅団と素顔で対峙する。血の気の失せた顔をしている螢も空牙も、自分達よりずっと幼い顔立ちをしていた。
黒い髪を一つに結い、大きな両目を揺らす螢。
吊った目元をしかめて、何度も深く咳き込む空牙。
私は、両目の色を違えた殲滅団を見た。
皆が皆、片目を黒くし、片目を白くして。
噎せこんで、咳き込んで、吐血して。呻いて吐いて冷や汗をかいて。
それでも、誰もが倒れることをしなかった。誰も、呼吸を止めることを、しなかった。
「そんな……」
「なんで、君達……」
朝凪と竜胆が明らかに狼狽え、私は伊吹の背中を叩く。灰色の少年は気づいたように振り返り、私は小夜に視線を向けた。
「私達は平気です、伊吹は小夜を」
「あ、あぁ、助かる」
伊吹は殲滅団の行動に理解が追いついていない様子だ。もちろん私だって追いついていないし、流海だって理解できていない。
朧達は武器を向けないと伊吹は確認し、小夜の元へ駆け出した。
「小夜!」
「お兄ちゃん……ごめ、ごめんなさぃ」
「いい、いいから」
兄妹が互いを守るように抱きしめ合う。私は二人の姿を確認し、嘉音は痰が絡んだ声を出した。
「……息苦しいなぁ」
嘉音が私を見下ろしている。立ち上がった朧は眉間に皺を深く刻み、泪を堪えているような表情をした。
「アレスは、息苦しい」
嘉音は私の前にしゃがみ、網から抜けた流海が間に入り込む。私は片割れの肩を掴み、相手の顔を見られなくなった流海を想った。
「流海」
「大丈夫、見ない……見てないよ」
歯痒そうな流海は鎖を揺らす。嘉音は流海の首に残った鎖を引き、顔を上げさせた。
私は思わず嘉音の手首を流海と一緒に掴み、片割れは目を閉じる。自分に無表情は向いていないと、周りは全て笑っているのだと言い聞かせて。
私は流海の肩を抱き、真顔の嘉音を見つめていた。
それは、初めての邂逅。ペストマスクをせず、互いの顔を初めて認識した瞬間。正しく初めての顔合わせ。
流海の鎖が離される。しかしそれは直ぐに朧に掴まれ、目を閉じたままの流海は朧に引き寄せられた。このッ
「流海に近づくな、朧」
「平気だよ、涙……大丈夫」
「……殺せるのに、この距離で」
呟く朧は銃を拾わない。青刃のナイフを握っても、力なく床に触れるのだ。
私の手首は前触れなく嘉音に引かれる。私は黒と白の目を見つめて、相手は緩く首を傾けていた。
顔が近づき、嘉音の黒い髪が頬に触れる。血の香りを纏った男は、不思議そうに瞬きをしていた。
唸るような流海の声がする。
「涙に近づくな」
「平気だよ、流海、ありがとう」
「涙の顔、ちゃんと見たのは初めてだ」
嘉音の顔がより近づいてくる。鼻先が触れ合う距離にきた男は、手袋を外して私の頬に触れた。
「……死なないんですね」
「死なないみたいだよ」
「あぁ……私はお前達の仮面を砕くことを夢見ていたのに。苦しむ姿を望んでいたのに」
「砕いても死ななくなったのは、涙のせいだ」
「勝手に染まったのはそちらの癖に」
「勝手に染めたのはそっちだろ」
目を閉じた嘉音が額を合わせてくる。その感情が分からなくて、私は動くことをしなかった。
「嘉音、貴方は今、何がしたいんですか」
問いに、嘉音は即答しない。相手の言動を予想できない私は、目の前にいる殲滅団達が何処へ向かうのか、何処へ行きたいのかも分からなかった。
――俺に君を恨む機会を頂戴
そう言っていた癖に。
――俺は今、楽しいよ
感情を知ってしまって。
――またね
なんて、ヤマイに感情を入れ過ぎたから。
貴方も染まってしまった。自分は正しい道を歩んでいると思いながら、その実、貴方は規律に反して染まっていたんだ。
最初は朧を怪しいと思って、私に話しかけてきたのに。ミイラ取りがミイラになってしまったな。そんな嘉音を、私は笑えないのだが。
――最低なヤマイになってよ
最低なヤマイになったよ、嘉音。私はお前が望んだ通り、最低になったんだ。
その最低の姿にお前が何を感じたのか、私には知る由もない。予測不能な感情は、予期せぬ変化を生んで、お前の正義は崩された。
「俺は、涙を殺したかったんだ」
嘉音の声がする。私に取引を持ち出した時と同様に、酷く落ち着いた声色で。
「殺した先で、どうするんですか」
「殺せば、俺はまた元の殲滅団に戻ると思ったのに。一人のヤマイともっと戦えるなんて思わない、ヤマイとの戦いを楽しいだなんて思わない、涙に出会う前の俺に、戻れると思ったのに」
嘉音が私の手からリングダガーを取り、腹部に当ててくる。その切っ先に力はなく、私は黙って嘉音の動向を観察した。
嘉音はリングダガーに力を込めることも進めることもなく、静かに下ろす。
「涙の最期が欲しいのに、それを貰ったら、俺はどうなってしまうんだろう」
嘉音と私の間に血溜まりが出来ていく。互いの血が流れて、垂れて、混ざり合う。それはどちらも、同じ赤色をしていた。
肺の奥から噎せた嘉音は、口の端から血玉を吐いた。
「最期を貰ったら、涙はいなくなるんだよね」
「そうですね」
「いなくなる、いなくなる、そうだよなぁ……」
額を離した嘉音と目が合う。男は黙って私を見つめたかと思うと、初めて目を伏せるという行為をした。
「それは……つまんないなぁ」
立ち上がった嘉音は無表情で私を見下ろし、両手でリングダガーを握った。私は男の前に立ち、久しぶりに鼓膜が雨の音を拾う。
「涙と関わった事が俺の間違いだった」
「今更気づいたって、過去は戻りませんよ。貴方は私の踏み台になった」
「……あぁ、最低だな、最低なヤマイだよ、君は」
心臓が一瞬だけ強く脈打つ。嘉音は周囲に視線を向け、再び目を伏せるのだ。
朧が流海の鎖を離し、私は片割れの手を掴む。流海は私の手を握ってくれたから、私は思わず笑ってしまった。
銃を仕舞った朧の元に螢と空牙が駆け寄っていく。黒い髪を結った少女と少年は、互い違いの瞳で私達を見た。
顔を歪めた螢は私から朝凪へ視線を向け、泣き出しそうな表情を浮かべていた。
「……すみません、朧さん、嘉音さん。私には、この人達を……殺せません」
「貴方……」
思わずと言った様子で、朝凪が一歩を踏み出す。顔を上げた螢は、疲れきった顔にペストマスクをつけ直していた。
朧は一度ペストマスクを胸に当てて、付け直す。
深く噎せた空牙も仮面をつけ、両手に暗器をはめた。
「お前達以外のヤマイなら、殺せる気がする。そうすれば俺達は、元に戻れるのかな。……俺は何かに、なれんのかな」
それは独り言のような問いかけ。空牙の嘴は竜胆へ向かい、直ぐに螢と共に窓の外へ飛び出した。
あぁ、待て、待てよ、まだ私は、お前達に聞きたいことを聞いていない。
割れたマスクを装着した嘉音は、黒い上着を翻した。
「待ちなさい、嘉音」
私の手が嘉音の袖を掴む。黒いペストマスクはこちらを微かに振り返り、私は痛む手を無視していた。
「どうやって貴方達は、アレスで呼吸をしていたんですか。何か方法が? それが分かれば、流海を、流海を治せるかもしれないのに!!」
「……そんなの俺達だって知らないよ。ただアテナもアレスも息苦しくて、どちらでも苦しい呼吸しか出来なくなっただけなんだから」
そう言って、私の手を振り切った嘉音と朧が窓から飛び降りていく。諦めたように、脱力するように。
夜の闇に溶ける黒達は、最後の言葉を残していった。
「たくさん戦おう、涙。いつでも、いつまでも。俺もきちんと心を作って来るから」
「嘉音ッ!!」
雨の中に黒が消える。私はその姿を見失い、暫くの後に誰かの悲鳴を聞いた。
それがヤマイかヘルスの悲鳴からも分からない。誰かも分からない悲鳴に心を痛めることはなく、私はその場に崩れ落ちた。
誰かも分からないため息が聞こえる。
私は流海と手を固く繋ぎ、振り込む雨に指先を冷たくした。
羨んだ時、欲した時、それは確かな汚さになる。
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次話は水曜日に投稿予定です。




