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彼のしにざま

作者: 軋



 戦が終わった。それは歴史的にも稀にみる大勝利であった。


 国境に迫った二十万という敵を、わずか三万で蹴散らしたのである。将軍の戦略と規律の整った軍、何より神から皇帝への大いなる御加護の為せる技に違いなかった。


 「将軍万歳、皇帝万歳」


 貯蔵庫が開けられ、穀物と酒が無産階級にも振舞われ、皇帝の旗が至る所にかけられた。吟遊詩人が英雄を讃え、飲めや歌えやの大騒ぎは三日三晩続いた。

 その後、空き瓶と食べかすと酔っ払いで見るに耐えない有様となった市内が、官民一体となって何事も無かったかのように片付けられた。さらに城門から大聖堂へ続く大通りを溢れんばかりの花で飾り、沿道の家々には皇帝と将軍の旗が交互にかけられた。凱旋式である。

 用意は整った。町中の人々が一人残らず大通りの沿道に詰めかけた。市民たちの感情ははち切れんばかりに高揚し、誰かが将軍の名を叫ぶと、それはうねりのように広がっていった。


「将軍万歳!将軍万歳!」


 遂にその時がきた。重たく巨大な門がゆっくりと、音を立てて開いた。旗持ち歩兵が二人、横並びで先頭を歩き始める。上手の兵は皇帝の旗、下手の兵は将軍の旗。その後ろに護衛兵長が馬に跨って続く。その後ろの、四頭立て馬車の上に立ち上がった将軍がゆっくりと右手を挙げた時、それを目にした者から歓声が上がり、瞬く間に後ろの群衆へそのまた後ろの群衆へと広がっていく。市民の興奮は最高潮に達した。


 花びらを撒くもの。手を振るもの。名を呼び讃えるもの。感謝の祈りを捧げるもの。涙を流すもの。こちらを向くようにせがむもの。抱きついて口づけをしたいという衝動に駆られ、護衛兵によって阻まれるもの。両手を天にかざし、皇帝と神への賛美を叫ぶもの。


 雲ひとつない晴天は、神からの祝福に違いなかった。街は勝利という美酒に酔いしれ、誰も彼もが喜びに浸り込んだ。パレードののち、将軍は宮殿で皇帝に勝利の報告をし、皇帝から褒美として金襴の上衣を受け取った。それを纏った将軍がバルコニーで市民からの止まぬ歓呼に応える姿を見て、政変への危機感に襲われた皇帝とその側近たちは、狂乱に溺れ得なかった数少ない例外であった。




 彼女も凱旋パレードに参加し、将軍の名を歓呼した一人ではあった。しかし心の底から勝利の喜びに浸ることができなかったという点では、彼女も例外の一人でもある。群衆の中から彼女は、将軍の後に続いた兵士たちの列に目を凝らしていた。将軍の下で大軍に立ち向かい、勝利の栄誉を国と将軍に与えた彼らは、鎧を可能な限りピカピカに磨き上げて、誇らしげに胸を張り、群衆の賞賛を浴びながら、隊列を崩すことなく大通りを進んでいった。時折、市民の一人が皇帝でも将軍でもない、何の高貴さもない名を叫び、兵士の一人がハッとそちらを向いてはにかむように笑い、より一層誇らしげになって、再び前を向いて進んでいく、ということがあった。彼女も彼の名を呼びたかったのである。しかし遂に彼を見つけることはできぬまま、凱旋の列は彼女の目の前を通り過ぎていった。


 兵士たちはこの後広場に整列し、わずかながら報奨金をもらい、それから家路に-地方で招集された者たちはその地域ごとにまとまって長い家路に-着くはずだった。多くの市民はその広場までついていく。広場は宮廷に面していて、将軍が最後にそのバルコニーから市民の前に姿を現すので、それを見届けてから家に帰り、兵士の帰りを待つのである。若い恋人たちが戦争で引き離されていた場合、帰宅も待ちきれず広場で落ち合いたがるので、今頃広場の前はちょっとばかり着飾った若い娘たちが、それぞれの愛する者が軍務から解放されるのをそわそわと待ち受けているはずである。


 彼女もそうしたかったのだ。だから、彼がかつて奮発して買ってくれた花柄の絹のスカーフを首に巻きつけて凱旋式に参じたのだ。しかし彼女はそうしないまま家に帰った。そして震えながら神に祈った。


(私が彼を見つけられなかっただけなのです)

(戦が終わった後に手紙が来なかったのは瑣末な手違いのはずです)

(凱旋式の名簿に名が無かったのも、私の気がはやって目を滑らせてしまっただけなのです)

(明日公表される死亡者名簿に、彼の名があるはずがありません)

(きっと彼は私を驚かせようとしているのです)

(不安にさせて、突然後ろから抱きしめて、私が泣くのを見て笑うのでしょう)

(神様、どうかそういうことにしてくださいませ)

(三万の軍勢で二十万の敵を打ち破った偉大な神様、彼を生きて帰すことくらい容易いでしょう)

(明日、私は名簿を見にいくでしょう。どうかその前に、彼をこの家に帰してくださいませ……)


 翌朝、彼女は彼が死んだことを、他人の噂話で知った。




 その若者が彼女を訪ねてきたのは、凱旋式から七日が経った日のことだった。

 その人は、あの兵士たちの中の一人だったという。家に帰り、方々に挨拶をし、溜まってしまった仕事を片付け、それから彼女の家を人伝てに探してきたという。諸用が重なって訪問が遅くなってしまったことを、彼はまず詫びた。


「はあ、遅くなったと言われましても、私は貴方様の名前も存じ上げませんわ」

「ええ、突然驚かせてしまい申し訳ありません。しかし僕はずっと、すぐにでも貴女を訪ねなければならないと焦っていたのです。貴女を大切に思う方から、貴女のことは少しばかり聞かされていたので」


 そういって、その人は彼の名を口にした。


「彼を……戦場で、お知り合いになったの」

「はい。この度は、本当にご愁傷様でした」

「彼が、私の話を、貴方に」

「はい。聞いていた通りの可愛らしいお方でいらっしゃる」

「まあ、やめてくださいな」


 彼女は笑って見せようとしたらしく、口元をひくりと歪めた。見ている方が痛々しいと、その人は思った。


「しかし随分と痩せておられる。食事は、きちんと取れていますか」

「ご心配ありがとうございます。食欲が無いもので。でも隣のおばさまがスープを作ってくださるから、それはなんとか口に入れていますわ。今朝はパンも食べられました」

「なんと!それはお労しい……いや、無理してでも食べるべき時と、そうでない時がありましょう。少しずつ口にしていけば大丈夫です。時に、教会には行かれましたか」

「皆行きなさいと言うけれど、そこまで歩くのも億劫になってしまって。でもお祈りは毎日欠かさず」

「さようですか。うん、教会も、行こうと思えた時に行けば良いと思います。周りの人に急かされることもあるかと存じますが、ご自分の調子と相談して、少しずつ日常を取り戻していくのがいいでしょう」

「お心遣い、痛み入りますわ」


 やはりぎこちなく笑う彼女を見て、その人は少し逡巡して、それから彼女に問いかけた。


「本日貴女を訪ねたのは、まず貴女が無事でいらっしゃるかが知りたかったからです。全くの無事ということはなくとも、日々生きようとしてらっしゃるようで安心いたしました。それから……もしそうするのが貴女のためになるならば、僕の知っている彼の話をしようと思っていたのです。しかし今はまだ早いでしょう。貴女が心身共に健康を取り戻した時、話をしたい。それまで、貴女の様子を見に時折家を訪ねることをお許しいただけますか」


 彼女はまっすぐにその人の目を見た。


「正直な人ね。ねえ、そんな言い方をされて、ではまた今度と言えると思って?いま、全部聞かせてください。お願いします。私、彼が死んだこと以外何も知らないの。遺体も見てないの。行ってきますと笑って出陣した姿しか知らないの。死んだとは知っているけど、でもまだ信じていないの。毎晩祈っていると言ったでしょう?彼を生きて帰してって祈ってるのよ、私」


 次第に声が震えて、しかしまっすぐに見つめる瞳はとても強かった。美しいと、その人は思った。彼女はその人の服の裾を掴んで、懇願した。


「貴方が知っていること全部教えて。お願いします。なんでもいいから彼のことが知りたい」


 頬骨が浮かび、唇には血の色がなく、裾を掴む手の力も弱く、愛する者の死で憔悴しきった女に、その話をするのは随分酷なことの筈だった。それでもその人は、分かりましたと結局首を縦に振った。彼女はその人を狭い客間に通し、余り物ですがと隣人のスープを温めて振る舞った。それを一口啜ってから、落ちくぼんだ目の女に向かって、その人は語り始めた。所詮、その人も彼女を慮ってではなく、自分が解放されるためにその話をしたかっただけなのだ。




-------------------------




 僕は職人階級の次男です。今年十八になりました。あの戦が初陣だったんです。家族が張り切って鎧兜だの武具だのを用意して、僕に着せ、立派に戦って国を守れよと言いました。それから母が小声で、死ぬんじゃないよ、と言って僕を抱きしめました。あんなに残酷な言葉はありません。僕は戦なんて初めてで恐ろしくてたまらなかったのを、輝く武具を身に纏うことで気分を高揚させて忘れようとしていたのに。


 僕はある老練な百人隊長の下に配属されました。評判の良い隊長だったので、密かにあの人のところが良いと思っていたものですから、内心小躍りしました。長年その隊で戦った先輩兵士たちも、お前は良いところに来たぞと笑って出迎えてくれたのです。俺たちはあの人を信頼している、あの人は俺たちを殺さない、思いっきり戦えると。生きて帰れるんだという安堵と、生きて帰るんだという強い決意が、同時に心の中に芽生えました。そうすると、それなら手柄を立ててやりたいなとか、一人でも多くの敵を僕が倒すんだとか、めきめきやる気が起こって来たりもしたものです。単純な若者と馬鹿にしていただいて結構。


 彼に出会ったのもその隊でした。初陣の兵士は同じ隊に二十人ほどいたけれども、同い年なのは彼だけだったので、自然と仲がよくなったのです。行軍や訓練、土木任務の合間に、僕たちはどうでも良い話をたくさんしました。例えば……他の兵士たちが動物なら何に似ているかとか、どもりがちな上官の物真似とか。幼い時は礼拝に参加するのが退屈きわまりなかったから、どうやってぬけだしたとか、どんないたずらをしたとか。二人とも悪童だったようだから、当時に友人でいたらきっと相乗効果で手が付けられないことになっていたでしょう。成長してから知り合ってよかったと笑いあって、では退屈な上官の話を途中で止めさせるにはどうしたら良いのかを懲りずに真剣に話し合ったり。彼、上官に大音量で放屁させれば良いなどと言うんですよ。音と匂いをどうやって偽装すれば良いのか、丁寧に解説してきた時は流石に驚きましたね。もちろん実行には移しませんでしたよ!大人ですから。汚い話を失敬。


 さて二週間後、軍は国境を越えました。ご存知でしょうが、僕らは援軍でした。昨年から戦っている部隊は一進一退の苦しい状況でなんとか敵を抑えていたけれど、遂に押されて国境間際まで撤退してきたところに僕らが合流したんです。当初五万いた先行軍は二万に数を減らし、援軍一万と合わせても三万。敵は会戦で一気に蹴りをつけて国内に攻め込もうと、続々と集結してきていました。その数二十万と聞いて、再び僕は死の恐怖に震え上がりました。約7倍の敵に勝てるはずがない。脱走兵も出ました。しかし恐ろしい軍律に従って三人が見せしめとなって以降、逃げるものは無くなったと聞いています。


 ちなみに、二十万って数字は嘘ですよ。大きな声では言えませんが、敵の数は十万は超えません。そういう計算が得意な奴が言っていました。恐怖で誇張された数字が、勝利をより偉大に見せるために利用されているんです。それでも巨大な恐ろしい敵であることには変わりない。


 僕たちは歩兵隊です。それも重装じゃない。戦の先陣を切って敵とぶつかる部隊です。言ってしまえば捨て駒だ。老練な隊長の下なら死なないなんてのは気休めに過ぎないということを、少しずつ察してしまいました。隊長と共に生き延びてきた数人の兵士たちは、もちろん屈強で勇敢だったけれども、それに加えて運が良かっただけなのです。僕はきっと死ぬ。


 そんな中、少しずつ僕たちは家族の話をするようになりました。僕は早くに結婚して、年上の妻ともうすぐ一歳になる息子がいます。両親も、父方の祖父母も健在です。兄弟も甥っ子もいます。僕一人死んだって、誰かが路頭に迷うことはないでしょう。それでも妻子を残して死にたくはない。母が耳元で囁いた願いも忘れない。生きて帰りたい。それどころか、今からでも戦争になんて行きたくないんだ、と。


 僕は彼に、もし僕が死んだら僕の家族のところに言って、立派に戦って死んだと伝えてくれと頼みました。すると彼は笑って、良いよ、立派に戦って死ぬならな、と言いました。でも惨めな戦い方をしたらそれをそのまま伝えてやるとも。僕はムキになって、じゃあお前が死んで僕が生き残ったら、その死に様は誰に伝えれば良いかと聞きました。彼は死ぬ予定が無いから余計なお世話だと、また笑いました。彼はもちろん戦に怯えていたけれども、自分が死ぬことは本当に考えていないようでした。それでも、万が一を想像してみると気がかりなことはあると言って、貴女の話を始めたんです。


幼馴染みだったそうですね。彼は小さな料理屋の息子、貴女は評判のパン屋の娘。近隣の少年少女たちと、学校にも遊びにもみんな一緒のグループだったと。彼はもういつから貴女のことを好きだったのか覚えてもいないくらい、ずっと貴女のことが好きだったと……え?そんな筈はない?ああ、周りの男の子たちは別の女の子に夢中だったとも言っていましたし、彼もその子のことが好きだと勘違いしていたのでは?……やっぱりそうだ。確かに美少女がいたけれど、彼にとって一番可愛かったのはずっと貴女だそうですよ。なんだ、そんなことも貴女に伝えていなかったなんて。奴はとんだへたれだ。


 貴女に自分の方を向いて欲しくていじわるをしたり、貴女が別の男の子を好きだと言うのを聞いてこっそり涙したり、その男の子が別の子と付き合ったときに小躍りしたり。泣いている貴女を見ても馬鹿にすることしか出来なくて、家に帰ってから自己嫌悪で壁を殴ったり。それでこっぴどく叱られたりもしたそうですよ。ご存知なかった?……そうそう、虫を投げつけたのも髪を引っ張ったのも、必死の愛情表現だったんですよ。僕もやってしまったことがある。……うわ、そんなことまで。僕はそこまでしませんよ。貴女は怒っていい。


むしろそんな酷いことまでされて、結局彼と一緒になるなんて実は貴女も相当な変わり者じゃないですか?彼はずっと貴女のことが好きだった。でも優しく出来たことなんて一度も無い。貴女に好かれる理由なんて何もない。なのに十七歳になった昨年、一緒になろうという一か八かの申し出を、貴女はすんなりと受け入れてくれた。それが不可思議だと、彼は何度も繰り返しました。そしてそれは、彼の人生における最大の奇跡で、幸せな瞬間だったとも。


 彼は神に誓ったと言います。これからは何があっても貴女を幸せにすると。世界で一番可愛らしい貴女を、世界で一番の幸せ者にしてみせると。うんと大事にしてみせると。名を呼ぶこと、肌に触れること、口実無しに優しくすることを許されて、彼は天にも昇る気持ちだった。貴女に名前を呼ばれるたび、微笑みかけられるたび、何度も彼は誓いました。この愛しい女性が、なんの煩いもなく、暗い夜に優しく眠ることができるように。自分にできることならなんでもしてみせよう。必要であればいつでも命を捨てよう。でも、もし貴女の自分への愛しているという言葉に嘘偽りがなく、自分を必要としてくれるのならば、自分はどんなことをしてでも生き延びて、貴女の元へ帰って行こう……と。


 だから彼は死ぬことなんて微塵も考えていなかったんです。貴女を国に残して、自分だけ死ぬ筈がない。でも万が一死ぬことを考えろと言われると、貴女だけが気がかりだった。


 僕は彼に、ではもし、万が一君が死んだときにはどのように彼女に伝えるべきかと問いました。立派に死んだと伝えるべきか、ありのままを伝えるべきか。彼はすぐに事実だけを言えばいいと答えました。虚勢を張っても意味は無い。無様な死に方をしてそれを知って嫌われるのも、死者に固執させないという点で悪くはない。だから君についてはそうさせてもらう、しかし自分は死ぬ予定はないからそのことを考えるのは無意味だ。そう言って、彼は貴女の居所も教えてくれなかった。この家を探すのもまあまあ苦労したんですよ。


そういう訳で、僕は貴女に、彼の真実の死に様をお伝えします。みじめな最期を、そのままに。貴女が聞きたくないというのなら、辞めにしますが……。



 故郷を離れて三ヵ月。僕たちは遂に敵と相対しました。東にずっと行くと山、西にずっと行くと大きな川がある草原で、敵は北の丘に布陣していました。朝靄の中で大軍の影を見上げた時は、あまりの恐ろしさに脚が震えた。


 数少ない味方で大軍の敵を破るには、いくつかの定石があります。直接敵と対峙せず不意打ちを突き続けるゲリラ戦、大軍が遠征するときの兵糧不足や疫病蔓延を粘り強く待つ籠城戦。砦を多数建設したり、地形を利用して敵を分散させ、少数になったところを狙うこともある。歴史上、少数が多数に勝った例は枚挙に遑がありません。ところがかの将軍が選択したのは、会戦でした。少数が多数に真っ向から対峙して、真っ向からぶつかり合う……正気の沙汰ではありません。


 しかし我が軍が大勝利を納めたのは、ご存知の通り。勝利続きの大軍で油断していた敵に対し、将軍は冷静に戦略を立て、緻密な計画で敵を追い込んで行きました。地形を生かし、脇からの騎兵の不意打ちや兵糧の焼き討ちを的確なタイミングで行い、最新型の兵器も有効に活用した結果、それはそれは鮮やかな兵法の勝利であった……らしいですね。最中にいた僕には何もわからなかったことです。


 此度の戦は、まず互いの中央軍がぶつかり合うことから始まりました。将軍の策が色々あれど、それを察知されないためにも、主力はごく普通に進軍しなければならなかった。将軍が指示を出すまで、戦なんてただの腕尽くの殺し合いでしかない。軽装歩兵の僕たちの。


 早朝、隊列を組んだとき、僕は逃げ出したくてたまらなかった。だって僕たちの百人隊は、中央軍の最前線だったから。誰よりも先に敵にぶつかるのが僕たちだった。僕は五列目でした。彼は三列目で、僕の右斜め前方にいました。最前列じゃなかったのが救いだが、ただの捨て駒だ。あの屈強な先輩兵士が最前列で胸を張っていました。そこで僕は初めて、あの評判のいい百人隊長ははずれだったと気がつきました。信頼されている隊だからこそ、勢いづけとして先頭を任されてしまった。


 間も無く開戦という時、百人隊長が前に立って演説しました。ここで負ければ戦場は俺たちの国の中に移るだろう、お前たちの愛するものを守るために勝たねばならない、とかなんとか。死を恐るな、ここで死んだものは誇りと共に神の国へ行く、とかなんとか。今思い出すと馬鹿馬鹿しく思われますが、その時は驚くほど身が奮い立ったのです。どうせ逃げられないなら生き残ってやるという思いが沸々と湧き上がりました。それは皆同じで、うねるような士気の高まりがますます気分を高揚させました。


 その後、将軍が自ら馬に乗って隊列の中を駆け回り、百人隊長と同じようなことを、より過激に叫んで周りました。私に従え、絶対に勝たせてやる、とも。ええ、言った通りに勝ったのだから素晴らしい将軍ですよ。黒毛の大きな馬の上で紫のマントをたなびかせる将軍の後ろ姿は、今でも覚えています。とてもかっこよかった。この人について行こうと思えた。


 鬨の声が上がり、僕たちは手に持った細い槍を掛け声に合わせて天に向かって突き出しました。何度も。ちらっと彼の方を見ると、彼も他の兵士たちと同じように槍を突き上げていました。昨日まで二人で馬鹿笑いをしていた、隊の中でも特別によく知り合った彼が、群れのただの一部となっていることに少し動揺して、しかし自分も同じかとすぐに気を取り直し……僕はただの兵士になった。


 軍楽隊の太鼓に合わせて、僕たちは進軍し始めました。槍を右手に構え、小さな盾を左手に持ち、訓練された通りに隊列を崩さず、一歩一歩を合わせて。将軍からの指示が的確に伝わり、それに応じて隊形を変えられるように、ギリギリまで隊列を崩さないんです。ジリジリと敵に近付いて行く。敵の歩兵隊は未だ動かず、その後ろに丘の斜面を利用して弓兵隊が構えていました。


 恐らく彼らは僕達が近づくのを待って、ある一線を超えた時に一斉射撃をするはずでした。僕達はその時には合図を受けて立ち止まり、盾で固まって矢を防ぐ予定でした。その後は前の兵士から敵と入り乱れての戦になる……そう予想されていました。


 実際そのように戦は進むのですが、一つだけ手違いがありました。敵の一人が早まったのか、矢が一本だけ先走って飛んできたのです。それは追い風を受けて、僕らに向かって真っ直ぐに飛んできた。


 もうお判りでしょう。矢は彼の首元に真っ直ぐに突き刺さりました。


 即死だったかは判りません。それを確認する暇は与えられなかった。隊列を崩すことは許されなかった。


 衝撃を受ける暇も無かった。その一本の矢を皮切りに、大量の矢が降り注ぎました。何とかそれを凌ぎ、進み、再び矢を防ぎ、また進む。敵の歩兵隊が遂に進軍を開始し、戦場の中央やや敵陣よりで、僕達は喇叭を合図に殺し合いを始めました。


 ちらりと後ろを振り返ると、既に数人が矢で倒れていて、どれが彼かもう判りませんでした。そしてその感傷に浸る暇はありませんでした。あとはもう、自分が生き残ることで必死でした。




-------------------------




「あの戦の最初の死者が彼で、まず間違いないでしょう。彼は何も成し遂げないまま死んだ。誰も殺さず、誰も助けず、ただ間抜けな矢に急所を突かれて死にました」


 その人はそこまで話して、すっかり冷めてしまったスープを一気に飲み干した。彼女は結局スープに一度も口をつけないまま、その人の話を聞いていた。


「後の大勝利については、僕が語る必要もないでしょう。夕暮れ、味方の遺体を集めて祈祷を行い、その地に埋葬しました。でも僕はその中から彼を見つけることが出来なかった。何か遺品を貴女に持ち帰れたら、と思ったのですが」


 彼女は黙ったまま、下を向いてしまった。その人は後をなんと続けていいのか言葉に詰まり、ふと部屋の一画へと視線を逸らした。キャビネットの上に葉巻が転がっていた。


「……貴方も、戦場で大変な思いをされたのですね。前線から、よく生きて帰ってらっしゃいました。貴方の無事を心からお喜び申し上げますわ」


 小さな声だった。


「とんでもない……」

「お話を、ありがとうございました。彼の最期を知ることが出来るなんて思ってもみなかった」


 彼女の両手は、花柄のスカーフをぎゅっと握り締めていた。それがなければ、爪が手のひらに食い込んで血が出ていたのではないかと思うほどに。


 その人は先ほどまで流暢に語っていたのが嘘のように、その後は上手く言葉を交わせないまま、気がつけば日が落ちようとしていた。部屋に赤い西陽が差し込む。ぎこちなくその人は退出を申し出て、彼女は扉口までその人を見送った。


 その人はまた近いうちに訪ねることを約束した。努めて明るい声で、彼の思い出話を彼女の口から答え合わせがしたいから、と。また出歩くのが億劫な時には街や教会に行くにもつき添おう、と。彼女は感謝しつつ、しかし何よりご家族を大事になさってください、私を訪ねるのはお暇な時で結構ですから、と控え目な態度だった。こんなにも魅力的な女性が今一人で悲しみに沈んでいるとは、なんとも不安なことだ。頻繁に様子を見に来ようと、その人は心に誓った。


 帰ろうとするその人の後ろ姿を、彼女は「ねえ」と躊躇いがちに呼び止めた。


「惨めな死に方だと貴方は言うけれど。大切なあの人の最期を、私は……」


 震える唇に、その人の視線は吸い込まれた。青白い肌と浮き上がった頬骨。うら若き哀れな未亡人。


「誇りに思うわ。だって優しいあの人は、戦に行っても誰も殺さなかったんですもの」




-------------------------




 あの凱旋式の一月後、あの凱旋式のような快晴の中。その人は、一人で街の中を歩いていた。


 凱旋パレードの大通りから数本離れた、一般市民のための小さな市場のある通りに、彼女の家はあった。

 戦時中も市民生活はほとんど変わりなかったと聞くものの、行き交う人々の顔は晴れ晴れとして活気に溢れ、平和な日常を心から謳歌しているように見える。


 足元を子供たちが高い声を上げながら走っていった。向かい側から道に座り込んだ男が果物を売ろうと声をかけてくる。若い娘の二人組が頭に花を飾って笑い合いながら通り過ぎていった。


 それらを無視して、その人は彼女の家の扉を離れたところから見つめていた。逡巡している間に彼女が家から出てきて、どきりとしたのも束の間、彼女はその人に気がつかずに背を向けて通りを歩いていった。


(一人で外に出歩けるようになったのだな。顔色も良くなったようだし、まだ痩せこけてはいたがあの日より大分マシになったようだった)


 結局、一月の間彼女の家を訪ねることもないまま、今日も結局声をかけることが出来ないまま、彼女の後ろ姿を見えなくなるまで見送った。


 踵を返し、来た道を戻る。途中で気が変わって、あの大通りに向かってみた。


 あの日ほどでは無くとも、多くの人で賑わう大通り。その人はあの日、武具を纏ってここを歩いて、自分が国を守った一人であることを心から誇りに思った。群のほんの一欠片に過ぎずとも、自分はあの戦に参加した意味があったのだと、溢れそうになる涙を必死で堪えた。


(この手を血で汚したからこそ)


 あんな地獄は二度とごめんだ。もう一度槍を握って敵の肉を突けと言われても、断固として拒否したい。もちろん命令されたら行かざるを得ないのが、この帝国で生きるものの定めなのだが。


 だからと言って、この誇りも消えるものではない。相反する思いを同時に抱えて、その人は生きていく。


「……折角ここまで来たんだ、愛しい奥さんに土産でも買って帰るかな!」


 ひとりごちて、その人は1つ伸びをし、雑踏の中に消えていった。






……将軍の人気を警戒した皇帝と、求めた地位を与えられなかったことで皇帝に不満を抱いた将軍とが、遂に決裂して内紛が始まり、都が阿鼻叫喚の渦に巻き込まれるのは、まだ数年先の話……







彼のしにざま



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