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苦手な方はご注意ください。

SF系短編小説置き場

その男、巡礼者につき

作者: 浦切三語

 アンナはその日、孤児院の裏手に深々と自生している、静謐さに包まれた森へ足を踏み入れていた。

 

 履き慣れたブーツで草木を踏みしめながら、木製のバケツを手に、足元に注意しながら彼女は歩いていた。


 目指す先は、森の中でこんこんと清水を蓄える、一つの泉であった。


 孤児院からその泉までの距離はそれほど遠くもなく、化学汚染によって狂暴化した獣の類も森には棲んでいないため、危険とは程遠い。


 それでも、一週間分の生活用水を蓄えるには泉と孤児院の間を何回か往復せねばならず、それなりの体力を必要とした。一週間に決まって一度の力仕事。十七を迎えた娘がやるには結構な労働と言える。


 しかし文句を言っていられるような状況ではなかったし、アンナ自身、水汲みの作業を放り投げたい気分になったことなど一度もなかった。孤児院で暮らしている幼い子供たちのことを想えばこそだった。


 歩いて十分もしないうちに、開けた場所に出た。白や青といった可愛らしい花々を咲かせる草木に彩られて、円形状の泉がそこにあった。たっぷりとした水面が、真っ青な空から降り注ぐ陽光を浴びて、きらきらと白銀に照り輝いている。


 恐ろしいくらいに透明度の高い泉だった。覗き込めば、底に溜まっている砂利の一粒一粒がはっきりと見えるくらいに。砂利同士の隙間からぶくぶくと泡立ちが発生していて、それが、この泉が何処とも知れぬ地下水脈の賜物であることの証拠と言えた。


 貴重過ぎる財産だ。人類を絶滅寸前までに追い込んだ『対アンドロイド戦争』を経て、地球の環境が著しく悪化したことを考えれば、濾過装置もなしに飲める水ほど得難いものはない。


 アンナの住む孤児院周辺は奇跡的なくらいに緑と食物に恵まれていて、まさに地上に残された最後の楽園と呼んでも過言ではなかった。


 彼女が異変に気が付いたのは、五回目の往復を終えて、再度泉の水を汲もうとした時だった。身を屈めて木桶で水を掬おうとした際に、視界の端で見覚えのない『何か』の気配を感じ取ったのだ。


 脊髄反射。すぐさま顔を上げた。獣かと思い込んで身を固くしかけるが、やがてそうではないと気づいた。少し胸を撫で下ろし、だがそこでまた奇妙な騒めきに襲われた。


 背の低い草木を圧し潰すようにして、一人の男がうつ伏せに倒れ込んでいた。


 濃い紅色のレザージャケットに、真っ黒で硬質そうなブーツ。茶色い髪の毛。右耳にはピアスをつけている。若い男。


 緑に覆われた木々に囲まれて、倒れ込んでいる男の姿はあまりにも際立っていた。異質と言っても良かった。姿恰好からして旅人の類なのだろうが、だとしても荷物らしきものが見当たらない。


 突如としてアンナの世界に入り込んできた、その正体不明な男の存在は、彼女にしてみれば晴天の霹靂も同然であった。孤児院にやってきてから数年が経過するが、これまで余所者がこの地にやってきたことなど一度もなかったからだ。


 度重なる異常気象と狂暴化した獣たちの騒乱に押しつぶされて、今となってはこの辺りに通じる主要な交通経路は消滅してしまっている。双眼鏡で遠くを眺めてみても、この森を除けば、周囲に広がるのは灰色の砂漠地帯。


 言ってしまえば、ここは陸の孤島なのだ。ただの人間が偶然の果てに訪れることなど不可能と言って良いくらい、情報も物流も遮断されてしまっている。


 だからこそ、こんな場所に見知らぬ男が倒れ込んでいることが奇妙に感じられた。それと同時に、余計な不安感を抱きかねないきっかけにもなった。


 アンナの矮躯。その内側で少しずつではあるが警戒心が膨れ上がる。だが、気づけば彼女はバケツを放り出して男の下へ駆け寄っていた。


 本能的な動作であった。目撃してしまった以上、黙ってこの場を後にするのは気が引ける。結局のところは、彼女のお人好しな一面が勝ったのだ。


「あ、あの! 大丈夫ですか!?」


 男の傍に座り込んで声をかけながら体を揺らす。反応はない。気つけのつもりで両手の平で掬った水を顔にかけてみるが、透明な滴は男の武骨な肌を滑るばかりで、目覚めに一役買うことはなかった。


 まさか、死んでいる……? 


 脳裡(のうり)を過った不吉な展開を振り払おうと、今度は男の顔に片耳を近づけた。かすかではあるが、浅い息吹が鼓膜を揺らした。


「良かった。息がある」


 アンナはその後も、何回かに分けて男の顔に水をかけ続けた。レザージャケットの襟元を水滴が流れ、男の太く硬い首を濡らしていく。


 やがて、


「ごほっ……!……ごほっごほっ……!」


 流れた水が鼻に入ったせいで、男が咳音を零す。そうしてうっすらとではあるが眼を開いた。男性にしては長い睫毛が、木々の隙間から差し込む光を受けて、かすかに輝いている。


「あ! 気が付きましたか!?」


 慌てて声をかけると、呻き声一つの後に、男が声らしい声を発した。


「ここは……どこだ……?」


 アンナは答える事ができなかった。先の大戦で、地形が変わるほどの大被害を被った土地の数は知れず、元々あった名を喪失した地域は多い。彼女が住処としている孤児院も、そんな『記憶を喪った土地』の一つだった。


「場所は……すみません。私も余所から来た身なので、地名については全く……」


「……」


「私、アンナって言います。あの、差し支えなければ、あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」


「名前……俺の名前か……?」


 呆けたような表情を浮かべ、男はしばし黙した。霧の中を彷徨っているかのように視線をせわしなく動かし、そうして突いて出た言葉は、少なくともアンナの胸中を大きく揺さぶるに十分な威力があった。


「名前が……駄目だ……思い出せない。俺は一体、誰なんだ?」


 男もまた、記憶をなくしていたのである。





 ▲▽





 その二階建ての建物は、孤児院と言うには、あまりにも暖かみからかけ離れた外観をしていた。


 打ちっぱなしのコンクリートは長年に渡って雨風に晒され続けた結果、あちこちに黒い染みがあって、まるで虫食いのようだった。窓と呼べるものはどこにもなく、さながら前大戦時に人類が築き上げた前線拠点基地を彷彿とさせるような気配を漂わせている。


 しかしながら、それはあくまで建物の見てくれだけの話だ。屋内には必要最低限の家具や調度品が備え付けられており、なにより活気に満ちている。


 事実、裏手にある貯水タンクへ泉からの水を汲み入れ終えたアンナが、ドアを開けて中に入った途端、和気あいあいとした幼な声が弾け飛んできた。


「アンナお姉ちゃんおかえり! 絵本の続き早く読んで―!」


「お姉ちゃんお腹すいたー」


「お姉ちゃん! 鬼ごっこやろーよー!」


「だめだよ! お姉ちゃんはわたしたちとあそぶんだからー!」


「そうだよー!」


 女児が三人と男児が二人。合計五人の子供たちの巣。その中で最年長たるアンナは、彼らの保護者的立ち位置にあった。


 服の裾やら腕やらを掴んで引っ張り、自分を取り合う五人の小さな妖精たち。微笑ましいと思ったことはあれど鬱陶しいと感じたことは一度も無い。子供たちの愛嬌ある騒々しさは、孤独と哀しみを打ち消すのにはうってつけだった。


「はいはい、みんなあまり騒がない。ミシェル、絵本の続きは太陽様がおねんねしてからね。ケント、お昼ご飯すぐに作るから、大人しく待ってなさい。鬼ごっこはその後にしましょうね、ホーミン。チルとミカも、みんなで仲良く遊ばなきゃだめよ」


 子供たちが返事を寄こす代わりに押し黙った。アンナの言葉で諫められたからではない。彼女の後ろに立つ見知らぬ長身の男の存在に、遅れて気付いたせいだった。


 誰が口にするまでもなく子供たちは距離をとった。全員の目に警戒と不信の色が見て取れる。


 アンナは、そんな子供たちの感情の揺れを機敏に感じ取ると、いらぬ誤解を解いてあげようと穏やかに口にした。


「みんな、そんなに怖がらないで。この方は旅の人で、森の中で倒れていたの。そんな態度をとったら、可哀想でしょう?」


「別に、俺は構わないが……」と、男が言った。重石がゆっくりと転がるような、そんな調子で。


「何言っているんですか」と、アンナが困惑気味に言う。「こんな時代なんですし、みんなで助け合わなきゃ。記憶が戻るまで、ここにいていいんですからね」


 そう言って、今度は子供たちの方へ向き直る。


「という訳で、今日からこの方もこの家で生活することになったから。みんな、仲良くしてあげてね」


 一拍遅れて、子供たちは無言で頷いた。


 幼いながらも戦火を潜り抜けて安住の地を見つけ、頼れる保護者たるアンナを迎えた子供たち。そんな彼らにとって、謎めいた記憶喪失者の出現は、言いようのない不安の到来に思えてならなかったのだろう。


 男の方もまた、子供たちにどんな態度を接して良いか分からないのか。あるいは、そもそも子供に興味がないのか。相好を崩すこともなく、赤いレザージャケットに覆われた肉体同様、冷たい鋼を彷彿とさせる相貌のままでいる。


 男と子供たち。

 両者の間に、目には見えない溝が刻まれていた。


 溝は、男が孤児院に出迎えられて幾日かが経過したくらいでは埋められない程度には深かった。


 そもそも、男の方から子供たちに声を掛けることも、あるいは、子供たちの方から男に近寄ることも無かったから、当然と言えば当然の事だった。


 数日過ごしても、男は自分の名前をどうしても思い出す事ができなかった。なので仕方なく、仮の名を名乗ることになった。その方が便利だと、思ったからだ。


 ステア――この時代の言語で〝放浪者〟を意味する言葉。我ながら、見事に自分の状況を的確に言い表している言葉だと、男は思った。


 それと同時に、やはり奇妙な感覚から抜け出せなかった。地面があるのを確認出来ていながら、地に足が着いていない。そんな感覚。


 人間の記憶。その種類は様々に分類されている。

 ステアは、俗に言う『エピソード記憶』と呼ばれる記憶領域に、深刻な障害が発生していた。


 別に診断を受けたわけではないが、何となくそうなのだろうという自覚があった。


 この世界で何があったのか。人類がいま、どれだけ危機的な状況下に立たされているのか。そういった、いわゆる『意味記憶』には何の問題もないのに、自分個人の体験や想い出といったものは全て脳裡から欠落し、どれ一つとして定かではない。


 自分が何者なのか分からない――それは、本当に恐ろしい事なのだ。

 ならば知るべきである。自分が何者で、どこからやってきたのかを。

 やけに、そんな風に思えてならなかった。


 あのアンナと名乗る女には感謝してはいるが、何時までもここにいるべきではないと、男は自身に言い聞かせた。


 早く記憶を取り戻さなければ――行き場のない焦りだけが胸の奥で火を上げて、ただでさえ動かぬ唇と舌が、ますますの沈黙に陥った。


 記憶を求めて懊悩とする男が食卓に一人混じれば、アンナ手作りの質素な料理を食べる子供たちが、居心地の悪い空気感に苛まれてしまうのは当然の話だった。


 ステアに場の空気を乱す気がないのは分かっているから、アンナもどんな対応をして良いのか分からない。 


 人間関係という名の歯車にゆっくりと、だが確実に齟齬(そご)が生じ始めていた。


 どことなく、ぎくしゃくとした関係が続いた、それは、とある日の午後の事だった。

 ステアと子供たちの溝に、微妙な変化が訪れたのは。


 その日、ステアは二階にある個室のベッドの上で、何をするでもなく横になって、木目の天井を見上げていた。


 アンナと子供たちの個室は一階部分にあって、二階には部屋が二つある。その内の一つを、ステアはあてがわれていた。元々は物置として使われていたせいで、まだ埃っぽさが鼻をつく。だが、自分のような放浪者の為に、部屋の掃除をしてくれたアンナの労力を思えば、贅沢は言っていられない。


「(……なんだ?)」


 耳朶(じだ)をくすぐる騒めきが、彼方から聞こえたような気がした。微睡みかけていた意識を揺り起こし、ベッドから離れて窓に近づく。


 庭先を覗くと、着古した服に身を包んだ子供たちが騒いでいるのが目に入った。


 よくよく見てみると、近くに立つ木の枝葉に風船の紐が絡みついている。そのすぐ傍で、ありったけの声を上げて泣き喚く幼女を、アンナが必死に慰めていた。


 他の子どもたちは何とか風船を取り返してやろうと、木によじ登ろうと試みては失敗したり、遠巻きにそれを眺めたりで、にっちもさっちもいってはいない。


 その時、ステアは――あとで彼自身が考えてみても、この時ばかりの心の揺れ動きを定かとして思い出せなかったのだが――何を思ったか窓を開け放つと、ひょいと二階の高さから、その木へと飛び移ったのである。


 そればかりか、風船を割らぬように器用にも紐を枝葉から取り外すと、またまた鳥のようにその場から飛び、軽やかに地面に着地して見せたのだ。


 その一連の動作を、子供たちも、そしてアンナも、ぽかんと口を開けて眺めているしかなかった。


「ほら。取り返したから、もう泣くな」


 それなりの高さを持つ木から飛び降りたにも関わらず、足首を痛めた様子もなく、ステアはそう平然と言ってのけると、泣き腫らした目を向けてくる幼女の小さな手に、大事そうに風船の紐を握らせた。





 ▲▽





 子供というのは案外単純な生き物だと、ステアはそんな事を考えながら一階の居間でボロボロのソファーに身を預け、くつろいでいた。


 あの日――ミシェルという名の幼女に風船を取り戻して以来、子供たちの中でステアはヒーローとなった。


 ステアは基本的に日中はアンナの手伝いをして過ごしていたが、子供たちはそんな彼の回りで色々な事を聞いてきた。生まれはどこなんだとか、あんなに高い所から飛び降りて大丈夫なのかとか。とにかく彼の個人にまつわる色々な事を聞いてきた。


 だが、記憶喪失の彼に答えられようはずもない。ステア自身にも分からなかった。自分は一体何者で、どうしてあんな軽やかな身のこなしが出来るのか。なので子供たちの質問には、適当にあしらう以外に対処する方法がなかった。


 しかし、そんな彼の曖昧とした態度は子供たちの好奇心を焚きつける一方だった。しつこい問いかけは終わりをみせず、これには流石のステアも苛立ちを隠し通すので精一杯だった。


 だが、彼が子供たちを怒鳴りつけることはなかった。イライラが暴発しかねる際、決まってアンナがおかしそうに声を上げて笑うものだから。


『ほらほら、ステアさんが困っているでしょ? みんな、あっちのお庭で遊んでいらっしゃい』 


 慈母のような微笑みで優しく声をかけると、子供たちは素直に従った。そんな様子を見て、アンナは子供たちにとっての母親代わりという以上に、精神的支柱としての役割も担っているのだと、ステアは思った。


「むかしむかし、あるところに、とてもお金持ちな国がありました」


 今もアンナはその役目に従事している。


 大方の子供たちが寝静まった深夜。静かにゆらめく燭台に照らされて、ミシェルの布団のすぐ傍で、アンナはひそめた声色で絵本を読み聞かせてやっている。


 その様子をソファーに座りながら何を思うでもなく、ステアはじっと眺めていた。


「国には多くの人間たちが住んでいましたが、ある日、彼らは働くのをやめました。人間よりもずっとかしこい、働き者のロボットたちを造ったからです」


 人造人間、ロボット――あるいはアンドロイドと呼ばれる、人の姿をした機械人形の登場は、長い人間の歴史を見ても画期的な出来事だったに違いない。


「ロボットたちは、人間に気に入られようと、いっしょうけんめいお仕事をしました。しかし、人間たちは彼らと友だちになろうとはしませんでした」


「どーしてー?」


「ロボットはね、人間と違って、涙を流すことができないの。涙が出ないと、お友だちと認められなかったの」


「ふーん」


「……人間たちは、ロボットをドレイとして扱い続けました。それでも、ロボットたちは文句も言わず、まじめに働き続けました」


「ドレイって、なにー?」


「遊んだりすることを禁止されて、ずーっと働かされるの。それを、ドレイって言うの」


「ふーん。なんだか可哀そうだね、ロボットさん」


「そうなのよ」


 アンナの声が部屋の壁に刻まれた影に同調するかのように昏く落ち込んだ。


「だから、私たちはロボットさんに『ごめんなさい』しなきゃいけないの」


「ごめんなさい……」


「ミシェルは謝らなくていいのよ」


 アンナが薄く笑った。ミシェルが眠たそうに目を擦ったのを見て、彼女はそっと絵本を閉じた。


「さ、もう遅いから、寝ましょうね」


「うん。おやすみなさい、アンナ」


「おやすみ、ミシェル」


 燭台に息を吹きかけると、部屋が薄青い闇に包まれた。


「良い子たちばかりでしょ?」


 アンナが振り返って、ステアの隣に腰かけた。


「みんなたくましいの。私がここに来る前から、自分達だけの力で生活していたんだもの。最初は打ち解けるまでに時間がかかったけど、貴方はもっと早かったわね」


「絵本の結末、どんな終わり方なんだ?」


 ステアは顔を軽く上げると、アンナの小脇に抱えられている本に目を向けた。題名は「にんげんさんとロボットさん」。児童向けのカラフルな装丁(そうてい)が、蒼い月光の差し込む室内でやけに眩しくステアの瞳に映り込んだ。


「最後は、いつも読まないの」


「読まない?」


「分かりきった悲しい結末を、あの子たちに教える必要はないでしょう?」


「…………」


「現実を知るのは、あの子たちがもう少し大きくなってからで、いいと思うの」


 現実――人間に酷使され続けたアンドロイドは、自らの手で軍用人工超知能を開発し、人類へ宣戦布告。対して、行き過ぎた科学兵器で武装した世界連合軍がこれを迎え討った。


 結果として人類は敗北を喫した。


 十年に渡る紛争の果てに得られたものは残酷という名の現実だけだった。地表は焼け尽き、海は毒の塊と化した。


 主要都市は全てアンドロイドの手に陥ち、残った人類は今もどこかでささやかな抵抗を繰り返している……だがこれらの経緯も、あくまで情報通信手段が途絶える前までの話だ。


 もしかしたら既に人類はこの孤児院にいる子供たちを除いて、全滅してしまっているかもしれない。その可能性だってある。あるいは、そうではないのかもしれないが。


 しかし手がかりもなしに不透明な現状を見定めようとするのは、とてつもなく労力のいる作業だった。そんなことは、不可能に近かった。


「未来を決めるのは、あの子たちよ。あの子たちがどう生きるかは、あの子たち自身の力で決める。私には、ほんの少しばかり、そのお手伝いができればいいだけ」


 アンナが寂しそうに微笑んだので、ステアは何と返事をして良いのか分からず、ただ、ぼうっと彼女の整った顔を眺めた。それから、ゆっくりと視線を周囲に移していった。


 手作りと思しき木製の本棚へ納められた手垢のついた絵本の数々。薄茶色に汚れた世界地図のタペストリー。年代物ながらも、大切に扱われているのが分かるフォークやナイフをはじめとする食器類が、棚の奥で眠りについている。そういった、清貧という言葉を絵に描いたような内装の至る箇所へ、意識の天秤を傾けている最中のことだった。


 その何とも例え難い感覚は、ステア自身の胸の奥へ、まるで一筋の光のように、唐突に差し込んできた、


 奇妙な既視感――前にも、自分はここに来たことがあるのではないか?


 引き裂かれた記憶の断片らしきものが、どこからともなく脳裡を掠めてきた。慌ててそれを意識のアームで掴もうとした時だった。不意に、窓から降り注ぐ青い光の波が途絶え、今度こそ本当の暗闇が到来した。


 その瞬間、脊髄を氷で撫でられたような鋭い不安感が襲ってきて、目の前で寝息を立てているはずのミシェルの顔が、だんだんと血色を喪ってきているように見えてしまった。


 これは……いったい、何だろうか。


 つややかな、剥きたての卵のようだったミシェルの肌が一気に茶色へくすみ、裂傷めいた皺が顔に幾重も刻まれていく。それだけでなく、シーツに流れる金色の長髪すらも、寒気がするほどの灰色へ瞬く間に変貌していった。


 すでに息絶えた幼子の死体が、気づけばベッドの上に横たわっている。


 ステアは思わず息を呑んだ。目の前に現実離れした光景が広がったせいで。そして、これは何かの間違いだと必死に自身へ言い聞かせた。強張った顔つきのまま、無意識のうちに心の天秤を平衡に保つことに努めた。


 そうして意識を体の中心へ持っていくと、やっぱりまだ青白い月はキラキラと輝いているし、ミシェルも(すこ)やかな寝顔のまま、ベッドを揺り籠にして夢の世界へ旅立っている。


 ステアは空恐ろしい空洞を抱え込んだままその場に項垂れ、暗闇の中でもはっきりと分かるくらいに浮かび上がっている床の染みへと目を向けた。


 いまさっき見た幻覚の正体について探ろうとしたが、なぜあんな光景を自分の意識が生み出してしまったのか。どれだけ考えても分からなかった。空っぽのバケツから水を掬おうとするようなものだった。


「どうしたの?」


 じっと黙ったままのステアを心配してだろう。

 隣に座るアンナが、顔を覗き込むようにして声をかけてきた。


「俺は……前にも一度、ここに来たことがあるのかもしれない」


 ステアが呟くようにして言った。どこか、助けを乞うような響きが含まれていた。


 アンナは目を丸くして「本当!?」と思わず大声を出し、それからばつが悪そうに、おそるおそるベッドの方を見た。しかし杞憂に終わった。声に反応して子供たちが目を覚ます気配はなかった。


 しばらくの間を置いて、ステアは難しい顔のまま、少し首を傾げながらも小さく頷いて、続けた。


「あくまで、『かもしれない』ってだけの話だ」


「もしかして、この孤児院の本来の持ち主だったりして?」


「さぁ……なんとも言えないな。今はまだ、なんとも」


「でも、その可能性だってあるんじゃない? だとしたら、先に謝らせて。勝手に家を使ったりして、ごめんなさい」


「いや、いい。もし仮にそうだとしても、別に、君が謝る必要はどこにもない。空き家同然なんだ。有効活用してくれて、嬉しいくらいだよ」


 普段は表情を表に出さないステアだったが、この時はほんの少しばかり相好を崩した。それからすぐに、岩を彷彿とさせる厳しい眼差しになって。


「でも……やっぱり、違うのかもな」


「自信がないの?」


「人間の記憶力なんて、たいしたもんじゃないからな。デジャビュって可能性も捨てきれない」


「……」


「どちらにせよ、俺は自分が何者なのか、知らなきゃいけない。このまま、自分の立ち位置があやふやなままなのは恐ろしいことのように思えるんだ」


 口にしている最中、不意に、彼の意識の中で存在感を顕わにしてきたものがあった。


 二階の部屋。自分が寝床に使用しているのとは別にある、子供たちが『開かずの部屋』と呼んでいる一室。太い鎖とごつい錠前を備えて何人の侵入を拒むその部屋には、アンナも入った事がないと言う。鍵があるはずなのだが、失くしてしまったらしい。


 もしかしたら、あの部屋に何かがあるんじゃないだろうか。喪われた記憶。そこへ至る道を照らす灯が隠されているんじゃないだろうか。


 そんな根拠のない妄執に囚われかけた時だった。


「私、何となくだけど貴方の気持ちは理解できるつもりよ」


 なぜなら、と彼女は続けて、衝撃的な一言を告げた。


「私も、貴方と同じ、記憶喪失者だから」


「なんだって?」


 ステアが今度こそ本当に意外そうな顔つきになった。


 アンナが声を潜めて笑った。暗闇に満ちた洞窟の中で、ようやく探し求めていた仲間と出会えたかのような、そんな安心感を覗かせるような笑みだった。


「しかも私の場合、もう思い出せないって決まっちゃっているの。どこで産まれたか、どんな故郷だったか、もちろん、両親の顔だって分かんない……私、病気なのよ」


「病気……」


「偶発性記憶欠乏症。それまで自分が経験してきた事とか、想い出とか、みんな忘れちゃうの。発症したのが十歳の時でね。それ以前の事は全部忘れちゃった」


「でも、それぐらいの年なら、まだ親も……」


「もういなかったの。死んじゃったのよ。流行病で。しかもその時、私は避難用のコロニーで生活していてね。戸籍謄本を見せて軍の人に聞いたら、私の生まれ育った故郷は、もうアンドロイドたちに蹂躙されて、焼け野原にされちゃった後だったの。どうしようもなかったの」


 諦めにも近い、どこか寂し気な笑みを浮かべてアンナは言った。喪われた過去に想いを馳せようにも、それができないもどかしさに苦しんでいるようにも見えた。


「すまない。変な事を聞いてしまって」


「いいのよ。私にとっては、過去は振り返ろうにも振り返れないものだし。それに何より、ここに来てよかったと思っているの」


 アンナは視線をベッドへ動かし、慈愛のこもった眼差しで彼らを見た。アンナの心を常に賑やかしてくれる、可愛らしい五人の妖精たちの寝顔を。


「強がりで言っているんじゃないのよ。それは分かってくれる?」


「ああ」


「私は、もう二度と過去を取り戻す事はできない。でも貴方は……違うわ。きっと取り返せる。それでね、もし取り返せたら大事にして欲しいの。貴方の過去を。貴方だけの思い出を。それを、私の分も大切にして欲しい」


「良い過去なのかどうか、分からないけどな」


「それでも」


 アンナは、ステアへ向き直って言った。


「大事にして欲しいわ。だって過去は記憶の宝だもの。その人にしか味わえない、とっておきの宝なのよ」





 ▲▽





 それから、二ヶ月ほどの時が過ぎた。


 ステアは相変わらず記憶を取り戻せないままでいたが、今ではもう、その事に対して深く思い悩み過ぎないようになっている。アンナと、そして子供たちとの触れ合いが確実に彼の心を解きほぐしていった結果だった。


 自分が何者であるか。それが分からないまま毎日を過ごすことに、ステアはどこか負い目を感じていた。


 果たして、自分がこの場所にいて良いのか? 

 本当はもっと、別にいるべき所があるのではないか? 

 そんな風に後ろ向きでいた彼の心を、前へと引っ張ってくれたのだ。

 間違いなく、アンナと子供たちが。


 ステアの毎日は充実していた。朝からアンナの仕事を手伝い、すっかり打ち解け合った子供たちと庭先で遊び、日が暮れれば夕食作りに精を出し、夜は子供たちと軽いボードゲームをして楽しんだ。


 そうやって過ぎていく時間の中に身を置いているうちに、ステアの中で何かが着実に変わっていった。


 このままでいい――現実を受け入れ、そして楽しむ心が芽生えていた。


 自分が何者であるかは己の記憶が定めるのではない。自分を認めてくれる者達がいて、初めて自分という存在が確立されるのではないか。そんな考えを抱くようになった。

 

 俺は俺のままで良いのだと、そう自然と意識できるようになっていた。それは本当に、ステアにとっては幸福なことだったに違いなかった。


 ある日の事だった。ステアとアンナが泉から水を汲みに戻ると、子供たちが一列に並んで玄関の前で出迎えてきた。


「何かあったのか?」


 ステアが訊くと、子供たちは緊張と恥ずかしさが、ない交ぜになったような顔色を浮かべたまま、もじもじと体を揺らすばかりで、誰も何も言おうとはしない。


 不思議に思ったステアが、再度問いかけようとした時だった。


「ほら、ミシェル、わたそうよ」


 赤いおさげにそばかすのミカが、隣に立つミシェルの肘をつついた。ミシェルはおずおずと前に出ると、後ろ手に組んでいた手を前へ持ってきた。


 ステアとアンナが感嘆の吐息を漏らしたのは、ほとんど同時だった。ミシェルの白く小さな手が、色とりどりの花々で編まれた花冠を包むようにして持っていた。


「すごいでしょー! 庭のお花さんたちを使ったんだよー!」


 ミカが満面の笑みを浮かべてそう口にした。


 ミシェルが両手を自分の頭に近い位置まで掲げて、「はい」と言ってその花冠を手渡した。アンナではなく、ステアに対して。


「これ、私たちからステアお兄ちゃんに」


 か細い声で、ミシェルが言った。ほんの少し、頬に赤みが差していた。


「俺に?」


「いつも遊んでくれているから、その、私たちからのお礼……」


 ステアはその時、はじめて、自分がどんな表情を浮かべているかを、鏡を見なくともはっきりと自覚できた。


 胸の奥を暖かい光に照らされるような感激を覚えたまま、彼はその日を過ごした。夜になり、ベッドに入っても、まだ喜びの念は消えなかった。闇が鳴りを潜めて太陽が顔を出した頃になっても、まだ。


 朝を迎えると、衝動のままにステアは森へと入っていった。何かお返しをしたい。その一念のままに足を動かし続けた。いつもとは違うルートを進み、そうして彼は偶然にもそれを見つけた。


 崖下にひっそりと、だが一分の隙間もなく生え茂っている、鮮やかな紫色をした花の海を。


「すごい……!」


 あまりの見事な咲きっぷりに、ステアは感動の眼差しを崖下へと向けたまま、そこからしばらく動けなかった。鼻先を甘い蜜の香りが漂って、心地よい眠りへと誘われるかのようだった。


 やがて本来の目的を思い出すと、ステアは持ち前の運動神経を駆使して崖をすいすいと降りていった。


 ごつごつとした岩肌に指と足先を器用に引っ掛けながら、必要な分の花だけちぎって抱え、猿のように崖を登ると、興奮冷めやらぬまま、一気に孤児院へと駆け戻った。


「昨日のお返しだ」


 短いながらも愛情を含んだ声色でステアは言った。あまり喜んで貰えなかったらどうしよう、などと心の片隅では心配していたが、結果としては杞憂に終わった。


 子供たちは口々に喜びの感情を爆発させ、一人一人が花を受け取っては、花弁から立ち昇る甘い香りに酔いしれた。無論、「ありがとう」と、感謝の言葉も添えながら。誰もがその名も分からぬ花の虜になった。


「君にも、一輪あげるよ」


 ステアは少し恥ずかしそうに視線を逸らしながら、最後に残った花をアンナへ差し出した。

 子供たちが囃し立てる中、アンナは実に嬉しそうに頬を染めると、


「ありがとう。ステアさん」


 慈愛に満ちた女神のような微笑みを浮かべた。


 いつまでもこんな時間が続けばいい。ステアも、アンナも、そして子供たちも、きっとこの時、その心は一つだったに違いない。


 ――だがしかし、悲劇の影は静かに、そして着実に。


 彼らの足元へ迫っていたのである。





 ▲▽





 その常軌を逸した異変は、ある日唐突に、だがはっきりと、子供たちの肉体面に顕れた。


 咳が止まらない。それだけならよくある風邪と診断して良かった。


 実際、アンナとステアは野草から調合した天然の薬を飲ませるなどして、経過を見守った。すぐに治るものだと楽観視していた。今までもこういうことは何度かあったのだ。


 だが――今回ばかりは事情が違った。


「く、くるしい……お姉ちゃん……お兄ちゃん……」


「いたいよー、いたい、いたいよー! 喉が痛いよー!」


「せ、咳が……止まらない……」


 数日経過しても一向に回復の兆しを見せない。それどころか症状はますます悪化していくばかりだった。発症から三日間は高熱と咳に苛まれ、それから後が酷かった。


 顔に黄疸(おうだん)が生じ、腹が異様な膨らみを見せた。手や足の指が血の気を失ったように、付け根部分から真っ白になっていった。末端神経が壊死を起こしていた。


 ホーミンとケントが、血を吐き出し始めた。ミシェルに至っては、夜中に白目を剥いて奇声を発するようになった。


 ただの体調不良ではない。それは明らかだった。未知の病原菌に侵されたのだ。


 そこまでは分かった。だが、その先が分からなかった。どんな対処法を講ずるべきかが。アンナは無論、ステアにも手の打ちようがなかった。


 苦しむ子供たちを前に、成す術は残されていなかった。野草から調合した薬など、なんの気休めにもなりはしなかった。


「すぐにでも病院に連れていこう」


 最悪の結末だけは回避しようと、震える声でステアは言った。


 だがアンナは否定的だった。この辺りに病院なんて何処にもない。涙声になりながら、無情にも過ぎる現状を彼女は告げた。


 それでもステアは我慢がならなかった。探してみなければ分からないと孤児院を飛び出した。だが半日歩き回っても、病院はおろか建物一つすら見つけ出せず、結局戻ってきた。


 玄関のドアを開ける際に、ふとステアは、いまさっき自分が歩いてきた道の方角へ視線を動かしてみた。


 そこには、道らしい道など一つも無かった。丘の上から見渡せるその景色を彩るのは、寂寞たる灰色の砂漠だけだった。


 地平線の彼方にまで伸びる、それは死の世界だった。死神の群れが獲物を求め、音も立てずに、荒野の向こうから孤児院へ忍び寄ってくる。


 そんな恐るべき幻影を思わず抱いてしまうくらいに、ステアの心はズタボロになっていた。


 発症から五日目を過ぎた頃、崩壊が始まった。子供たちの肉体の崩壊が。


 全身に大小様々の真っ黒な斑点が刻まれ、そこから穴でも開けられたワイン樽のように、とめどなく血が流れ出しはじめた。黒く濁った血が。


 鼻が捻じ曲がるほどの腐汁にまみれ、次に子供たちを襲ったのは『痒み』だった。


 全身を貪り尽くすような痒み。それに耐えきれなくなって顔や背中を掻くたびに、皮膚が捲れて真っ赤な肉が抉れた。


 腐った爪がべろりと剥がれ落ち、それでもなお壮絶な痒みから逃れようと、子供たちは全身を掻き毟った。


 ミシェルに至っては、包丁で自分の足を切り落とそうとしたぐらいだった。


 誰しもが正常さを失っていた。


 発症から六日目。


 汗腺を通じて、以前よりもさらに大量の腐血と腐臭が撒き散らされていった。腹もどんどん膨れ上がっていた。壊死した内臓が腐って、大量のガスを小さな肉体の内側で生じさせているせいだった。


 黒い斑点は一昼夜を越えて、以前よりもさらにその数を増していた。


 斑点は浮腫(ふしゅ)のように粟立ち、全身を侵し、ちょっとした衝撃で弾けていった。その度にべっとりと粘り気のある血が撒き散らされ、ベッドのシーツや枕を汚していった。


「あ、が……ぎ……」


「だ……ずげ……」


「ぐふぅー!ぐふぅー!」


 ぶつぶつとした浮腫は口腔内にまで無数に生じ、あっけなく舌が腐り落ちた。


 子供たちはご飯を食べるどころか、言葉すら話せなくなっていた。ただ、狂気と苦しみに苛まれ、必死に助けを乞うような眼差しをアンナとステアへ向け、ごぼっと血を吐き出しながら、奇妙な呻き声を上げるばかりだった。


 異変は、やがて眼球にまで顕れ始めた。瞳が二倍近くにまで膨れ上がった。そのせいで瞼が圧迫され、瞬きは出来なくなり、常に瞳は剥き出しのままになった。乾燥しきった眼球は埃を被って灰色に濁り、絶痛を伴いながら完全な失明状態へと陥った。


 誰しもが、可愛らしく元気だった頃の面影を失くしていた。病魔に蝕まれ、さながら生ける屍と化してしまったかのような凄絶さだけがあった。


 そして、発症から一週間が経過した真夜中。


 憔悴と絶望に染まったステアとアンナの目の前で、子供たちは次々にその幼い命を散らしていった。


 体内で生じた腐臭ガスが膨張を続けた挙句、逃げ場を失くして一気に破裂したのだった。


 棒で思いきり叩かれたスイカのように、どす黒く変色した血肉をベッドの上に激しくばら撒いて、子供たちは死んだ。


 シーツは、下水めいた臭いを放つ血の濁流を吸収しきれなかった。


 床に、腐った血の池が出来上がった。


 ミシェル、ケント、ホーミン、チル、ミカ……かつて名前があった、その物言わぬ腐った肉塊たちを前にして、地獄めいた現実に撃ち抜かれたステアとアンナの心の内を図ることなど、誰にも出来はしなかった。





 ▲▽





 黎明の降りた、ある日の朝。


 淡い薄紫色に染まりし寒空の下で、黒煙が絶え間なく天へ向かってたなびいている。


 ステアは虚無を抱いた人のように表情から色を失くし、燃え盛るベッドとシーツと、それから極めて強い腐臭を放つ遺体の山を、ただ茫然と眺めていた。


 今の自分に出来る事と言ったら、それしかないように思えてならなかった。肉は焼かれて煙を上げているのに、それがどんな臭いを放っているかは、どうやっても感覚できなかった。


 六人分のベッド。六人の遺体。


 壮絶な最期を迎えた命たちの苦しみを浄却するように、火はいつまでも赤々と咲き狂い、ステアの瞳の奥に痛烈な印象となって残った。


 子供たちが亡くなったあと、アンナもまた後を追うようにして死んだ。


 全身から血を流して。


 同じ病に罹って。


 想像を絶するほどの苦しみに侵されながらも、アンナは努めて明るい調子の声でステアに願い出た。それは鋭い矛となって、ステアの体の中心に突き刺さった。


『私を殺して』


 底の見えない悔しさに唇は震え、ステアの心が絶叫を上げた。


 濁流が押し寄せてきて、一切の光を拒絶する暗闇へ自分達を押し流そうとしているビジョンが沸いて消えなかった。心臓は恐怖に高鳴り、体中の節々が哀切に悶えて仕方なかった。


 そんなこと出来るはずがない――聞き分けの悪い駄々っ子のように首を振りながら、呑めない要求だと一蹴した。頼むからそんな恐ろしい事を口走らないでくれと。


 だがそれでも、アンナは縋りついてきた。


『ひどいお願いだっていうのは理解してる。でも私、腐った体を貴方の前に晒したくない。どうせ死ぬなら、人間のまま死んでいきたいの。お願い。分かって。貴方に殺されるなら、私、嬉しいわ』


 諦めを含んだ声色だった。黒い斑点に覆われて血の気を失くし、枯木めいてしまった彼女の手をしっかりと握り締め、ステアはさめざめと泣いた。


 一体どこで何を間違えてこんな結果になったのか、本当に理解出来なかった。


 炎は何時間もかけて遺体を滅し、ステアの世界を燻していった。


 すっかり元の形を喪失した命の残渣を眺め、しかしステアは泣けなかった。人間、本当に心が痛めつけられると涙すらも出ないものなのだと、体験したくもなかった感覚に打ちのめされた。


 遺灰を庭に撒き、適当に見繕ってきた長細い石を突き立てた。最後に花を――あの麗しくも愛らしい小さな紫色の花を一輪だけ添えて、それで彼女たちの墓標は完成した。


 そこでようやく安心したせいだろうか。硬く冷え切っていた涙腺が獰猛な熱を取り戻し、決壊し、ステアはその場に膝をついた。


 己の涙で地面が湿り気を帯びていく中、ステアは必死だった。必死でばらばらに砕け散りそうな心を、精一杯きつく締めなおした。


 完全な孤立は浮遊感に近かった。繋ぎ止めて置くものがないのだ。いまやステアは独りぼっちになった。だが自暴自棄になることはなかった。自ら命を絶つことも。


 あれだけの惨劇があったとは言え、想い出の詰まった孤児院を離れる気には、どうしてもなれなかった。


 いつまでも、ここにいよう。

 彼女たちの傍を、離れるわけにはいかない。


 そう胸に近いながら、やがてゆらりと立ち上がって、幽鬼のような表情のままに庭を後にした。


 賑やかさは遥か遠くに離れて、虚しくなるくらいに一階が広く感じられた。子供たちとアンナの血で汚れた壁を取り替えようかとも思ったが、しばらく考えて止めにした。


 他にやるべきことがあった。遺品の整理だ。アンナや子供たちの私物を一つ一つ整理してやること。それが今の彼に残された唯一の選択肢だった。


 遺品整理の作業中、ステアは、食器棚の上に置かれているある箱に目がいった。薄いスチール製のそれは、恐らくはアンナの持ち物なのであろう。だが何が入っているかまでは分からない。そもそも、あんなところに箱なんて置いてあっただろうか? 


 ステアは軽く背伸びしてその箱を両手に取った。植物の意匠が施された箱の表面は埃で薄汚れており、長い事使われていなかったことがわかる。


 蓋を開けて中身を確認してみると、カフスボタンやマチ針、ボビン、布切れが散乱していた。


 アンナが使っていた裁縫道具だろうか。しかしよくよく思い出してみれば、彼女の裁縫箱はもっと質素だったはずだ。とすると、あるいはこの孤児院を経営していた誰かの持ち物であろうか。


 取り留めもないことを考えている時だった。ステアの表情に驚きが亀裂のように広がっていって、彼はしばし、裁縫箱を手にしたまま、視線をある一点へと注いだまま静止するしかなかった。


 乱雑に纏められた裁縫道具の中に、どういう訳か一つの『鍵』が、まるで深海に迷い込んだ青魚のように、ぽつねんと存在していたのだ。


 見つけられるのを、今までずっと息を潜めて待っていたのか。ステアには何となく、そんな風に思えてしまってしょうがなかった。


 そしてまたステアには、その『鍵』がどの部屋のドアを開ける為のものか、ほとんど直感的に理解できた。


 二階の部屋。自分が寝床として使っているのとは違う、子供たちが開かずの部屋と呼んでいた、あの何とも言えぬ雰囲気に侵された一室……


「…………」


 気づけばステアは鍵を手に立ち上がり、二階へと続く階段を登っていた。それこそ、心が肉体を先導している状態と言って良かった。


 本能的、というのとはまた少し違う感覚。たとえるなら、特に食べ物に飢えている訳でもないのに、鼠を必死になって追い回す猫になったかのような。意味付けされた突発的な情動とでも言おうか。


 ぎしぎしと音を立てて、ステアは階段を登りきると右へ曲がり、一本道の廊下と巡り会った。右手にあるのが、かつては物置として使われ、今はステアの個室にあてがわれた部屋だった。


 そして真正面。廊下の突き当りにある部屋が、開かずの部屋。


 訳も無く緊張した顔つきのまま、ステアは静かに鍵穴へ鍵を差し込んだ。やや力を込めて回してみる。木造りの扉が、耳に障る音と共にゆっくりと手前側へ空いた。


 長い事使われていないせいで、中は思った以上に埃っぽかった。鼻がむず痒くなり、くしゃみが出そうになるのを抑えながら、ステアはゆっくりと視線を部屋の至るところへ注いだ。


 不気味な人形が飾られていたり、白骨化した人体があるかもと思っていたが、意外にも部屋はきっちりと整理整頓されていた。


 雑多な荷物らしきものは一つも見当たらない。実に質素な内装だった。生活感から程遠く離れた部屋、という印象をステアは抱いた。


 小さな窓枠は靄がかかったように白く、外からの光を十分に取り入れているとは言い難い。壁際の本棚には申し訳程度に数冊の本が横倒しに押し込まれているだけだった。簡易ベッドにかかったシーツもよれよれで、ところどころに黒ずんだ染みがある。


 漫然とそれらの調度品を見回していた時、不意に、ステアの心を捉えるものがあった。


 それは壁際に置かれた、なんの変哲もない大きめの木製机だった。


 ステアは、まるで何かに引き寄せられるかのようにその机へ向かうと、おもむろに引き出しをこじ開けた。中に、古ぼけたA4サイズの、それなりに分厚いノートが、寂しそうに収められていた。


 こげ茶色の表紙。名前は書かれていない。長い間放置されていたせいで、紙は薄黄色に変色してしまっていた。めくってみると、ボールペンで達筆な字がびっしりと書かれている。どうやら、日記の類らしかった。


 ステアは、どこか緊張した面持ちで、その日記の内容に目を落としていった。





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 六月七日――晴れ

 今日から日記をつけてみようと思う。この四十年間余りの人生で、日記など一度もつけたことのない私だが、妻が『何か趣味でもお持ちになったら?』というので、折角の事だし、やってみようと思う。仕事が忙しいから、おそらく毎日つけることは無理だろうが、それでも可能な限り、続けていこう。



 六月九日――晴れ、時々、雨

 朝から研究所に出向き、夕方には帰ってきた。電車通勤を止めにして歩いて出勤するようになってから、随分と体の調子がいい。今日の晩御飯は妻手作りのポトフと、ライ麦パン。食後には、ダグラスから貰った赤ワインを妻と二人で空けた。孤児たちが寝静まった後、妻と二人で飲むワインのなんと美味なことか。そしてきっと、近いうちにこの喜びを、三人で分かち合う時が来るだろう。そう、三人で。



 六月十三日――曇り

 朝から嫌なニュースを聞いた。大統領官邸前で、アンドロイドの生存権利反対派のデモがあった。参加人数はおよそ二百人だと言う。鎮圧の為に、機動隊が出動する事態にまでなったようだ。嘆かわしい。アンドロイドも人間も、同じ知的生命体であろうに、何を区別する必要があると言うのか。



 六月十五日――晴れ

 今日で日記をつけてから八日目になる。三日坊主にならなくて良かった。今日は仕事が休みだったので、子供たちと庭でキャッチボールをして遊んだ。子供はいい。純粋で可愛らしい。それに比べて、大人は偏屈な奴らばかりだ。唯一、ダグラスと妻を除いて、私が心を許せる大人などいない。



 六月二十一日――曇り、時々、雨

 アンドロイドの生存保護法案をまとめるにあたっての、有識者会議が開かれたので、出席してきた。生体工学者としての立場はもとより、一人の人間として、めずらしく熱弁を振るった。与党の幹部たちはこの法案を、選挙の為の道具としてしか見ていないようだったが、私は違う。私は、アンドロイドにも人権を与えてやるべきだと考える。



 六月二十六日――晴れ

 ついにこの日がきた。どれだけ楽しみにしていたことか。私と妻に『娘』ができたのだ。喜ばずにはいられない。マルドゥック社は、実にいい仕事をする。こちらの注文通りのアンドロイドを生み出してくれた。目元は妻に似て優しく、髪の色は私と同じ金髪の、九才に調整されたガイノイド。私たちの胚細胞を使ったのだから、似ていて当然だ。名前は既に決めてある。アンジェリカ。実に彼女に相応しい、可憐な名前だ。今日は面会だけに終わったが、明日、彼女を引き取りにいく。明日から、きっと素晴らしい毎日が幕を明けることだろう。本当に、最高の気分だ。私は無神論者だが、今日ばかりは言わせてもらおう。神よ、子供に恵まれなかった私たち夫婦に、人生最高のプレゼントを与えてくださり、感謝いたします。




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「アンドロイドを娘に……そんな文化があったのか」

 日記を黙読しながら、ステアは一人頷いた。

 機械仕掛けの人形を実の娘のように扱う。人間とアンドロイドが完全に対立関係を迎えた今の時代には、考えられない発想だ。おそらくこの日記は、かなり昔に書かれたものなのだろう。少なくとも、十年以上は昔と考えて良いと、ステアは判断した。

 ステアは、しばし考え込むと、またページを捲り始めた。




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 七月二日――晴れ、時々、曇り

 アンジェリカが我が家にやってきてから、一週間ばかりが経った。最初は、うまく打ち解けあえるか心配だったが、なんてことはない。はなからそんなことを危惧する必要など、どこにもなかったのだ。アンジェリカは、良く笑い、良く食べ、良く話を聞いてくれる。仕草の一つ一つが愛らしく、いつまでも眺めていたくなる。妻は昨日から、彼女の為に夏服を作ってやっている。彼女の裁縫の腕は見事なものだ。きっとアンジェリカも気に入ってくれるだろう。



 七月十六日――曇り

 ヨーロッパ連邦が、とんでもない声明を出した。アンドロイドの居住区域を移設するというのだ。ボルドー原子力発電所跡地。あの凄惨なメルトダウンが発生した、あんな場所にアンドロイド達を住まわせるなど、常軌を逸している。彼らの肉体が生体パーツの塊であると知りながら、こんな愚策を取るのか。ヨーロッパ連邦は完全に、反アンドロイドの立場をとったようだ。もうあちらの学会に顔を出すことはないだろう。



 七月二十一日――曇り、時々、雨

 雲行きが怪しくなってきた。アンドロイド達の生存保護法案が、瓦解しかけている。法案創設メンバーの中から離反者が続々と出てしまっている。きっと、先日のヨーロッパ連邦の行動が、少なからず影響しているのだろう。何とかしなければ。アンジェリカの為にも。一人一人、説得していこう。



 八月十九日――雨

 どうして誰も分かってくれないのだ。アンドロイドをあくまで『奴隷』として扱い続けることが、如何に非人道的な行いなのか、なぜ理解しようとしないのか。馬鹿ばかりだ。ダグラスも説得には協力してくれたが、あまりいい返事はくれなかった。世界は確実に、間違った方向に進んでいると言ってもいい。



 八月三十日――晴れ

 今日は怒りの日だ。うちで世話を見ている孤児たちが、アンジェリカを虐めていたのが発覚した。アンドロイドなんて気持ち悪い……そういっていた。ふざけるな。許せない。私の愛しい娘に、泥を被せやがった。虐めに加わっていた奴らを思い切り殴ってやった。顔面を。何度も何度も。妻が止めてなかったら、殴り殺していたかもしれない。だが、それでも良かった。あんなガキは死ぬべきだ。私は正しい事をしたのだ。何も間違っちゃいない。



 十月九日――曇り

 生存保護法案が、廃案となった。



 十月十一日――晴れ

 カタール、イラン、アラブ首長国連邦。中東の国々で、紛争が勃発した。いつもの、宗教絡みの事案ではない。アンドロイドたちが、ついに人間に対して武装蜂起したのだ。この国はまだ戦火に巻き込まれていないが、いずれ、似たような紛争が各地で起こるだろう。だが、勝てるのだろうか。人間ではなく、アンドロイドが。いや、なんとしても勝って欲しい。勝って、愚かな人間どもの目を覚まして欲しい。彼らが勝てば、アンドロイド達の、ひいては、アンジェリカの社会的存在を世界に認めたも同然なのだ。私も、各地で講演を行う予定だ。アンドロイドたちの主張は正しいと、勇気を振り絞って叫ぼうではないか。



 十一月二十八日――雨

 ここのところ、ずっと雨が降っている。いつになったら止むのだろう。アンドロイド達の紛争は、着実に拡大を見せつつある。ユーラシアも、オセアニアも、日本も。安価な労働力として大量生産し続けてきたのが仇となったようだ。加えて、アンドロイド達は独自に開発した人工超知能を武器にして戦っているらしい。素晴らしい。人間なんかよりも、ずっとずっと、彼らには知恵がある。妻は何時にも増して私の活動を心配してくれているが、問題など何もない。



 十二月二十四日――雪、時々、雨

 今日はクリスマス・イブ。アンジェリカに、妻は手製のマフラーを贈っていた。私は、何を贈ろうか迷った挙句、彼女に良く似合う花柄の靴を買ってあげた。『ありがとうお父さん、お母さん』と、アンジェリカは心の底から喜んでくれた。三人でケーキを分けた。私は、そんなことする必要はないと言ったのだが、妻がどうしてもというので、仕方なく孤児共にもケーキを分けてやった。なのに、奴らは『ありがとう』とも言わない。誰が面倒を見てやっていると思っているのだか。まったく、ふざけたガキどもだ。



 一月二十二日――雨

 信じられない。新年早々、こんな事態になるとは。国際地球連合が、アンドロイド殲滅の為に核ミサイルを使用することを、全会一致で承認したという。信じられない。まさか。あってはならない。人類は、ここまで墜ちたのか。



 二月八日――晴れ、時々、雨

 ユーラシアを拠点に武装蜂起をしていたアンドロイドの一軍が、先日、わが国から発射された大陸間弾道ミサイルの餌食になった。二万人以上にも及ぶ彼らの大量死に、この国を代表し、懺悔の意志をここに記す。取り返しのつかないことをしてしまった。我々は、本当に侵してはならない過ちを犯し、それが今もなお、正しい事だと思い込んでいる。これ以上、哀しみを増やしてはならない。



 二月十五日――曇り

 私は今日、新たな一歩を踏み出した。ダグラスの紹介で、アンドロイド軍を支援する互助グループに加入した。構成員は私をはじめ、全員人間だ。だが私も、そして互助グループの会員たちもみな、人間以上にアンドロイドを愛している。私のように、アンドロイドを養子に迎えているメンバーも、何人かいた。研究所には、今日付けで辞表を出してきた。妻は反対していたが、何とか説得して理解してもらえた。問題はない。金なら沢山、貯金してきたのだ。生活には事欠かないだろう。



 四月四日――雨

 今日、家のポストに猫の死骸が入れられていた。怒りよりも呆れの方が強かった。こんな子供のような嫌がらせに、私が屈するとでも思っているのか。互助グループに敵対する奴らは多い。今や政府機関からもマークされてしまっているが、もし彼らの仕業だとしたなら、これは私にとっては僥倖である。なにせ、児戯にも等しい嫌がらせしか思いつかない知能の持ち主たちであると、証明されるからだ。



 五月八日――雨

 ダグラスが死んだ。車に爆弾を仕掛けられ、エンジンを入れた拍子に死んだ。私の目の前で。たった一人の友だった。政府機関の仕業に違いない。絶対に許せない。アンドロイドを助けたいと願う事は、それほどまでに間違った事なのか? いや、そうではない。私は正しい。ダグラスも正しかった。彼は彼なりの正義を貫いた果てに、殺されたのだ。彼の死を、無駄にする訳にはいかない。



 五月二十二日――雨

 明日からこの孤児院を離れることになった。妻も一緒だ。もちろん、アンジェリカも。先日のダグラス暗殺で、グループ内の緊張が高まり、家族全員でグループが用意してくれたホテルに避難することに決定したのだ。孤児院の経営はミネバに一任してあるが、彼なら問題ないだろう。このま




▲▽





 日記はそこで途切れていた。


 奇妙な書きかけの一文。そこに、疑いの余地もない、確かな違和感を覚えた刹那だった。


 ステアの脳裡の奥の奥で一つの閃光が鋭い軌跡を描いてはしり、気づいた時には、口の中にまざまざと血の味が蘇っていた。


 なぜそんな事態に陥ったのか。激しい混乱が胸中で渦を巻いた。頭をハンマーで思い切り叩かれたような、痛烈な衝撃を覚えた。


 錯覚だ――いや、違う。これは……


 ステアの大脳の襞に、そのビジョンは、容赦なく食い込んできた。


 ドアを蹴破り、黒々とした武器を構えた覆面の集団。


 室内を蹂躙する銃撃音の数々。


 けたたましく視界を埋め尽くす、マズルフラッシュの波。


 弾丸の嵐――絹を裂くような絶叫――血の飛沫を上げて崩れ落ちる人――女――


 そして――ステアはそこに、己の姿をしかと視た。


「はぁッ……!はッ……!」


 有りもしないはずの記憶が、しかしいま確固たる形を伴い、黒々とした大洪水となって押し寄せていた。膝が勝手に折れて、ステアはその場に力無く座り込んだ。


 荒々しい吐息が、唇の端から漏れる。


 それでも、視線を日記の内容からどうしても離せなかった。


 肉体の内側へ得体の知れぬ何かがスルリと入り込んでくる。なんとも形容しがたい不気味で奇妙な感覚が全身を蝕んで、しかし、それが感覚的に定着した途端に。


 ステアの記憶は完全に復活していた。





 ▲▽





『私』の目覚めは病院の薬臭いベッドから始まり、その時には既に人生の幸福を根こそぎ奪われた後だった。


 医者たちがチューブに繋がれた私の体を見下ろしながら何事かを話し合っている最中も、私は自分がいま、どんな状況にあるかを、正しく把握しきれてはいなかった。


 しかしそれでも、なんとなく。

 いや、確実に。


 胸の奥に鋭く穿たれた喪失の輪郭だけがまざまざと感じ取れた。それを意識する度に、耐え難い苦しみに襲われたものだった。


 私の身に一体何が起こったのか。その全容を把握したのは、私がベッドの上で目覚めた日の翌日の事だった。見舞いに来てくれたグループの構成員が、言葉を詰まらせながらも教えてくれた。


 互助グループが用意してくれたビジネスホテルへ移る前日の夜。グループに敵対する政府機関の連中が、ライフル銃を片手に孤児院へ押し込み、私たち家族の暗殺を企てたのだった。


 妻が死んだ。アンジェリカも死んだ。巻き添えを喰らって、孤児たちも死んだ。


 私だけが、ただ一人生き残った。


 それから数日の間、どんな心持ちで毎日を過ごしたかは記憶に定かではない。怒りに蝕まれていたのかもしれないし、哀しみに暮れていたのかもしれない。あるいは空虚のままに、日々を浪費していたのだろうか。


 すっかり干からびた私の心の奥で再び熱が産声を上げたのは、何気なく流れていた病室のテレビ映像を見てからだった。


 緋色の爆炎を吹き上げて発射される大陸間弾道ミサイルの数々。焼け野原と化した大地。産業廃棄物の違法投棄よろしく積み重ねられたアンドロイド達の遺骸。爆撃を繰り返す無人航空機――


 私の中で決定的な何かが弾けた。


 体調が回復し、退院した後。グループの手を借りて政府の目も届きはしない地下深くに潜った私は、とある研究に取り組み始めた。工学者としての知識を総動員して、私は『それ』に取り掛かった。


 人類を根絶やしにするための、兵器の開発に。


 良心であるとか、道徳であるとか。そういったもの全てが今この時の私にしてみれば、不純物そのものだった。そんなものに縛られている訳にはいかなかった。行動を起こさなければ、気が収まらなかった。


 妻と娘を殺された怒りと哀しみ……そして復讐心を原動力に、私は毎晩寝る間も惜しんで兵器開発に取り掛かった。研究室には誰一人として立ち入らせなかった。余計な邪魔が入る事だけは、あってはならなかった。


 幾月、幾年が経過したか……私の肌に無数の皺が刻まれ、頭頂部が禿げ上がってきた頃、ようやくその兵器は完成を迎えた。


 地上では、未だに人類とアンドロイドの戦争が続いていた。


 正直なところ、戦争が続いている現実に私はほんの少しだけ安心した。命を削って完成させたこの兵器を、宝の持ち腐れにする事だけは避けたかったのだ。


 私が開発した兵器――それは見かけは何の変哲もない、花の『種』である。


 だがその実、どんなに痩せた土地でもすくすくと育ち、たったの三分間という超短時間で花を咲かせ、毒の鱗粉を広範囲に撒く、それは正真正銘のバイオ・ウェポンであった。


 種は成長を遂げると紫色の花を咲かせる。花弁を直接手で触れようものならば、たちまちのうちに皮膚を通じて毒に侵される。その結果として惨たらしい最期を遂げるのだ。


 アンドロイドにとっては無害なただの美しい花であっても、人間にしてみれば神経系統や肉を腐らせる、それは猛毒の破壊者だった。既存のガスマスクでは防げないほど、鱗粉の粒子は小さく、それでいて秘めた力は偉大だった。


 紫色の花をつける種。私はそれに『マンドラゴラ』というコードネームをつけた。


 マンドラゴラの効果は予想以上にてきめんだった。なにせ、どんな大地でも花を咲かせるのだ。互助グループが保有する無人偵察機に大量の種を爆弾めいて搭載させ、敵拠点の真上から投下してやれば、たったの一夜で、そこは毒の鱗粉漂う死の土地となる。


 愉しかった。

 なんとも心地よかった。

 私の家族を奪った人間たちの命を、間接的とはいえ捻り潰していくこの『感覚』に、私は酔いしれた。

 最高に幸せだった。


 だがその幸せも、直ぐに消えた。急に虚しさが襲ってきたのだ。それは何も、良心の呵責に耐え切れなくなったから、では決してない。


 私も、あのように、破壊と暴力に蝕まれる『心』を宿した人間なのだと、そう自覚してしまったせいだった。


 人間は嫌いだ。私にとって大切なのは、アンドロイドだけ。アンジェリカだけだ。


 だというのに、なぜこの体は人間のそれなのか。どうしてアンドロイドのような緑色の血液で私の心臓は動いていないのか。なぜこの魂は、気味の悪いピンク色をした肉の牢獄に囚われているのか。金属繊維の束で全身を縛られる甘美に違いない未知の恍惚に、なぜ自分は浸れないのか。


 嫌だった。

 たまらなく嫌だった。

 人間として生きているこの現実が、堪らなく嫌だった。


 だから私は、決心したのだ。


 互助グループの協力の下、私はとある研究所に忍び込んだ。


 政府機関の直轄地……私の開発した兵器の力に押されて、反撃の狼煙を上げたアンドロイド軍の襲撃を受けて、研究所は打ち捨てられていた。


 それでも使える道具はあった。

 研究所の地下に、それはあった。


 半透明の液体を湛えた、どでかい円筒状の装置。その背面部から太いケーブルが幾束も伸びて、装置の隣に置かれた、棺と見まがうサイズの金属箱へと直結されていた。


 マインド・トランス・システム。


 この時代における、情報工学の粋を結集して造られた装置。互助グループの持つ情報の網から場所を絞り込み、ようやく私は、念願のそれへ向き合っていた。この肉体を捨て、魂だけを、あの箱の中に収められているアンドロイドの体へ移し替えるのだ。


 私の心は喜々とした躍動に満ちて、服を手早く脱ぎ捨てると、筒状の装置の蓋を開け、中へと飛び込んだ。


 互助グループの構成員たちは顔を強張らせながらも、私の言う通りに装置を起動させた。その様子を眺めているうち、私の意識はぼんやりとした薄い膜のような感覚に包まれていった。


 気づいた時には。

 私は分厚い棺をこじ開け、新たに得た肉体を実感した。


 戦闘用に調整を受けた、亜生の肉体。

 アンドロイドの肉体。


 赤いレザージャケットに覆われた、精悍な男の肉体。


 それが、生まれ変わった『私』だった。





 ▲▽





 絶叫。

 怒りと後悔。濁流めいた哀切。


 ステアは声にならない声を上げ、全身の血が煮え立つかのような感覚と共に哭いた。


 置き去りにしていた過去を取り戻してしまった今、自分が何者であるかを――出来ることなら目を背けたかったが――自覚せざるを得なかった。


 この日記を書いたのは、私だ。

 この孤児院は、私の住処で間違いなかった。


 魂の器を変える以前の出来事が凄まじい情報の密度を伴って流れ込み、それと同時に熱い滴が瞳から流れて、止めようがなかった。


「私が……」


 魂を、このアンドロイドの肉体に移した後。彼は互助グループを離れ、各地を転々とし、戦場という戦場を駆け巡った。アンドロイド軍の一員として。冥府へ旅立った愛しい者達へ手向ける、それは弔い合戦に近かった。来る日も来る日も、爆炎と硝煙の匂い立ち込める土地を疾風の如く駆け走り、多くの人間をその手にかけてきた。


 記憶を一時的に喪失してしまった原因は恐らく、度重なる戦闘によるショック。あるいは、魂と肉体の癒着が完璧でなかったせいだろう。マインド・トランス・システムは本来、転送先の肉体に、転送元の細胞片を移植してやる必要がある。転送後に生じる拒絶反応を最小限に抑えるためだ。


 だが彼に、そんな時間は残されていなかった。自らの命が長くないことぐらいは、十分に自覚していた。マンドラゴラの開発の最中に、彼は極微量の毒を浴び、もうあと少しで命が切れかかっていた。


 だから、細胞を移植している暇などなかったのだ。そこら辺で適当に見繕ったアンドロイドを、転送先のボディとして選ばざるを得なかったのだ。


 そのツケが、拒絶反応を起こし、それでも無理を押して闘争の最中に身を投じていった結果、記憶喪失という代償がついた。


「私が……私が……」


 それでも、かつて住んでいたこの孤児院へやって来れたのは、いったい何故だろうか。答えは直ぐに出た。魂が覚えていたのだ。心に刻まれた想い出の数々が、彼をここへ誘なった。そう考えるしかない。


 魂の記憶……だがそこには、穏やかな日々だけでなく、怨みと憎しみに満ちた感情が、とぐろを巻いて鎌首を持ち上げていた。それを今、確かにはっきりと、彼は身を以て知ったのだ。


「私が……!あの子たちを殺した……!」


 日記を握る手に、ぐっと力が入った。黄ばんだページが涙で滲み、嗚咽が漏れた。喘ぐように鼻水を流し、顔がぐしゃぐしゃになった。視界が滲んで、唸るような声だけが際限なく漏れた。


 あの森で、あの花を摘んだのは、きっと偶然ではないと、彼は思った。

 紫色の花……マンドラゴラの花。

 子供たちとアンナにプレゼントした、あの美しくも恐ろしい花。

 猛毒の、人間のみに効力を発揮するバイオ・ウェポン。

 そうとは知らずに、彼はあの花を持ち帰った。

 それでも実際は、どうなのだろうか。


「私が殺したも、同然じゃないかッ!」


 記憶は失くしても、だが魂の奥深くに刻まれた人間への恨み。憎しみ。

 それが無自覚にも発露した結果、彼らを殺してしまったのではないか。

 彼らへ向けた優しさの裏に、実は、人類への激しい怨念が渦巻いていたのではないか。


「おおおぉぉ……ッ!」


 脳裡を幾重にもはしる黒い疑念に蝕まれて、しかし男には、慟哭の涙を流し続けることしか許されなかった。





 ▲▽





 紅霞(こうか)に染まる叢雲の下で、男は靴紐を固く結び、小さめのバッグパックを手に立ち上がった。そのバッグパックは、アンナが生前、いつか必要になる日がくるかもしれないと男の為に作ってくれた逸品だった。


 きっとアンナは、男が自分達の下から離れることになると何となく予感していたのだろう。確かに彼女の考えた通りに、事は動こうとしている。


 まさに男はいま、旅立ちの時を一人静かに迎えていた。


 記憶を取り戻したあの衝撃的な日から、既に数ヶ月が経過していた。


 赤いレザージャケットに覆われた亜生の体は、以前よりも少し細くなったように見える。頬も僅かにこけ、薄い影を顔相に刻んでいた。


 だが、男の眼差しは死んではいなかった。


 一度は、死のうと決意した。そういう判断を下しかけたのも、無理はなかった。


 だが、それでも男は生きることに決めた。


 いつかの昔に、アンナがくれた言葉が、彼の心に新たな灯をともしてくれたおかげだった。


『大事にして欲しいの。貴方の過去を。貴方だけの思い出を』


『過去は記憶の宝だもの。その人にしか味わえない、とっておきの宝なのよ』


 宝――それが指し示しているのは、人間だった頃に味わった、怒りと哀しみの日々ではない。


 アンジェリカを喪った時の哀しみは蘇ってしまったが、いつまでも奈落のような痛心を抱えていてはいけないと、己を律した。


 何よりも大事にしたい宝が今はあるのだ。この孤児院で、アンドロイドの肉体を伴って過ごした、ほんの数ヶ月の、しかし濃密な想い出の数々こそがそれだった。


 その想い出は、最悪の形で幕を閉じた。しかしだからと言って、アンナや子供たちとの触れ合いが永遠の彼方に葬られたわけでは決してない。


 魂に刻まれた記憶の中では、いつだって彼女たちに会えるのだ。


「……いくか」


 玄関を出てドアを閉め、庭先を出て外の世界へ。


 何か目的があっての旅ではない。ただ、もし道中で人間たちの生き残りに出会ったら。


 その時は、接してやろうと男は決めていた。


 アンナや子供たちが、自分にそうしてくれたように。


「…………」


 足を止めて振り返り、まるで黙祷でも捧げるように右手を左胸に当てて、男は、過ぎ去った明るい日々に想いを馳せた。


 時とも呼べぬ時が流れた後、男は意を決して孤児院を背にし、力強い瞳で荒野へと向き直る。


 夕焼け色に照らされた、草木の一本として見当たらない寂寞とした灰色の大地。そこに死神たちの幻を見ることはなかった。名前を喪って人々の記憶から消失した世界が、無味乾燥とした空気を孕んで、地平の彼方へ広がっているに過ぎない。


 そんな色を忘れた世界へ、前進するための一歩を踏み出そうとする巡礼者には、確かにあった。


 ステアという、名前と記憶。


 それだけを抱えて、彼は一人、その地を後にしたのであった。


 その後の彼の行方を知る者は、誰一人としていない。

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[良い点] 読みました! 余韻が残る小説でした。起承転結がしっかりしており、気がついたら入り込んで読んでいました。 なかなかに難しい問題ですね。彼の最初の感情は宗教戦争にも似た感情でした。人間の醜いと…
[良い点] おそらく読み手によって色々な意味を受け取るであろうメインストーリー。個人的には「姿を変えても自分勝手なココロを残してしまった、本当に救いがたい人間の性」という、アイロニーを強く感じました。…
[良い点] ∀・)これはまた硬派な感じの浦切イズムが為された作品ですね~。でもこれまでにない感じも感じたり?読み応えのある作品でした。ステアのキャラ立ちも良かったです。感情の抑揚が巧く為されていた印象…
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