動乱の前触れ ~ティア~
人通りの多いところを走るのはさすがに気が引けて、街の手前で立ち止まった。トピも私も息を切らしていたが、それでも歩き続けられる体力は残っていた。このぶんならすぐに荷物を担いでも駆けられるようになるだろう。
繋いだ手はまだ繋がっていたが、その力はだいぶ弱まり、トピの心配するような視線も街に近づくにつれ、安堵に変わってきたようだ。それでも気遣わしげに見てくる視線は変わらず、どこかこそばゆいような気もした。人にそんな風に心配される事なんてほとんどなかったから。だが、どこかうれしくもあった。
(トピがいて、本当によかった)
彼には曖昧に答えてしまったが、森を走ったときのあの気分はむしろ時を追うごとに鮮明になっていくようだった。全身の毛先にまで力がみなぎり、しなやかな肢体でどこまででも駆けていけるような、あの感覚。猛烈に大切なものに呼ばれているような、そんな気がしたのだ。
(あのまま森に融けていってしまいたいと、本気でおもった。そうなるところだった)
彼が、止めた。トピの指先は走っているにもかかわらずひんやりと冷たかった。いや、そう感じただけかもしれない。その手が触れた瞬間、なにかに引っ張られるように私は人の肉体へと帰ってきた。喪失感のようなものはあった。もう少しで手に入るはずだった獲物を横取りされたような、もう二度とそれには手が届かないと、胸が締め付けられる思いだった。だけど、それでも、私はトピの元に帰ってこられて本当によかった。私の人間の部分はずっと、トピを呼んで悲鳴をあげていたから。私の手首を強く握りしめて、まるで縋るように私を見ていた。
まだ赤みの残る手首をそっと見やる。痛いほど握りしめてきたあの手の感触。今でもこっそりと私の手をつかんでいる。こんな私でも、いかないでくれと呼び戻してくれる人がいる。大切だと、守ってくれるひとがいる。私は一人じゃない。すごく怖いけれど、ずっとそれを抱きしめて生きていきたい。私は人だ。
「トピ」
「どうした?」
もう動揺のかけらもない穏やかな顔。いつも通りのトピだ。目を血走らせ、怯えて必死だった彼は、もう眠っている。彼は眠れる狼。穏やかで、冷静で、理知的。でも時折獰猛で感情的な顔をのぞかせる。あの、今にも泣きそうに縋った目を、忘れることはとても出来なかった。
「いや、なんでもない」
お前がいてよかったと、お前を大切にすると、そんなことを面と向かって言えるわけないじゃないか。私はなにを考えていたんだ。軽く頭をふった私をあざけるように、こずえに止まった鳥がのびやかなさえずりを響かせていた。




