狩と秘密
少女
腹が鳴る。兎の肉は美味しいし、私は本当に腹が減っていた。
(父が囚われていたとしても、世界の終わりを覚悟していたとしても)
腹は減るんだな。なにがあっても体は生きようとする。心では、もう諦めていたとしても。
(私は、結局なにを望むのだろう)
本当の私は、どちらなのだろうか。私は、どちらに忠実であるべきだったのだろう。
(もう、どっちでもいいじゃないか)
もう未来は変えられない。何を思おうと、変わるはずもないのだから。そんなことを考えていたとは露ほども思わない少年が無邪気に笑って言った。ナダッサの浅黒い肌に更に日に焼けた彼の歯が白くひかる。開けっぴろげでこちらも笑い返したくなるような笑顔だ。
「お前もなんか獲ってこいよ」
なんでも無いようにいう。一瞬冗談かと思った。
「槍と縄しかないんだが」
狩をするなんて思っていなかったから。
「だめなのか?」
そうは言っていない。それでも、やる必要がないだろう。非効率的だ。そこまで考えて嫌になる。母さんみたいだ。理屈っぽくて効率が最優先。私はそれが好きじゃない。
「兎で充分だろう」
私たちで食べきれるはずもないのだから。
「僕もお前の狩をみたいよ」
ガキか。なんとか口にするのをこらえる。それから、思い直した。今日を逃せば彼と狩をする日はもうこないだろう。だとしたら、少しだけ羽目を外してもいいんじゃないだろうか。ため息をついて、仕草の割に嫌ではない自分に気づく。
「後悔しても知らないよ」
警告はしたからな。
「どうして後悔することになるんだよ」
狩が終わればいやでも分かる。私は溜息をつくと森の奥に足を運んだ。たまには派手な狩りでもいいか。村への土産にもなるだろう。いまだに村の事を考えている自分を鼻で笑うと、少し足を速めた。いい狩場がある。ここから近いし、昼飯前にはちょうどいいだろう。少年を従えて森を進む。早春の山はあちこちで木の芽が芽吹いていた。不思議な高揚感が身を包む。思わず叫びたくなるような。つかの間の心の平安を胸に私は森を歩いた。ほんの少しだけ、逃げ出したかった。もうこれで、最後だから。
(少しだけ、頼むから)
唇を噛み締めて、それからきりと顔を上げるとしっかりと地を踏みしめて歩いた。今、たしかに私がここに生きていると、そう感じられた。
***
少年
ツィリの足取りにはほとんど迷いがない。どこか目指しているところがあるのだということはわかっていたが…
(鹿?)
向こうに見えるものは鹿の群れ以外の何物でもない。鹿を子どもが一人で狩るなど正気の沙汰じゃない。
「手伝わないよ」
なにやら槍をいじっているツィリに一応言ってみた。
「手伝ってくれと誰が言った?」
くそ、泣いても手伝ってやらないからな。
「気配を消してくれ」
「いちいち言わなくても、僕はそこまで馬鹿じゃないよ」
「…たしかに」
喋っている間もツィリは手を止めない。鞘を払い穂先を軽くねじって外す。柄にうまっていた部分には穴があいていて、彼女はそこに縄を結わえた。そしてもう一度柄にはめる。縄のぶん穂先が柄から浮いているが、それに頓着する様子はない。気配が消える。ゆっくりと鹿に近づく姿はさしずめ、狙いを定める狼というところだ。彼女がしゃがみこみ、縄のもう一方を木に縛り付けた。
(何をしているんだ?)
木の影で無造作に立ち上がるがしかし、気配を全く感じさせない。すっと槍を頭上に構え…次の瞬間、彼女の槍がうなりを上げて振り下ろされるのと、一頭の鹿が彼女に気づくのがほぼ同時だった。いや、鹿が僅かに遅かった。穂先が空を切り、一頭の雌鹿の首に噛み付いた。というがはやいかツィリが駆け出し、石突きを雌鹿の脳天目掛けて振り抜く。自分の死から逃れようともがいていた雌鹿は一瞬でくずおれ、二度と起きなかった。
(嘘だろ…)
僕はしばし呆然としていた。その間に彼女が鹿の脚を縛り、手近な木の枝にぶら下げ、首を落とす。
「悪いが、昼飯はここで食べよう。血を抜かないと不味くなる」
ツィリが呼ぶ。ゆっくりと近づくとツィリがにやっと笑った。
「後悔した?」
「少しだけ…」
満面の笑みが浮かぶ。ちくしょう、覚えてろよ。
「警告はしたからね」
…うるさい。
本当は分かっていた。彼女は僕をやり込めて喜んでいるわけじゃない。人が饒舌になるのは何かを話したい時ではなく、何かを隠したい時が多い。
(何があった?)
どんなに思っても、それは言葉にならない。無理をするなと言いたかった。何があったのかと問いたかった。だけど…だけど今は何も言わない。何も問わない。彼女がそれに触れて欲しくないと分かっているから。本当は触れるべきなのかもしれない。だけど、その勇気がなかった。
(ツィリ、こんな僕でごめん)
俯いた自分の目の前に、焼いた肉が差し出された。