黒雲 挿絵有り
少女
「ツィリ!」
父さんが叫んでいる。何かと闘う様に動いているが、その顔は恐怖に引きつっている。
「父さん!」
絶叫しても父さんには聞こえない。闇の中から殺気が溢れ、父さんの喉が潰されていく…。
「やめろ!」
飛び起きた。あの日から毎晩見る夢だけれど慣れる事など出来ない。父さんが連れて行かれたあの日から。父さんは「大いなる約定」を破り、決められた数よりもずっと多い若者を皇帝に渡し、代わりに自ら皇帝の側近になろうと目論んでいた。そう、言われた。
処刑は、明日の朝。あまりにも早すぎる。父さんがそんな事をしたなんて信じる事が出来ない。母さんはあれから一日中寝室にこもって出てこない。そう言えば最近母さんの顔を見ていない。何をしているのかは私も知らないし、知りたいとも思わない。母は悪い人じゃない。だけど、なにか時々娘の私にさえ理解できない事を考えているのではないかと思える時がある。私が幼い頃から私を子供扱いしない人だった。若くして私を産んだからだろうか。それをありがたいと思うこともあれば恨めしく思う事もある。
それを補うように私を大切にしてくれたのが父さんだった。その父さんは、この家にいない。おそらく、もう二度と帰ってはこまい。そう考えてしまう自分に腹が立った。どうして純真に、父が何事もなく帰ってくると信じられないのだろう。
(母さんのせいだ)
母さんの娘だから。
(ツィリ、希望と現実は違うのよ)
その言葉を聞いたのは一度や二度ではない。八つ当たりのようにそう思った。…これ以上この家に居たくない。少し迷ったが、槍と縄を手に取り、腰紐に短刀を挟んだ事を確認して森に向かう。もしかしたらあいつに会えるかもしれない。
ほぼ毎日のように空き地に来ては一緒に武術の稽古をするツィンは、今や一番の友人だ。彼に出会ってから自分の腕は格段に上がっている。初めて見つけた同年代の稽古相手に、会いたかった。何を打ち明けるわけでもない。ただ、私を私として見てくれる人を彼以外知らないのだ。罪人の娘。それがこの村での私の立場だった。
(ツィン、もう少しだけ、私の仲間でいてくれるか?)
彼と会わなかった日はどうも収まりが悪い。それくらい、私に欠かせない存在だ。何故かは、私にも分からない。分かる必要もない。ただ、会いたかった。
*
雨が降っている事に今更気付く。激しく降る束の間の雨が容赦なく私の頰を打つ。髪から水が滴り、首に張り付く。走っている自分の顔を伝うのが雨か、それとも別の何かなのかは、もう己ですら分からない。分かりたくない。私はただ走り続けた。
*
「おい」
声が聞こえる。振り向きたくなるような…いや、気のせいだ。
「ツィリ、おいツィリ!」
気のせいじゃない。この声は、よく知っている。毎日のように聞いている声。
「どうしたんだよ。えらく取り乱して」
この生意気な口調は間違いない。振り返ると、ツィンがいた。弓と矢筒を担ぎ、いつものように帯に短剣を落とし込んでる。不意に相手にすがり声を上げて泣きたくなった。だが、自分が口にしたのは、
「取り乱してなどいない」
という一言だけだった。そう言わないと、崩れてしまいそうだった。
***
少年
(取り乱してなどいない?どこがだよ)
その言葉をかろうじて呑み込んだ。そんな事を言ったらきっとこいつのなにかが壊れる。それは確信だった。かと言ってこんな状態の彼女をほっとく訳にもいかない。そんな事、出来る訳が無い。竜胆のような真っ直ぐさが途方にくれたようにどこか力を失っていた。目が悲しさを映している。
「狩にでも行かないか?そろそろ晴れてくるだろう」
言ってしまってから舌打ちをしそうになる。なんて気が利かないんだ!だが、ツィリは微笑んで頷いた。いまにも崩れそうな微笑みだった。悲しみなどないと、己を騙そうとする微笑み。その表情には痛いほど覚えがあった。僕が、そんな顔をしていたから。ツィリに会って、救われた。なのにどうしてお前がそんな顔をする?尋ねたくなる自分を抑え込むため、その顔から無理やり目をそらして、僕はツィリに背を向けた。
ほんの少し行くと森が大きく拓けている。草の匂いがただようその野では兎が草を食んでいた。ゆっくりと身を低くする。狙いは、ひときわ肥えたあの兎だ。他の兎も、逃げていく所をあと二匹は獲れるだろう。少し離れた所で少女が座って見ている。無造作に座っているように見えて見事に背後の木と同化している所を見ると、やはりただ者ではない。いつもの存在感が綺麗に消えている。気配の消し方が玄人だ。が…
(気配を消すことにかけて、僕の右に出るものはないね)
にやりと笑ってから、ゆっくり目を瞑る。あたりの気配の気脈に、伸びた繋がりに自分の気を繋げる。周りのあらゆる生命の気配に自分が沈んでいく。ツィリが微かに息を呑んだのが感じとれた。再び笑みがこぼれそうになるが、こらえる。目を開ける。周りの音が一枚の布の様に自分をつつみ、その中で静かに弓を引く。
(まだだ…まだだ…もう少し…今だ!)
矢が標的の首にしっかりと刺さった。すかさず連射し、逃げだした兎を二匹獲る。今日は三匹でいいかな。音がゆっくりと戻ってきて、僕は獲物を回収するために立ち上がった。昼飯はこいつをさばこう。美味しい兎肉の味がじわっと口の中に広がり、思わずつばを呑んだ。ツィリも一緒に食べるかな。振り返るとちょうど彼女が立ち上がった所だった。ちょうどいい。
「なあ、これをさばいて昼にしないか?時間もちょうどいい」
僕はまだお前を帰らせたくないよ。早鐘のように心臓が脈打っている。どうか断らないでくれ。昼飯に誘われた彼女はこぼれ落ちそうに目を見開き、頷いた。安堵のあまり座り込みそうになる。さすがにこの状態の少女を帰らせたら夢見が悪い。まあ、ただで食わせるつもりはないが。いい気分転換にもなるだろうし、彼女にも何かを獲ってきてもらおう。僕は笑って、口を開いた。