五番目の子
少女
ひっくり返って空をぼんやり眺める。雲がゆったりと流れ、空き地は程よく暖かい。火照った頬が日に照らされてますます暑い。まだ雪が残るサグミド山脈だが、ここは割合に乾いていた。隣にはあの少年がいて、同じように寝そべっている。刃物を突きつけ合うお世辞にも優雅とは言えない出会いだったが、それはまあいい。状況が状況だった。仕方のない事だ。
問題は私が彼に対して全く動けなかった事の方だろう。同年代の者に武術で引けをとった事は一度もなかったのに、手も足も出ず、固まってしまった。本気でかかったのに。他の村では私程の腕もざらにいるという事なのだろうか。自分が驕っていたのかもしれないと始めて思い知った。だとしたら、今日彼に会えただけでも収穫だと思うべきかもしれない。太刀筋は間違っていなかったはずなのに、相手が反撃に出ることも考慮していたはずなのに、動いたらそれが隙になるという予感、いや、確定した未来が自分を縛っていた。私が初めて覚えた、相手への恐れ。そして感じた賞賛。それは相手も同じだったはずだ。
(やっぱり、悔しいな)
勝ちたい。もっと、闘ってみたい。引き分けではなく、どちらかが勝利するまで、思う存分刃を合わせてみたかった。この結果には納得いかない。勝てもしなかったし、負けもしなかった。
武器を構えて睨みあい、どれほどの刻が過ぎたかは分からないが、私達は同時に構えを解き、草むらに倒れこんだ。己が体験したどんな鍛錬よりも疲労を感じた。流れる汗が一筋目に入り、雲が滲む。ふととなりの少年を見やると、彼は眠るように目を閉じていた。ほんの少し前まで刃を向けていた相手が隣にいるというのにとてもくつろいだ顔をしている。普通はもう少し警戒するものじゃないか?
(変なやつ)
横目で観察する。さっきは全然相手の身なりに気を止める余裕がなかった。癖のある栗色の髪に浅黒い肌はナダッサのものだ。目は髪よりもさらに明るい茶色だったように思う。金茶に近いかもしれない。くりっとした目と茶色の毛で、どこか栗鼠を思わせる。中身は栗鼠とは程遠いから、油断したら痛い目をみるのだろうが。
身にまとっているのは作務衣のような茶色の衣。そして草鞋。まだ言葉も交わしていないが、それでも彼の気は決して邪悪な物ではなかった。むしろ、朴訥だが不思議と温かい気がある。こいつは自分と互角に渡り合う力を持っているし、…悪いやつじゃない。ここでいつまでも寝っ転がっている訳にもいかないな。父に猪突猛進とまで言われた思い切りのよさはこういう時に役に立つ。
私は少年に声をかけるために、起き上がった。
少年
若竹のような人だ。そう思いながら相手を見つめる。女っ気はまるで無く、華があるというのとは少し違う。だが、その場にいるだけで清々しくなるような、そんな存在感のある人だ。真っ直ぐな気。花に例えるなら竜胆。自分を主張しすぎるでも無く、自然体でどこか惹かれるような気のある人。
「お前、何番目だ。どこの村の者だ?」
少女が聞いてくる。長い黒髪をうなじの所でゆったりと無造作に束ねた彼女は男のような口調でそう言った。あくまで乱暴な口調なのに、村のそんな喋り方をする少女達の、肩で風を切るような感はまるでない。しっくりと馴染んでいた。これが地なんだろう。
目は青みがかった黒。この目だけは闘いの時から記憶にあった。不思議に深い、変わった瞳。薄汚れた柿渋染めの貫頭衣の腰に大きめの巾着をぶら下げている。明らかに男物の服だ。あくまで僕のもった印象だが、別に男装にこだわっている訳ではなく、動きやすいから着ているように見える。動ける事が第一で、見た目はどうでもいい。この年の少女にしては低い声は落ち着きがあるが、口調がぶっきらぼうすぎて聞き逃しそうになった。何故だか笑いが込み上げてくるが、ここで笑うのはまずい。必死に堪えていると、
「口がきけないのか?」
という。皮肉ではなく、大真面目なようだ。
(…変わったやつだ)
が、とりあえず、相手の質問に答えないと失礼だろう。名前など答えたくないと言えばそれまでだし、そのような返事も「ナダッサ」の人々の間では珍しくないが、この少女には教えてもいい気がしていた。一度刃を交えればある程度の人柄はわかる。この娘は単純ではなさそうだし、軟弱とはお世辞にも言えない。僕の周りにはいない人種だが、それでもどこか素直そうなところもある。むしろ芯に一本入っている方が付き合いやすいだろう。一言で言うと、信頼出来そうなやつだ。
それになにか…もっと上手く言えないどこかで彼女を求めている自分がいた。たった今会ったのにずっと前から知っていたような…それでいてずっと前から探していたような。
(もっと彼女の事を知りたい)
そう思った。そして、きっと彼女とはこれっきりにならない予感もあった。
「僕はツィン(五)。『翼』村の者だ」
「ツィン?」
「いい名前だろ?」
少女が曖昧に頷く。皮肉だと理解しているのだろうか。五番目なんて中途半端な。
(やっぱりよく分からない女だな)
と、言うか
「で?」
僕は答えたぞ。
「は?」
「相手に聞いたら自分も名乗るのが普通だろう?」
「…たしかに」
本当に受け答えが短い。不機嫌な訳ではなく、これも地なのだろう。つくづく変わった女だ。女というのは皆話好きだと思っていた自分の認識を改めねばなるまい。
「私の名はツィリ(五)。『牙』村の者だ」
「ツィリ⁉︎」
今度は僕が聞き返した。七つまでは神の子。十五までは村の子。十五に満たない僕たちは名を持っていなかった。「ツィン」も「ツィリ」も村に生まれた順を示す番号に過ぎない。一人が十五になればその年に七つを越えた子どもが名を継ぐ。男と女は語尾が違い、僕の名も彼女の名も五番目を表す。驚いたな。すごい偶然だ。女にしては高い背と武術をやる者の隙のない凛とした佇まい、そして冷静な表情。だが、いきなり相手を襲おうとしたくらいだ。ただ冷静なだけでもあるまい。
「いい名前だろ?」
片眉をひょいと上げて少女が言う。
(…皮肉が通じない訳ではなかったんだな)
もう我慢出来ない。僕はたまらず吹き出した。静かな森にそれはよく響く。ツィリと言った少女は眉をひそめていたが、それでも目元に浮かんだ笑みを隠しきることは出来ていなかった。
*
「ツィリ。また会えるかな?」
次は、勝ってやる。そう思って声をかけたら
「いつでも負けにきな」
彼女らしいな。今日会ったばかりの相手に「らしい」も何もないか。だが、不思議とそんな気がしたのだ。彼女にまた会えると考えるだけで、不思議と胸が躍る。笑顔で村に帰れるな。僕はそう思って微笑んだ。