人と鳥 〜トピ〜
「大丈夫」
その声に顔を上げる。
「私は大丈夫だから。泣かないで…」
背を向けたままティアが呟く。まるで自分自身に言い聞かせるように、背を向けたまま、彼女は僕に話し掛けていた。頰の傷から垂れた血がまるで涙のように顎を伝って落ちる。いつのまにか血だまりが出来ていた。むせ返るような血の匂い。蹲るティアは年以上に小さく見えた。
「ティア…」
何を言えばいいのだろう。自分には謝る資格すらないと思った。むざむざ敵に捕まり、ティアの足を引っ張った。ティアを苦しめているのは僕だ。
「僕は結局ティアの荷物にしかならないのかな。僕がいなければ、ティアは、もっと苦しまずに済んだ?」
自分の声が遠くから聴こえた。聞きたくない。なのに言葉を止めることができない。ティアは答えない。答えるとは思っていない。
「ティアは…」
「確かに」
不意に彼女が立ち上がった。
「確かにトピがいなければ、私はこんなに苦しまなかったかもしれない。私は、もっと、楽だったかもしれない」
絶句する自分の目を、彼女が見据える。返り血の飛んだその顔は獰猛に美しかった。
「それでも」
一瞬戸惑うような顔をする。悪い事をして、嘘をつきたいのに真実を喋ってしまう子どものような、自分が何を言おうとしているのか悟りきれていないような顔。
「それでも、それは、もう生きてはいない。感情を棄てて、己に立ち向かう全てを斬り捨てて平然としているような、それを楽しむような、そんなのは生きてはいない。そんなの、人間じゃない!」
言葉を止めるすべを知らないかのようだった。
「トピがいたから私は人間でいられた。トピがいたから私はこの世に繋ぎとめられた!トピがいたから!」
顔を歪める。泣きたいような、それでいて怒っているような。
「おまえがいたから、私は自分から、『ティア』から逃げなかった」
一瞬のうちにティアが何を言いたいのか悟った。彼女の能力は「仮面」。彼女が望めば…ティアは「ティア」を捨て去ることが可能だ。全てを捨て、ただ人を殺し続ける「モノ」になることが可能だ。
「トピがいる所にもどってこられるから、私は『仮面』を使えた。トピがいる所に戻って来るから、確かに私は、ここにいる私は『ティア』なんだと信じられた。トピがいるから私は」
涙はこぼれない。それでも確かに彼女は泣いているように見えた。いつかの夢のように。
「人でいていいんだと、怪物にならなくてもいいんだと、そう思えた」
「ティア…」
*
この二月ほどの出来事が走馬灯のように蘇る。磔になった彼女。恐怖に錯乱して僕のことすら分からなかった彼女。岩穴でどうして自分なんだと泣き叫んだこと。彼女は僕の対の子だと知った時。「仮面」を初めて見たとき。刺客を、殺したこと。熱を出した僕を徹夜で看病してくれた日。そして、夜叉のような顔で盗賊の首を刎ねたティア。自分のしたことに怯えて吐いた彼女。ティアはいつもそんな人と獣の紙一重のところを歩いていたのか。
不意に小さな少女が細い道を歩いているのが視えた。危なっかしく、道から墜ちないように進む幼い娘。必死に助けを求める少女。
「なんて、むごい」
気がつくと、そう口にしていた。ティアが歩み寄ってくる。顔がくっつきそうなほど近くで、振り絞るように言った。
「もう二度と、私にはトピがいない方がいいなんて口にしないで。もう二度と」
哀願するように。
「分かった」
傷だらけの左手をとって、その甲を自分の右手の甲に添わせる。十字に走った傷が重なる。
「もう二度と、おまえを離さない。僕がティアを必ず、人に繫ぎ止めるから」
今、少女が人間の方へ戻ってくる。




