過去 挿絵有り
少女
「おはよう、おばば」
洗濯の帰り、いつものように岩屋へ寄った。返事はない。
「ねえ、いるんでしょう?」
いない訳がない。おばばが岩屋から出るなんて事があったらきっとお山の上の万年雪が溶けちゃうよ。いつでも焚き込めてある香の匂いがここからでも微かに漂ってきた。フバノイの香り。わたしが好きな匂いだ。だけどどこで焚いてあるのかはちっとも分からない。きっとおばばは不思議な力で隠しているんだろうな。
「なんだ、五番目の子。お入り」
ほら、やっぱりいた。岩の間にうずくまる影から声がかかって、ようやくおばばがどこにいるのか分かった。わたしも大分気配が分かるようになったのにおばばの気配だけはどうしても分からない。いると分かっているのに感じられないのだ。おばばの気配が分かるようになるには何年修行すればいいんだろう。きっとすごーく時間がかかるんだろうな。わたしがおばあさんになるまでかかったらどうしよう。
「あのね!見せたいものがあるの」
そう言って取り出したのは、焼け残った紙切れだった。所々に文字が書いてあるが、わたしはまだ習っていない言葉で書かれている。おばばならきっと読める、だってなんでも知ってるもん。
「どこでこんなもの拾ったんだい?」
おばばはかすかに眉をひそめる。村長である父さんでさえ大事なことはこのおばばに通す。信じられないほどの知恵者だ。だが、彼女は何だかんだわたしに色々な事を教えてくれる。優しい人だ。村の子どもたちは何故かあまりこの岩屋に寄り付かない。
だが、わたしはここが好きだった。フバノイの香りも、光を飲み込んでしまう暗さも、全て。でも、やっぱりおばばが好きなんだな。皺だらけで、何年生きてるのか分からないような人だけど。少し考えて
「川の近くの、細いおばさんところ。ねえおばば。あの人変だよ。村へのチューセーがなんとか、とか、コーテーと金がどう、とかそんなのばっか。ずっと一人でしゃべってるのにみんながくるとだまっちゃうの。…ねえ、聞いてる?」
「ああ、聞いてるさ。それより、稽古の時間じゃないかい?」
言われて慌てて立ち上がり、一度尻餅をついた。ぺろっと舌を出すとおばばが苦笑する。
「いけない!またね、おばば」
岩屋の暗さに慣れた目が眩む。手をかざして目を細めると足元の悪い坂道を一気に駆け下った。急がないと、遅れちゃう。
わたしが、「細いおばさん」に会うことは二度となかった。
***
少年
「今日で十になるか。早いな」
沈黙を破って父さんが言った。新年のお祝いときたら美味しいもの食べて、みんなと喋って、楽しい日と決まっている。だが、父さんはそわそわしているし、母さんは目を合わせない。何かあるのだろう。そう分かるくらいには僕だって年を重ねている。だが、目の前にご馳走が並んでいるのに食べられないのは辛い。いっそのことこっちから尋ねようかと思った時、父さんが口を開いた。
「あのな、ツィン。これは大事な話なんだ。よく聞いてくれ」
そらきた。僕は座布団に座りなおすと父さんの目を見つめた。僕とは違う射干玉のような黒の目だ。
「…ということなんだよ」
父さんは僕のほんとうの父親ではなく、母さんの後添いだ。僕は対の子として生まれた村を追い出されたそうだ。ほんとうの父親は僕が生まれる前に死んだ。簡単に言うとそういうことだ。
「ふーん」
僕のいったことばに父さんが眉を上げる。問いかける時によくやる表情だ。僕にも、そのくせがある。
「おどろかないないのか?」
どうして驚く必要があるのかな。母さんも父さんも目が黒いのにどうして僕がこんなに明るい茶色なのか僕が考えたことがないとでも?みんな言ってるよ、僕が父無し子だって。まあ、まさか対の子だとは思っていなかったけど。
「なんかあるとは気づいていたから。それに、おなかがすいたんだ」
これは事実。さっきからお腹が鳴ってしょうがない。父さんと母さんは顔を見合わせた。
「あのねえ、ツィン」
まだつづくの?もういいよ。
「僕が父さんと血の繋がりがないのはわかったよ。いままでかくしていたのは、僕が小さかったからでしょ。僕が大きくなって、話しても大丈夫だと思ったから、今日教えてくれた。ちがう?だったらその信頼に報いなきゃ」
信頼に報いる。さいきん覚えたことばをこんなに早く使うとは。
「わかった。お前がそう思っているのに俺達がお前を信頼しないのは不公平だな。食べよう」
父さんが微笑んだ。僕がなによりも好きな表情。父さんは分かってくれる。
「父さんだいすき」
僕は父の、唯一の父の胸に飛び込んだ。