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狼の仔  作者: 加密列
第三章 真名
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真名

少女


彼に打ち明けるなら今しかないと思った。いや、今やっと私の準備が出来た。こんなに彼は私を大切にしてくれる。だから、もう私も彼を信じよう。(さい)を、今投げる。もう後戻りはしない。


「話がある」


口からこぼれたのは思いがけないほど弱々しい声だった。こんなんじゃ駄目だ。腹に力を込めて声を張る。



「どうした?」


なんでもないと言いそうになる弱気な自分を鞭打って励ます。ここで折れちゃいけない。そんな事になったら私が私を許さない。


「私はお前に隠していたことがあるんだ」

「え?」

「お前は対の子だって言ったね?その片割れは…」


彼が座りなおす。真剣な目にも、もう怯まない。


「きっと私だ」

「…そうか」

「え?」


反応は予想外に軽かった。こっちが拍子抜けする。


「お前はそれをいつから知っていたんだ?」

「知っていたわけじゃない。ただ、私の知っていたこととお前が言ったことを繋げるとしっかりとはまったって事だ」


もう離すことなど思いもよらないくらいに。


「何故それを今?」

「この事を告げればおまえを私に縛りつけてしまうのではないかと思ったんだ。おまえを信用できていなかった。やっと、今更気づいたんだよ。おまえの決めた事に口出しして、いらん事言えるほど私はご立派じゃないってね」

「訊いてもいいかな?…」


少年は目を合わせない。


「僕の父さんは?」

「…生きている」


彼が息を呑む。どこか悲しそうに。


「彼の事を話そうか」


無意識に背筋が伸びた。私を娘と呼び、私に死んでほしくないと言った人。


「カラッドは、おそらくお前の父で、間違いなく私の父だ」


岩穴の壁に二人の影が揺らめいた。

吐息が岩穴の空気を震わせる。



「そう言えば、思い当たる節があるんだ」


長い沈黙の末、彼が呟いた。


「隠し事ができるのもいいものねって母さんが言ったんだよ。前の旦那がその人なら、隠し事が出来なかったのも納得出来る」


彼は考えこんでいるようだった。だったらここからはもう私の踏み込んでいい領域じゃない。


「ねえ」


戸惑って、自分がそんな事を思っている事を受け入れたくないような、泣き笑いのような顔をしていた。


「僕の母さんは何を思って父さんと結ばれたんだ?」


その声にはっと胸をつかれた。彼は自分の血の繋がった父親は死んだとずっと信じてきた。でも、実は生きていたんだとしたら?無理矢理離されたのだとしたら、彼の母親はどうして彼の父と結ばれたんだろう。


「私には分からない」


その声が意図したよりも冷たく聞こえる事に気付いて肝が冷えた。


「ごめん」

「ううん」


彼の金茶の瞳は翳っていた。

どれほど時が過ぎただろう。彼が不意に顔を上げた。今しもその口が


「ごめん」


と動くのではないかと、目を凝らした。やはりお前とは行けないと、そう拒絶されるのではないかと。


「僕からでいいかな、名前をつけるの」

「は?」

「僕はお前を選んだ。僕の贈る名を受け取ってくれますか?」


まさか。彼が?私に?彼はじっと待っている。もう、これを言ってしまったら後戻りはできない。自分が断るべきと分かっていた。黙って首を横に首を振り、お願いだから帰ってくれと、私についてくるなと言うべきだと。自分がそう言う図さえはっきりと思い浮かべる事が出来た。だけど、もう後戻りはしないと決めたんだろう?それでも、手が震える。ごめん、本当にごめん。


「…はい」


私はそう答えた。



「正式にはどうやるのか分からない。だから自己流でやらせてもらうよ。僕はお前に初めて会った時、真っ直ぐな人だと思った。群れずに、いつでも頤を上げて気高く、媚びない強さがある。薬効のある根のように、陰で滋味深く、飾らない魂が、僕にはとても大切だ」


彼はそこで言葉を切った。


「ティアノン。竜胆(りんどう)の子。この名をあなたに捧げます」


ティアノン?…ティアノン。その名は自分の収まるべきところにすとんと落ちた。あまりにも褒められ過ぎて照れ臭いけれど、彼が必死に考えてその名を選んだと分かる。どんな名よりもその気持ちが嬉しかった。


「たしかに、受け取りました」


私はティアノン。竜胆の子だ。



***



少年


喜んでくれたみたいだな。その事に安堵する。


「ティアノン」


その名をそっと呼ぶ。


「ティアでいいよ」


彼女が答えた。なんの違和感もない。彼女はティア。僕の片割れだ。彼女はどんな名を僕に授けるのか。少しの期待。緊張で頰が強張る。



「私はこういう儀式ばった事が苦手だ。無作法があったらすまない」


そう前置きした。


「私はお前に初めて会った時、栗鼠(りす)のようだと思った。茶の毛と、目が。ナダッサの神話の栗鼠神、トッポロウを知っているか?知恵と勇気を司る神だ。お前を知れば知るほど、お前にそれが重なる。考え深いのに時折、驚くほど大胆」


彼女が僕に捧げる名は。


「トピ。栗鼠の子。お前にこの名を捧げます」


よりによって栗鼠?可愛らしく、小さくてちょこちょこした、あの生き物?だが、考えれば考えるほど僕はトピ以外にはあり得ないと思えた。生まれた瞬間からトピだったのではないかとすら思える。彼女はティア。僕はトピ。僕は、トピだ。


「ティア」

「トピ」


その言葉がいつかなくなってしまうとでも言うように、僕らはいつまでもお互いの名を呼び続けた。



そっと体を起こす。彼女が寝返りを打ち、再び寝息が聞こえてきた。憑き物が落ちたように穏やかな表情は、少し前の彼女からは考えられないものだ。険のある顔も悪くないがやはり彼女は穏やかな顔の方が似合う。穏やかで、それでもどこか固い決意を秘めた、芯の強さを感じさせる寝顔。それをしばらく見つめていた僕は顔を膝に埋めた。ようやく、信頼してもらえた。誰よりも信頼している、誰よりも信じてもらいたかった人に。


だけど、胸の中にあるのは喜びだけじゃない。どうして素直に喜べないんだろう。僕はいつからこんなに複雑になってしまったんだろうか。自分でも自分が何を思っているのか捕らえることが出来ない。自分を、信じきれない。


(やっと彼女が信じてくれたのに…)


自分がこんなんじゃ、どうしようもないな。


初めて自分の両親が分からなくなった。ずっと、誰よりも好きだった両親の事が。誰よりも共にいる時間が長かった筈なのに。カラッドという男が僕の父親なのはほぼ間違いない。髪の色は茶色だったと、ティアは言った。ティアには言わなかったけれど、もしかしたら母さんは僕のためだけに父を選んだのかもしれない。求婚してきた父を、息子のためだけに。だとしたらそれは酷い事だ。母さんの判断は責められないけれど、僕は父さんの幸せを奪ってしまった事になる。


(嘘だ、そんな訳ない!)


そう叫ぶ声がした。だって、父さんの僕に対する愛情も、母さんに対する愛情も偽りとはとても思えない。もしカラッドという男に母さんがすでに愛想をつかしていたのだとしたら?それはそれで酷い。母さんはそんな人じゃない。自分がそんな事を母さんに対して考えるということさえ信じられない思いだ。罪悪感が自分を襲う。もう何を信じたらいいのかすら分からない。


ティアがまた寝返りを打ち、僕は自分の両手をゆっくりと顔の前に持ち上げた。まるで、初めて見る物のようにながめる。彼女を、ティアを抱いた感覚がよみがえる。これは、これだけは、忘れちゃいけない。これだけは、信じられる。


僕は床に潜り込んだ。自分の手を胸にかき抱く。心臓の鼓動が伝わってくる。さらにしっかりと胸に押し付けた。守るように。守られるように。


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