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狼の仔  作者: 加密列
第九章 想う人
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姉と妹 〜ティア〜

暗い水底。その向こうから、誰かが呼びかけてくる。


「私は行けない」


そう言うと、水が再び私を飲み込んだ。


「お前は右手で殴るとき、背中に隙ができるな」


地面にころがった自分に父さんが言う。どこからか鳥が飛んできて、父さんを、貫いた。その体が光を放ちながら、細かく、細かく、散っていく。


「行かないで」


その声に応えて体が編まれることは、もうない。


「お前は来るな」


父さんの声がした。


「置いて行かないで!」


その声は、水に飲み込まれた。

耳黒子が馬に乗り、私を追い越して駆けていく。私を処刑の場に引っ立てていった男。私が殺した刺客。武術をよくしないのに刺客になどになって、死んだ。


「あなた、名前は」


あの人の名前すら私は知らない。


「お前は知っちゃいけない。元に戻れなくなる」


そして、消えた。水が、私を飲み込む。

生暖かい返り血が顔に、体に、かかる。幼い頃から姉と慕った女が、私の握る槍先で、息絶えようとしている。彼女の上に崩れ落ちた私の耳朶に、暖かい息がかかる。


「おばば、が、幸せになっ、ておくれと、そう、言っていた、よ」


もう喋っちゃいけない。そう言いたいのに。


「五番目の娘、私の妹」


もう言わないで。


「私も、あなたに、幸せがあらんことをと、そう願おう」


行かないで。


「いや!」


置いて行かないで。


「キィナ姉さん!」


私の下で彼女はまた、光の集まりとなり、そして消えた。水がかぶる。もうやだ、どうして。


「ティア」


声が聞こえた。男の子の、まだ声変わりの終わらない声。


「ティア」


彼だ。生きたいと、そう思った。私を呼び続けて。水の中を懸命に足掻く。生きるために、なんとしても生き延びるために。口の中に苦いものが入る。思わずむせかえって、



「ティア!」


目が覚めた。ト、ピ。


「ここは?」


起き上がろうとして全身が悲鳴をあげた。


「おい、せっかちすぎる。訊かれたことには答えるから大人しく寝ろ」


金茶の目が見下ろして来る。


「ここはどこだ。私はどのくらい眠っていたんだ。今は夜か?それからキィナは」


トピの瞳が一瞬揺れた。目の裏に熱いものが滲む。


「キィナは、私が殺したんだな」


記憶が蘇って、口から悲鳴がもれかけた。懸命に飲み込む。


「ここは森の岩穴だ。街からそんなに離れていない。あの小屋から少し東に行った所だ。街からは少し離れたかな。今は朝。光が入らないから暗いだけだよ。ティアが気を失ってから今日で三日だ」


あんなに矢継ぎ早に質問したのにトピは一つも漏らさず答えた。


「三日も眠っていたのか」


長い間遠くをさまよっていた気がする。


「腹は減っているか?」


そう訊かれて、少し考える。答える前に腹が音を立てた。笑ったトピは重湯を作ると言って行ってしまった。暗い中に、一人。


「しゃん」


寂しくて、それでいて禍々しい音がする。思わず周りを見回して、思い出した。百鬼夜行のように連なっていた人影。確かに目鼻立ちのあった影と、…見れば見るほど崩れていったあの影。これから己が殺す者達だと、そう悟ったあの日。キィナは、あの中を歩いているのだと、私が彼女をそうしたのだと、わかった。トピが料理をする音がかすかに聞こえた。



「お前は女だ。人を斬るのは、よほど綺麗に斬らない限り力がいる。突き刺す方が初めはいいだろう。それに、槍なら間合いも広く取れる」


父さんがそう言って、五つの私は槍の稽古を始めた。女だと言われた事に反発もおぼえたが、それでも最初は槍でもいいと思った。それでも、てんでなっていなくて、槍を振り回しているんだか槍に振り回されているんだか分からないような状態だった。負けん気だけは一人前で、絶対に強くなってやると歯を食いしばって影でこっそり傷の手当てをした。いつものようにおばばのところに行っても良かったのに、なぜかその日は己で薬草を噛み潰していた。


がさりと頭上で音がして、見上げると自分よりも二つくらい年上であろう少女がするりと木から降りてきた。とっさに転がって間合いを取るとその人は驚いたように目を丸くした。…それがノゥリ(一)、後のキィナだった。


「あなたが、村長の娘」


第一声はそれで、少し首をかしげると傷の手当てを手伝ってくれた。木の実を採っていたのであろう彼女の頰に小さな引っ掻き傷があったのを、今でも憶えている。その傷に手を伸ばすと、驚いた彼女が一瞬身を引いたのも。そして、


「あなたの傷の方がよほどひどいよ」


と言って苦笑したその顔も。思えば私はひどい顔をしていたのだろう。泥だらけで、血まみれで、睨むようにうずくまっていた。手負いの獣のように。それをよく村長の娘だと一目で見抜いたものだと思う。彼女を「姉さん」と慕い始めたのはいつだったか、それは憶えていない。姉と慕った女を槍で突いたあの感触。私は両手で顔を覆った。涙は、溢れなかった。


(星の子なんて、私は望んでいない)


そんなもののために私達は何を引き換えにした?それに答えるように、どこからか血のにおいがしたような気がした。


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