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狼の仔  作者: 加密列
第一章 邂逅
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救えるもの

少女


「あなたに幸せがあらんことを」


それは、もう会えないであろう人にいう別れの挨拶だった。もっとも、他の村では使わないのかもしれないから、ツィンには分からなかったかもしれない。でも、それでいい。別れなど告げられたくない。私を、引き止めて欲しくない。背を向けると、もう決めたのだから。自分の事は何も言わず、別れの言葉ではなく。ただ相手の幸福だけを願う。



(私の分まで、幸せになってくれ)


そんな願いを込めるのは間違っているだろうか。


(惜しいな)


彼にはまた会いたかったのに。別れたくなかったのに。


(そんな事思っちゃ駄目だ)


振り返ったら、もう前に進めないような、決心が鈍るようなそんな気がして、彼の表情はわからないままだった。あの金茶の瞳を見たら、きっと駆け戻ってすがりついてしまうから。だったら振り向かなければいい。振り向かなければ、自分を抑えておける。自分を、騙し続けられる。ただ、いつまでもこちらを向いて佇むその気配だけを木立の中に感じる。それはとうとう振り払うことができなかった。




(武術など、習わなければよかった)


あんなにがむしゃらに稽古をしたのに、結局誰も救えなかった。もう救う事すら諦めてしまっている。気配にさとい体が自分の苦しみを増やすだけだ。いや、武術で誰かを救えると思う方が間違っていたのだろう。武術は一つの手段に過ぎない。何でも刃で斬り裂ける訳ではないのだ。今更そう悟った。


そんな風に単純だったらどんなによかったか。人を救えない力など、何のためにあるんだ?食いしばった歯がきりきりと音を立てた。拳が白くなるほど強く握りしめる。振り向かないように、しゃがみ込まないように、あらん限りの意思を使って自分の暴れだしそうな心をねじ伏せた。


(もう一度だけ)


彼の笑顔を見たかった。でもそれはもう、叶わない。叶うはずもない。明日の朝、父さんは死に、私の世界は壊れてしまう。彼がいる、彼が信じている世界には、いられなくなってしまう。


(…あの、よく晴れた暖かい日に)


彼に出会えて本当に良かった。今まで、本当に楽しかった。


(だから、もう忘れよう)


一時仲の良かった私のことなど忘れて、どうか、どうか幸せになってくれ。私は、お前に会えて楽しかったから。俯いたまま進めていた足が小枝を踏み、乾いた音を立てる。その音につと顔を上げた。


(ツィン)


かすかな微笑みを浮かべた口に、しょっぱい涙がひとつ、すべりこんだ。



***



少年


(随分遠くまできたな)


鹿の肉を担いで帰途に就きながら思った。もっとも、自分が道に迷うはずもないのだが。今も間違いなく村の方へ歩みを進めている。ツィリは、どうしているだろうか。ふと彼女の顔が浮かんだ。青みがかった黒の瞳。そして振り返らなかった背中が。どうして彼女は振り返らなかったんだろう。どうして僕は呼び止めなかったんだろう。何故だか彼女のことがひどく気にかかった。今すぐにでも駆け戻ってその肩に手をかけた方がいいのではないか。


(それに何の意味がある?)

(僕がそうしたいんだ)


そう思った自分に驚いた。


「ツィリ」


その言葉をそっと口にする。ただの数字がとても大切に感じられると共に、その味気なさも身に沁みた。彼女が名をもらったら、その言葉がきっとこの世で何よりも大切な言葉になったはずなのに。そう思った自分に驚く。


名前ってそんなに大切なもの?人を大切に思うってこんな気持ちなのか?出会って三月であるはずなのに村のどの友人よりも心を許せる人。僕を避けない同年代の友人。僕を負かせられるほどの腕を持つのに、僕に負けた時には本気で悔しがる。そんな人は初めてだった。なんでもないふりをしながら目の奥に暗い炎を灯し、僕の悪口を言いふらす村の子どもたちとはえらい違いだ。悔しいと言い、本気で練習して、次は必ず勝つと言い放つ人。そしてそう言ったからには必ず強くなってくる。ぶっきらぼうで、でも優しい。落ち込んで居れば何も訊かずに側にいてくれるし、罵りながらも必ず親しみが見える。


出会った時から何故だか彼女に惹かれた。女として、ではない。何か、もっと心の奥深くで彼女を離すなと、ささやく声がする。そう、自分が誰よりも求めている人が、離れていってしまう気がしたのだ。


(行かないでくれと、どこに行くんだと、何故言えなかったんだろう)


怖かった。行かないでくれと言った時、彼女が首を横に振るのを見たくなかった。そして、あの青みがかった黒の瞳が悲しみに沈むのを、見たくなかった。僕は臆病で、卑怯だ。


(どうしてあの女がそんなに気にかかるんだ)


そう絞り出してすぐに、心にもないことを思ったと後悔した。思ってはならない事を思ってしまったと。そんな事本当はかけらも思っていないのに。


(どうしても、だ)


そう、どうしても。そう言い切れる自分に自分で驚いた。


(何故僕の幸せを願うような事を言ったんだ?)


その問いにもう彼女は答えないんじゃないかと、そんな不吉な予感に囚われた。笑顔で「またな」と言っていたお前が、何故今日に限って?胸のうちの彼女は答えない。ただ、どこか寂しげに微笑むだけ。


(なあ、答えろよ!ツィリ)


もう僕はお前と離れられないんだから。


(どうして、何も言わないんだ)


そう思ってから苦笑した。彼女は自分がどんなに困っていても人に助けを求めないだろう。虚勢であっても頑なに助けを拒む。そういう人だ。肩に担いだ肉が重みを増したような気がした。


(絶対に、お前にもう一度会ってやるからな)


僕しかお前を救えない。

唇を噛み締めたその時、木の陰に村の灯りが映った。


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