婚約破棄された令嬢が元幽霊さんに婚約を申し込まれる?
私は悪役令嬢、だったらしい。
らしいというのは幼い頃に突然現れて甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた幽霊さんが「お前は良い子だから大丈夫、悪役なんかにならないさ」と私が寝る前に頭を撫でる素振りをしながら言っていたからだ。
家柄も良く、容姿も整っていた私はたしかにふとした瞬間調子に乗ってしまうところがあった。周りのちょっとした煽てにも綺麗に乗ってついついダメな道を選ぶことが多かった気がする。けれど幽霊さんが来てからはそんなこともなくなった。なくなったというか調子に乗った場合の挽回方法を教えてもらったというか。もちろんそれに至る前に調子に乗らない、素直になる。そんなこともしっかり教えてもらった。
だから私は幼い頃に一目惚れをしてお父様に頼み込んで婚約を結んで頂いたあの方に、わがままも言わなくなったし、本当にお慕いしていることも伝え、令嬢としてあの方の隣に立つための努力を重ねて、恥をかかせることなんてしてなかった、のに。
「本当にすまない、この婚約を破棄してくれ」
何故頭を下げられているのだろう。
「わ、私に何か落ち度がありましたか……? 幼い頃の無礼は謝罪いたします、でも最近は何も、いえ何か気にさわることが」
「違う、違うんだ、リル。これは完全に僕のわがままだ。君という婚約者がいたにも関わらず僕は別の人を好きになってしまった。
君に一切の落ち度はない。ご両親には僕から話すし、この婚約破棄における一切の業は僕にある」
「そ、そんな、一方的に仰られても、わた、私は」
すがろうと手を伸ばしてもその手は掴まれることはなく、ぽたりと目からは涙が落ちた。それを見てか、すまない、すまないと繰り返される婚約者であるノインの声が広い部屋に吸い込まれ、ただ消えていく。
私の黒髪と違いきらきら輝く白金の髪に、深い緑の瞳。一目で奪われた憧れの王子様の顔が悲しそうに歪んで、思わず唇を噛んだ。私がこの婚約破棄を受け入れない限りこの方はずぅっとこの顔をするのか。……婚約は私からだった。それも無理矢理。確かにそれを思えばこの結末も仕方がないだろう。
大丈夫、私はリル・アルルメイラ。このアルルメイラ家の令嬢。強く、気高く、泣きっぱなしで相手が折れるのを待ってなんて私らしくない。ならば
「っ、わかり、ました」
「…………本当に、すまない。そしてありがとう、リル」
「正式な破棄につきましては後日お父様たちとのお話し合いを通して頂いてから、発表を」
「ああ、もちろんだ。……この件については重ねてになるが君に一切落ち度はない。すべて僕の責任だ」
「…………いいえ、ノイン。あなたを捕らえ続けられなかった私にも問題があったのでしょう。思えば幼い頃から私はあなたにわがまま放題でしたから」
そう伝えればノインは緩く首を振る。少し上を向き、昔を思い出すように彼の目は遠い。
「確かに、初めて会った頃の君のままなら僕は他の人を好きになることを一切罪には思わなかっただろう。でも、君はいつの日からか変わった。とても優しく正しい気高さを持つようになっていたよね」
「……ええ、ある出会いがありまして」
朝起きたら突然幽霊さん、しかも男性が見えるようになって世話を焼かれるようになったなんて言えないけれど、あの日がターニングポイントだったのは確かだ。
「それからの君ならずっと一緒に居られるだろうと本気で思っていたんだけれど、」
「…………そのお言葉をいただけただけで十分です、ノイン」
すっかり冷めてしまった紅茶を一口だけ喉に落として立ち上がる。二人きりの部屋を終わらせるために扉を開けて、足を進める。ノインのエスコートはもう無い。私は一人で彼を見送るために歩くのだ。
気まずい空気の中、慌てたような声が聞こえる。思わずノインの方を見て目を合わせてしまう程度には慌てた声がしているのだ。はしたないとは思うが小走りでその声の元へ走る。
「何事ですか」
「お嬢様! それが……」
「リル!」
メイドがこちらに事情を説明する前に私の手が掴まれる。
「えっ、」
「お前は良い子だから大丈夫、悪役なんかにならないさ……そうだったろ、リル?」
その言葉に思わず目を見開いた。その言葉を知っているのはあの幽霊さんだけだ。だけのはずだ。
嬉しそうに手を取ったままにこにこと、こちらにほほえむ顔は見たことも無く、その幽霊さんにも似つかない。何が起きているのかわからないままの私の思考を現実へ戻したのは見送り損ねたノインの声だった。
「あの、失礼ながらライル・ローガン様……でしょうか?」
「ん? ……ああ、こっちで会うのは初めてか。その通りだ、俺はライルだ。よろしくな」
恐る恐るといった問いに彼は軽く答える。その聞き覚えのある名前に私は記憶を辿るが中々辿り着かない。うーんと首を捻っているとメイドがそっと耳打ちをしてくれる。……思い出せないのも仕方がない。ノインが覚えていたのは家の仕事関係による交流のおかげだ。
「……あ、アウセルツの第二王子……」
思わずこぼせば目の前の彼はにっこりと目を細めて笑う。
アウセルツといえばこの国から海を渡った先にある現在発展中の国で誰もが我先にと縁を結ぼうとしているところだ。それにそこの第二王子といえば、と一つ思い出せば知識がどんどん思い出されていく。
「その通り。便利な身体と権力貰ったからな、迎えに来たぞ、リル。この時期ってことは婚約破棄されただろ」
「っ」
「ご両親には明日話を通す。学園の卒業後、アウセルツに来て、そして結婚してくれリル」
跪き、私の手を取って懇願するようにこちらを見つめてくる瞳。メイドは息を殺して存在を消そうとしているし、ノインは驚いたまま動かない。
さっきまでノインに婚約破棄を願われ、今度は結婚を迫られる。一体何が起きて、どうなっているのかまったくわからない。それにこの人が本当に幽霊さんかどうかもわからない。
「い、」
「い?」
「一旦持ち帰らせてください…………!」