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イワンやもこっちのような面倒くさい内面の持ち主は、絶えず自分の行為や思考を、次の瞬間には吟味し、疑問を持って、批判的に見るので、彼らは絶えず自己意識という地獄の中にいる。一方で「リア充」は、自己意識がそれほど深くないが為に周囲に自然に順応する。彼らは最初から「収束」している為に、収束させる存在を必要としない。
収束できない自己意識は、やがて自分に疲れる。だが、他者は自己意識についてこれない。複雑な内面を理解しないし、仮に理解する者がいたとしても、イワンやもこっちは、その事自体に腹を立てるだろう。もこっちがぼっちで寂しいのは確かだ。だが、それに対して「もこっちはぼっちで寂しいだろうから、私が一緒にいてあげるね」と誰かが近づいてくれば、もこっちは拒否するだろう。それでは、駄目なわけである。
ここで、もこっちにしろイワンにしろ、他者を求めても他者はいらないという矛盾に陥っている。他者は、とりつくしまもない。他者は、彼らの内面に入るやいなや、彼らの批判的吟味を受けて、世界の外に放り出される。そういう意味では、「イケメン」も「オタク」も同じである。もこっちに取って「イケメン」は手の届かない高みであって「オタク」は見下す存在である。見下すか見上げるしかない世界では他者との交流がない。
ここに絶対的な自意識のバリアというのが現れてくる。これを破る、ないしはそのまま包み込む存在として、アリョーシャ・今江先輩のラインが出てくる。今江先輩は、きぐるみを着てもこっちに近づく。荻野先生のように無神経にやれば、もこっちを傷つける事になる。そこまでわかって、今江先輩はきぐるみを着て、もこっちを抱きしめる。同じように、アリョーシャは、イワンが自分自身との討論において、どんな解答に行きつくのか知っている。知っているからこそ、その先の言葉を言う。それはアリョーシャの、イワンに対する抱擁である。または、キリストの大審問官へのキスである。ここで、愛は論理を超えると言っていい。彼らがその複雑な論理、自己応答の地獄に陥っているその状態に聖者は入り込みはしない。聖者は、それらをそのまま捉える。抱きしめる。
こうして、聖者は唯一、複雑な内面を持つ個人に対して、それを超えるものとして現れてくるが、同時に聖者は聖者であるので、物語の主人公には適さない。主人公は、あくまでも、イワンとかもこっちのような面倒くさいキャラが似つかわしい。この内面の問答が外部に開かれていく際にドラマが発生する。そうして、そのドラマの終着点に聖者アリョーシャ・今江先輩は立っている。
最近のわたモテにおいては、もこっちは、成長したので、今江先輩の役割を自ら買って出ているような所がある。今江先輩の卒業と共に、もこっちにも自覚が生まれた。その代わりに、もこっちの友人の田村ゆりがかつてのもこっちのような、コミュ障的問題を放つようになった。同様に、ネモ(声優志望の女の子)もダークな一面を見せるようになった。成長したもこっちは少しずつ、聖者の位置にスライドしていっているように見える。
イワンは発狂という答えになってしまったが、わたモテのもこっちはどのような解答を持つだろうか。一つ言えるのは、もこっち的な、自意識のドラマにとって、その対極である今江先輩は必須という事だ。今江先輩は実際にはいないだろう、理想的な存在であるが、それ故に正に必要となる。この「他者」はフィクション故に可能な、哲学で言う独我論を打ち破るキャラクターに見える。ここで、二人の対極差が一つの場面に融合される事で、独我論は打ち破られる。それは論理ではなく、フィクションという嘘で破られる。
これは、「聖者」と「聖者」の関係からはほど遠い、悩み葛藤する個人がいるから生まれる劇である。聖者だけの世界、あるいは、もこっち的なキャラクターがただ自分の内面を覗き込むだけの世界では、こうしたドラマは起こらない。このドラマは異質なものに歩み出た人間だけが出会うものだ。もこっちは少なくとも、他者を求めた。それで、聖者である今江先輩はもこっちを受け止めてくれる役割を買って出た。いつかはもこっちが他人を受け止める側になるかもしれない。もしそうなったとしたら、それはかつて、もこっちが他者に受け止められた経験があったからなのだろう。イワンにとって、アリョーシャの言葉が他者の言葉として、奥深くに響いたように、今江先輩の抱擁はもこっちの深い部分に届いた。しかし、これはもこっちがあの地獄の学生生活をくぐらなければ決して出会うものではなかったはずだ。




