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わたモテの八巻の最初で、もこっちの自意識がオチとなるパターンが有る。もこっちはクラスメートのオタク男子達を見て、仲良くなったら、オタサーの姫になれるかもと思う。そこで、オタク達がはまっているゲームと同じゲームを買う。学校にゲームを持っていき、勇気を持ってオタク達に話しかけようとするが、できない。もこっちは一人で教室を出て、ゲームをする。ゲームは乙女ゲームで、もこっちは
「あぶねー(ゲームの世界の中でなら)いつでも姫になれるのに…」
とつぶやく。もちろん、もこっちは本当は、オタク仲間に話しかけたかったし、チヤホヤされたかったのだが、怖気づいて方向転換したのだった。後はおなじみのパターンで、オタク連中を見下し、孤高を気取る事で精神安定を得る。
ここで、もこっちの心の呟き「あぶねー 目覚まして良かったー ゲームでいつでも姫になれんのに…」は、もこっちの本音ではない。だが、それでも彼女はそう言わざるを得ない。それによって、もこっちは、自分自身を正当化する事ができる。本音の〈寂しいから話しかけようと思ったけど話しかけられなかった〉は、自分に対するプライドがある為に、心の中ですら言う事ができない。
ここにおいて、もこっちの「声」は分裂している。彼女の自己意識は絶えずこのように、生活の中で分裂している。
これを収束させるのが「他者」であるが、その最も強力な他者として現れてくるのが、出番回数自体は少ないが、今江先輩であると思う。
というのは、後期わたモテに入ってから、確かに、ネモや田村、ヤンキー吉田、まこ、加藤さんなど、重要なキャラクターが増えたが、彼らは作品の主要人物である。青春群像劇に移行してからは、彼らの心の移り行きが描かれる。その際、今江先輩のような「聖人」は作品内部に積極的には入ってこない。彼女はあくまでも、作品の中心部の外側にいて、それでも、一番困った時に助けてくれるような存在である。
「聖人」というポジションでは、自分は、「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャをイメージした。アリョーシャもまた聖人であり、彼はイワンというキャラクターの内面をがっちりと掴む。つまり…
イワン〈もこっち〉 ← アリョーシャ〈今江先輩〉
という風に考えたい。イワンは、自分が(間接的に)人を殺したのではないかという葛藤に囚われており、ここでもまた声が分裂している。それに対してアリョーシャは「兄さんは殺していません!」と断言する。この断言は極めて重要で、今江先輩のもこっちへの抱擁に似ている。(アリョーシャがイワンにキスする場面もあった)
アリョーシャはイワンに対して「兄さんは殺していません!」と言う。この一言はあまりに決定的で、実を言えば、この一言によってイワンは「自分が殺したのだ」と(おそらく)確信する。それは、彼の心のあまりに痛い部分を突いたものだった。イワンはアリョーシャを拒絶して、もう会わないと言う。
それでもアリョーシャはそれを言わなければならなかった。それが痛いほどアリョーシャにはわかっていた。イワンは苦しんでいる。自分の一言で、更に苦しむのは見えている。それでも、その一言はどうしても「他者」の言葉でなければならない。イワンがどれほど、思考と推論を重ねてもそれが自分の声である以上、さらなる自己討論、懐疑に巻き込まれて、答えは答えでなくなる。だから、アリョーシャは最後の言葉「兄さんは殺していません!」を言わなければならなかった。仮に今、この言葉でイワンが苦しみ、アリョーシャを拒絶するとしても、その言葉は「他者の言葉」として、最後にイワンを救うであろう。(こういう解釈はバフチンに影響を受けている)
問題は、イワン・もこっち路線において、内面は絶えず、自己との対話に陥り、これは無限の螺旋運動をやめないという事だ。仮にここで、確定的な答えと思える事が出てきて、それを信じようとしても、それは次の瞬間にすぐに螺旋運動に巻き込まれて、答えでなくなり、また懐疑と自己釈明が始まる。もこっちは、いつまでも自分との会話をやめる事ができない。実は、この対話は、もこっちが望んでいる「リア充」になった所でやむ事がない。
これを収束させるのが「聖者」である「アリョーシャ」であり、「今江先輩」である。両者の特徴は、もこっち・イワンの内面を完全に知っているという事である。先に言ったように、これは現実にはありえない事であるが、フィクションであるから可能となる。
ここで、現れてくる聖人=他者の像は、我々に感銘を与える。何故だろう。




