旅立ちの足音と嘆きの慟哭は同じ晴天に消える
異世界にやって来て七日目。ついに悠久の館を後にする日がやって来た。
この日は思わず日向ぼっこをしたくなる程の気持ちのいい快晴で、俺は真っ青な空を見上げながら悠久の館の外に出た。後ろからはシェリルさんが付いてきており、朝早い時間にも関わらず見送りに出て来てくれた彼女と館の玄関先で最後の挨拶を交わす。
「ユート様。忘れ物はございませんか?」
「大丈夫ですよ。俺自身、ここに来た時に何かを持っていた訳じゃないですし、それに、荷物はもう全部『アイテムボックス』の中に入れてますから」
ちなみに、アイテムボックスとは空間魔法の一種だ。四次元的空間を生成し、その中に非生物、あるいは生物の死体を保存し、いつでも好きな時に出し入れする事が出来る。
俺は前日までに様々な道具や食料なんかをシェリルさんから貰っていたのだが、現在、それらは全てこのアイテムボックスの中に収納されている。尚、アイテムボックスの中は時間が流れておらず、この中に入れている時は食料などが腐る心配はない。
このアイテムボックスが無ければ、館の周りに広がる森がどれほどの規模か判断できない以上、森を抜けるまでの食料の心配をしなくてはいけない所だった。最悪、森の中で、食べられるかどうかも分からない木の実や雑草なんかをロシアンルーレットの如く、博打の様に口に運ばないといけなかったかもしれない。正しく、アイテムボックス様様である。
「シェリルさん、この七日間、色々とありがとうございました。この世界に来た時、もしあなたがいなかったら、今頃俺は死んでたかもしれません」
「いえ、これが私に課せられた任務でございます。そんなお礼を言われるような事ではありません」
謙遜するシェリルさんだが、俺は首を横に振った。
「それでも、ですよ。正直に言えば、この世界に来る前、俺は新しい未知の世界に少し恐怖心を抱いてました。けど、ここであなたから学んだことが俺に自信をくれた。おかげで今、俺はこうして紛いなりにも一人で旅立つことが出来る……だから、シェリルさんには感謝してもしきれません」
包み隠す事無く、感謝の言葉を真っ直ぐに彼女に伝える。
すると、シェリルさんは自らの意見を引っ込め、俺の感謝の言葉を受け取ってくれた。
「さようでございますか……でしたら仕方がありませんね。ユート様からの感謝の言葉は有難く受け取っておきましょう」
シェリルさんの表情に柔らかな微笑が灯り、それを見た俺の口角も自然に上に引き上げられる。
そうして辺りに柔らかい空気が流れ始めた時、シェリルさんが何かを思い出したというように手をポンと打った。
「そういえば、ずっとユート様に聞き忘れていたことがありました」
「……?」
「いえ、大した事では無いのですが……結局、ユート様はどのような職業に就こうと考えておられるのかと思いまして」
あぁ……自分の中ではある程度決めていたけど、そう言えばシェリルさんにはまだ話していなかったっけ。
「実は調合師になろうかなって思ってます。せっかくこの本も貰ったことですし」
そこで俺はアイテムボックスから一冊の本を取り出した。何らかの動物の皮が表紙となっている本――『天才調合師アルマのマル秘調合資』である。
「そうですか……であれば、その本もユート様の役に立つという事でございますね。アルマもきっと喜ぶでしょう」
俺の取り出した本を見て、シェリルさんは僅かながらも嬉しそうな表情を浮かべる。
「まぁ、この本の内容を理解しきるには、まだ俺自身の調合に対する知識が全然追いついてないので、本格的にこの本が必要になるのはもう少し先になりそうなんですけど」
「なるほど……ですが、その『もう少し先』というのもそう遠くない未来でしょう。少なくとも、私はそうであると信じております」
「なんかそんな言い方されるとプレッシャー感じますね」
「では、別の言い方に言いなおした方がよろしかったでしょうか?」
「いや。むしろそっちの方が俺には良い気がします。身が引き締まるっていうか……まぁ、ともかく、シェリルさんの期待に応えられるように精一杯頑張りますよ」
勉めて軽い口調でそう返しながら、俺は何となく辺りを見回した。
悠久の館。何度も戦闘訓練をした闘技場――
それは、ここ七日だけ見た光景。だが、その七日の内容が濃すぎたせいか、俺自身、ここに何年もいたかのような不思議な錯覚に囚われそうになる。
だけど、この光景ともこれでさよならだ。
何となく――本当に何となくだけど、もう行かなくちゃいけない気がする。
どこからか自分の事を呼ばれている――というか。
兎にも角にも、ここを出るべきだと、自分の中にある本能が叫んでいる気がした。
だから、
「この七日間、改めて本当にありがとうございました」
そう言って俺は頭を下げようとする――が、
「すいません、ユート様」
というシェリルさんの声がした。俺は動きを止めて、彼女の方へ視線を向ける。
「最後にもう一つだけ、質問をしてもよろしいでしょうか?」
質問?
「全然いいですけど……何ですか?」
問い返すと、シェリルさんは厳かな表情を浮かべながら口を開いた。
「もし――もしもの話でございます。もし、強大な敵を前にして、逃げる事も避ける事も出来ない状況で、自分と自分の大切な人達か、世界中の人達――どちらかしか救う事が出来なくなった時、ユート様はどちらを選びますか?」
「……ど、どうしたんですか、シェリルさん。いきなりそんな質問するなんて――」
「お答えください、ユート様」
俺の言葉を遮り、回答を強要して来るシェリルさん。彼女の表情はさっきと変わらず厳かなままだ。そして、何かを探るような、こちらの内側をのぞき込んでくるような、そんな視線を向けてきている。その勢いに押され、俺は考える。
強大な敵。逃げる事も、避けることも出来ない。救えるのはどちらか一方だけ。自分と周囲の人か、世界中の人達か――そんな選択、一概には決められない。決められるはずがない……けど。
けど多分、そうなった時、俺が咄嗟に選ぶのは――
「――俺なら……自分と自分の大切な人を選ぶと思います」
「そう……でございますか……」
俺が答えたその瞬間、僅かにシェリルさんの表情が曇った……そんな気がした。
「――申し訳ございません、つまらぬことをお聞きしました」
「いや、さっきも言った通り全然いいんですけど……何でいきなりこんな質問を?」
「個人的な興味でこざいます」
「はぁ……それならいいんですけど」
どこか腑に落ちない物を感じながら、まぁそれでもいいかと思い直す。そして、俺はモヤモヤした気分を書き換えるように両手を頭上に突きあげ、大きな伸びをした。
頭上にある太陽の位置が、さっき見た時よりも少し頂点に近くなっている気がする。
「――時間、ですかね」
「はい。ですが、ユート様が居られなくなると……ここも少々寂しくなります」
「そんなに寂しいなら、俺と一緒に来るってのはどうですか?」
冗談半分に提案すると、シェリルさんは少し困ったような表情で首を横に振った。
「それはとても魅力的な提案でございますが、私は主よりここの管理を任されております。故にこの悠久の館を離れる事は出来ません」
「あはは……まぁ、そうですよね」
「はい。ですから、私はこの場よりユート様のご武運をお祈りいたしております」
そう言って、シェリルさんが優雅に一礼する。
彼女の艶やかとも言える所作に思わず見とれそうになるが、……いやいやいや。見とれてる場合じゃないぞ、と頭を振って煩悩を自分の中から叩きだした。
「――じゃあ、俺、行きます」
「はい。行ってらっしゃいませ。ユート様」
再び綺麗な一礼をするシェリルさんが顔を上げたのを見て、俺は踵を返す。
ただ森に向かって歩き続け、最後の最後、森の中に入る一歩手前で立ち止まり、後ろを振り返って右手を軽く上げた。
そして、シェリルさんが手を振り返してくれるのを視界に収めた後、俺は薄暗い森の中へと一歩踏み出す。
もう一度、後ろを振り返りたくなる気持ちをグッと堪え、森の中を進む。
森の中は静かで、吹いた風によって木の枝が揺れる音だけが耳に入ってくる。
そうして二十歩ほど歩いた所で、俺は自分の体が何か薄い『膜』のような物を通り抜ける――そんな不思議な感覚を覚えた。
咄嗟に後ろを振り返る。
悠久の館は森の木々よりも圧倒的に大きい。だから、人の足で二十歩ぐらいのの距離ならば、多少木々に邪魔されていたとしても、どうにかその隙間から館の屋根の一部ぐらいは見えるはずである。
――だが、俺の視界にはもうその巨大な館の屋根さえ映っていなかった。
あの見上げる程に大きかった悠久の館が、その場から忽然と姿を消した。普通なら、色々と混乱する出来事なのかもしれない。
けど、これは事前にシェリルさんから伝えられていた事だ。
(これが……結界の力ってやつか)
そう。これは結界の影響によるもの。
そもそも、悠久の館を内包するように展開されている結界には、
1、外部にいる全ての者達に対し、内部にある館を知覚させないようにする。
2、故意の有り無し関係なく、結界へと近づいて来る者達の中でも、内部への侵入を許可されていない者達の深層心理や五感に作用し、その進路を結界のある場所から徐々に逸らしていく。
――という二つの効果が付与されていて、これらが噛み合わせる事により、初めての戦闘訓練の直前に説明された、『シェリルさんの主が許可を出した者以外の輩を内部に入れないようにする』という、防犯にバリバリ役立ちそうな効果を成立させている。
つまるところ、俺の視界から悠久の館が消えたのは、二つの内の最初の効果によるものであり、実際に悠久の館がその場所から喪失したわけではない。恐らく、一歩戻って結界の中に入れば、またあのバカでかい館の屋根が見えることだろう。
しかし、今、そんな事をする必要はない。
俺が取るべき行動は、只々前進あるのみだ。後退はしない。
俺は館があるであろう方向から視線を外し、延々と続いているような深い森へと目を向けた。
「……よし、行くか」
一言呟き、歩き出す。
結界の外に出た以上、もう、いつ外敵に襲われてもおかしく無い状況だ。
シェリルさんは「結界の外に出たとしても、『侵入者の進路を結界から逸らしていく』という効果はもう少し広い範囲に亘って作用している為、しばらくは安全でしょう」と言っていたが、油断はできない。
……油断、油断だけはだめだ。それはこの七日で嫌というほど思い知らされた。
一歩一歩、慎重に踏みしめる。
森の中の歩き方はある程度シェリルさんから叩き込まれている。それを思い出し、俺は薄暗い森の中を一人で進んでいく。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「あぁ、何故――」
少年――裕翔が去っていった館の前。
裕翔の背中を見送ったシェリルは、悲痛な声色で嘆いていた。
「――何故、あなたはユート様を選んだのですか……主……」
シェリルはここを去っていった少年を思い出して嘆き、
そして、己の主の選択を嘆いていた。
「確かに……確かに。ユート様の能力は素晴らしいものがあります」
そう。彼の力、才能は本当に素晴らしかった。
主の言う通り、あの転生者の少年は才能の塊であった。
彼の可能性は、この世界を救う『英雄』に至るに相応しいだけの物を備えていた。
だが、シェリルは分かってしまっていた。
少年と触れ合ったこの七日間で、シェリルは気づいてしまったのである――
「――ですが、彼は『英雄』の『器』ではない……!」
少年の心に巣食う、限界を。
少年の心に横たわる、英雄らしからぬ心情を。
「ああ、主よ。あなたは愚かだ……非情だ」
『人』が誰もいなくなった、巨大な館。
慟哭にも似た、従順なる魔導人形の声が辺りに響き渡る。
「――何故、あなたはユート様を選んだのですか……?」
青天の空を見上げながら。
彼女は、己の主へ、決して届くことのない問いを投げかけた。




