8話:土地神桜花は夜が苦手
廻愛は古き良き情緒を残した民宿である。
そんな民宿廻愛のオーナー牛庭由縁の方針は「民宿とは旅行客に家を貸すホームステイのようなもの」だ。
従って、部屋は子供部屋のようなサイズだし、夕飯だってスーパーの特売で毎日変わる。布団は自分で片付けるのがルールだし、アメニティの類もあまりない。
当然、旅館のような大きな温泉がある訳ではい。男女は別になってるとはいえ、3人も入ればいっぱいになる浴槽とシャワーが4人分あるだけだ。
しかし、あいにくにも今夜の宿泊客は利業の他に見当たらない。深い浴槽は一人で使うには十分過ぎる広さだった。
「やっぱり、大きなお風呂ってのはいいもんだ。気分的には温泉に入ってるのと一緒だ」
利業は今しがた満喫した風呂を思い返して、隣にいる神様に向かって語りかける。
気配りの出来るオーナー、牛庭由縁は利業の分の着替えも近くのコンビニで用意してきてくれていた。雨で濡れたままの格好で寝る訳にも行かなかったので非常に助かった。
「このまま布団に入ったら一瞬で寝てしまいそうだ。あぁ、例えるなら死んでしまったように寝てしまいそうだ」
「あのぉ、お兄さん。怒ってます??」
「今日は色んな出来事があって疲れたから早く寝たいと思っただけだ」
「うぅ……。だったらいいですよ。私だってお兄さんが今日はお疲れって事くらい分かってるんです。お休みなさい、私はまた消えます」
このお喋りな神様は、あの賑やかな夕飯の後、風呂を満喫した利業の前に待ってましたとばかりに現れると、寝る前にどうしても話がしたいと言い始めた。
疲れが限界を越えようとしていた利業はそのまま無視して寝てしまおうかとも考えたが、目の前にいるのは見た目は年下の女の子であり、命の恩人であり、神様だ。
「冗談だ。寝る前に俺も桜花と話をしときたいと思っていた」
そして、利業にもこの神様に尋ねておかないといけないことがあった。
そんな訳で二人は屋外の駐車場にいた。
神様とお喋りするには談話室は目立つし、自分の部屋は眠っている四恩を起こしたくないという思いやりの結果だ。
思いやりの結果とはいえ、ざーざーと音を立てて振る雨は春の足音を綺麗さっぱり消す勢いで、風が吹くたびに腕に当たる水飛沫が冷たくて仕方がない。
「……本当ですか?」
「本当だ。今日はとことん付き合ってやるよ」
「やったー!」
スイッチ一つで切り替わる彼女の笑顔の温かさに降りしきる雨の冷たさを一瞬忘れかける。
しかし、笑顔で体の寒さが消えるわけもなく。これは、少しばかり長くなりそうだと、利業は隣に置かれた自動販売機で温かいコーヒーでも買うことにした。
都心ではあまり見ないメーカーの自動販売機には見たことのない銘柄の飲料水が並んでおり、思わず好奇心をそそられたが、結局は無難なコーヒーをチョイスしてしまう自分が少し悲しい。
「嬉しそうだな」
「いいじゃないですか。お喋りする相手もいなくて、今までちょっと寂しかったんですから」
「神様の友達とかいないのか?」
「というか私以外の神様を見た事ないです。隣町には隣町の神様がいるかもしれませんが、私は土地神だから他の町にはいけないですし」
あっけからんとした桜花の声は雨の強さにも動じることなく利業の元まで届く。思わず見つめた彼女の綺麗な横顔には、振り付ける雨粒どころか一滴の雫の跡すら見つけられなかった。利業は改めて桜花が人間ではないのだと理解した。
「そうか。……何か飲みたいものあるか?」
「じゃあ、この野菜ジュースみたいな奴がいいです!」
誤魔化すように尋ねた利業に桜花が指差した先には確かに見た事のない野菜ジュースのようなものだった。
『果肉入り・さくらんぼとゴーヤのポタージュ』と赤と緑の極彩色のフォントで書かれている。
「本気か……。とても人の飲み物とは思えない。いや、桜花は神様なんだろうが」
「美味しそうじゃないですか」
「お前、食べ物の神様に怒られるぞ」
日本には古来より八百万に神様が宿るという。こんな適当な土地神様がいるくらいなんだから、さくらんぼとゴーヤの神様、ポタージュの神様だっていなきゃおかしい。
「いいことを教えてやろう。いいか、ポタージュっていうのはフランス料理の中でも洗練されたスープに対して使われる言葉だ。こんな冒涜的な飲み物につけていいものではない。しかも、ゴーヤもさくらんぼも不味いだろ」
「ええー。それはお兄さんが男の子だからですよ。女の子はゴーヤもさくらんぼとか好きな子多いですよ」
そう一丁前に女の子代表を語る神様はこちらの制止もまたず自動販売機のスイッチを押した。
おそらく初めて押されたであろう商品のボタンに、自動販売機も動揺しているかのようだ。心なしか大きなガタガタ音を立ててスチール缶を吐き出す。
出てくる冒涜的な飲み物を取り出すと目をキラキラさせた神様が顔を寄せていた。
「私、お供え物をもらうの初めてです!!」
「お供え物になるのか、これ?」
「はい、お供え物ですよ!きっと」
利業が手渡した缶ジュースを桜花は嬉しそうに受け取ると。プシュっと気持ちのいい音をか立てた後、ぐびぐびと喉を鳴らして飲み始めた。
「ぷはぁ!数年ぶりの飲み物は体に染み渡りますね!」
「おいおい、数年ぶりって」
「基本的に飲み食いはしなくても平気ですしね。人のもの勝手に取って食べるわけにもいきませんし。神様も色々と不便なんです。だから、お兄さんにはきっと御利益がありますよ」
そう言うと缶の残りに口を付けて今度はちびちびと大事そうに飲み始める。まるで犬に餌付けしてるみたいだと思う傍ら、利業に一つの疑問が浮んだ。
「っ。ちょっ、ちょっと、お兄さん!何してるんですか」
「す、すまない。桜花、お前触れるんだな」
犬みたいだ。と何と無しに桜花の頭に置いた手には利業の予想に反してしっかりとした感触があった。
丁寧に梳き長された真っ直ぐの髪の毛は、男の利業からすれば一本一本が生きている別の生命のようで、いけないものを触っているようにな気分になる。
いや、実際に神様の頭を撫でるなんて不躾極まり無いのだが。
「別にお兄さんなら嫌じゃないからいいですけど。でも私も驚きました、お兄さんは私に触れるんですね」
その言葉に改めて彼女のあどけない顔を利業は見つめる。
足跡ひとつない新雪の絨毯のように真っ白な桜花の肌には傷跡や汚れは見当たらず、完璧や永遠という言葉を想起させる。
それは小まめな手入れにより咲き誇る庭園の花の美しさではなく、触れられることなく育った冬の山に咲く花の美しさだ。
「でも、姿を消したり現れたりできますし。今みたいに姿を現してる時は普通に飲み物も飲めますし。そんなに不思議じゃないかもしれません」
「こうしていると、普通の人間にしか見えないないな」
「そうかもしれません。でも、他の人は多分触れない気がします。試したことはないのですが。それから、もう少し頭撫でて下さい」
「それは、構わないが。いいのか?」
「いいんです。人に頭を触られるなんて、初めての経験のはずなのに、何故かとてもノスタルジックな気持ちになりました。もっと続けて下さい」
そう言って桜花はぐいぐいと利業に頭を押し付けてくる。まさしく懐いた犬のようで利業も悪い気はしない。ただ、この姿を四恩に見られたら何と言われるかを考えると生きた心地がしない。頭を撫でるのもほどほどに利業は本題に入る事にした。
「桜花、ちょっと真面目な話をしていいか?」
「はい、何でしょう?」
「さっき、お前が俺と四恩を助けてくれた時に言っていた『ある人を救ってあげて欲しい』というのは、いったいどういう意味だ?」
事故を起こした谷の底で、目の前の神様は確かに言ったのだ。利業達を助けたのは自分だと。そして、その代わりに『この町のある人を救ってあげてくれませんか』と。
「ええ、私もそのお話を今日の間にしたいと思ってお兄さんをお呼びしたんです」
利業の問いに桜花は缶ジュースを両手で大事そうにかかえながら答える。顔を少しだけ伏せたままなのは、まだ頭を撫でて欲しいという合図なのかもしれない。
「その言葉の意味です。この町のある人を救って欲しい、それだけです」
「ある人っていうのは?」
「分かりません」
「分からないのに、救いたいのか。ちょっと要領を得ないな」
「私が私になった時、記憶が曖昧で殆ど覚えていないんですけど。頭の中に声が響いたことだけはしっかり覚えているんです。『あなたはこの町のある人を救わなければいけません』って」
桜花は顔を上げて遠くを見る。ここに来るまで眠っていた利業は初めて気が付いたが、どうやらこの民宿は山の中腹辺りにあるらしい。見渡せは山の隙間から数えられる程の灯りが点々と見えた。
「その言葉は私の頭の中から今日まで消えたことがありません。きっと私はこの町で困ってる『ある人』を救わなければいけないんです。神様だから」
相可の町の人口は千人にも満たない。しかし、何の手がかりもなく「ただ救いたい」などというのは、まさに砂漠の中で金を見つけるような所業。その上、この神様は仮に光る黄金を見つけても、それが本物か判別する手段を知らない。
世の中に困ってるいる人間なんて山ほどいる。今の桜花の言葉を四恩が聞いたら、何と答えるだろうか。
「分かった」
「……え?」
「手伝ってやる。もうしばらくこの町に残って手伝ってやると言った」
「本当に手伝ってくれるんですか?アテなんて全くないんですよ?」
「そもそも、お前もあの谷の底で言っていただろう?俺はもう既に桜花に命を救われている。それを考えれば安いものだ」
救ってもらったのは利業の方だ。しかし、その言葉を聞いた桜花の瞳は濡れたようにキラキラと光を反射していた。雨の雫では濡れることのない神様が赤く目を腫らしているのは少しだけ面白い。
「ありがとう……、ございます」
「まぁ、もともと、そういう旅でもあったからな」
「え?そういう旅っていうのは?」
「何でもない、気にするな」
利業は肩の力を抜いて、改めてまだ口のつけていなかった缶コーヒーをつける。
初めての土地で、初めて飲んだ缶コーヒーはいつも飲む味と違う味がした。
「ありがとうございます!!いつまで、この町にいてくれますか!?い、一週間くらいはどうですか!?」
甘過ぎるコーヒーの味に利業は少しだけ顔をしかめる。これを飲みきるのには少し時間がかかりそうだ。
どうだろうなぁ、と曖昧に返した利業と桜花お喋りは結局1時間ほど続いたのたった。