4話:月ヶ瀬四恩は雨が大嫌い
時刻は黄昏時、月ヶ瀬利業と四恩はお互いの顔も分からなくなるような視界の悪い夕闇の中、山の急斜面を走っている。
片側は切り立った崖になっており、はるか下に川が流れているのが見える。
こんな時間、こんな天気ではなく晴れた昼間に見下ろせばさぞ素晴らしい絶景が広がっていることだろう。
某県南部、殃禍谷。読み方は「オウカダニ」。
殃禍とは天災、災害の事だ。
かつて、この近辺は平家の隠れ里と呼ばれる集落があったという。
平安末期。源平の合戦に破れた平家の一族は散り散りとなり僻地へと隠遁した。殃禍谷はその落人達が隠れ棲んでいた峡谷だと言われている。
この峡谷を越えた先にある相可と呼ばれる集落はかつて、この峡谷から集落へ流れる川に食器や食べ物が流れてきた事から、あの谷には妖怪や良くない者が住んでいると思うようになった。
以来、この谷は「相可谷」から「殃禍谷」と呼ばれるようになり人々は近寄らなくなったという。
「不吉な名前の場所だと思ったら、雨まで降ってきやがった。目的地まで後30分くらいだ。急ぐぞ四恩」
「はい、利業様」
月ヶ瀬利業は急いでいた。
ここ数日、野宿が続いている。四恩は嫌な顔一つせずに利業に付き添っているが、先ほどから少しだけ口数が少ない。
今朝、寝坊した四恩は何事もなかったように言ったが疲れは溜まっているはずだ。
何より利業自信も疲れが溜まっていた。大きな風呂に入って足を伸ばしてゆっくり今日は寝たいと利業は思った。
「四恩、今日は温泉だぞ!」
「それは楽しみです」
月ヶ瀬四恩は大きなお風呂が好きだ。
四恩がホームレス生活を送っていた頃。四恩にとっての風呂はスポーツセンターや学校の体育館のシャワー、多目的トイレ、時には公園の水道で体を流した事だってあった。
そんな四恩を利業が拾ってきた初めての日、久しぶりに広いお風呂に入った彼女は2時間ちかく満期したあげく、のぼせて浴槽でぶっ倒れたというエピソードまである。
「この辺りは鮎が美味いらしい。安い民宿に泊まる予定だったが、ちょっと贅沢してもいいかもしれないな」
先ほど利業が調べた情報ではこの山を越えると相可町という小さな町がある。人口も数える程しかいないであろう小さな町だが近くにスキー場がある関係で旅館や民宿が数件あった。温泉も何ヶ所かあるらしい。
「楽しみですね。……それから利業様、申し訳ありません。お手洗いに行きたいのですが……」
「ん、困ったな。この辺りにそんなものはないぞ」
利業達が走っている道は相賀まで続く唯一の道だ。30分くらい前に見た謎のお茶屋さんを最後に辺りから点々とあったお店の灯りも消えてしまった。
そこからは、ひたすら蛇行する山道が続くだけ。とてもトイレを借りれる店の一つもあるようには見えない。
「我慢出来そうにないか?」
利業がそう尋ねたのは、四恩がつい30分前にも同じ理由でトイレ休憩を求めたからだ。確かにポツポツ降り始めた雨とバイクの風は体の熱を奪って行く。しかし、少しだけおかしい。
その時、利業は"少しだけ"と思ってしまった。
「………申し訳ありません。道脇で構いませんので、少し下ろしていただけないでしょうか。はしたないですが、人気もありませんので、すぐ済ませてまいります」
「………分かった。少し待ってろ」
利業は少し先に荒れ果てた中古車屋の跡地を見つけた。ほんどが壊れた車が積み重なっているだけの更地だが、一応建物らしきものが残っていた。屋根もある。
一体こんな場所で車を買う人などいるのだろうか。いや、いなかったから潰れたのだろうが。この場所で働いていた人、その時代を想像すると少しだけ感傷的な気持ちになった。
利業はそのままバイクを止めると、四恩を降ろす。
「大丈夫か?」
「はい、ありがとうございます」
それだけ告げると四恩は小走りで建物の陰に消えて行く。その姿を見送ると利業はスマートフォンを取り出して付近に店がないかの確認を含めて、目的地までの距離を再確認しようとした。
「って、また圏外か」
ここに来るまで、山間の町からずっと一本道しか走っていない。道に迷ったわけではないはずだが、雨の中一人で立っていると心細さが増して来る。そんな利業の気持ちに呼応するように雨はどんどん強くなっていく。
「これは、本格的にまずいな。確かに朝、『雨でも降るんじゃないか』とは言ったが、本当に降るとは」
利業はバイクの積荷から自分と四恩の分のカッパを取り出す。カッパを着込みながら、利業は朝の自分の余計な一言を反省した。
そうこうしつつ、手持ち無沙汰に圏外のスマートフォンを見ると四恩と別れてから15分が経過していた。
さすがに、遅い。
過保護に干渉はしまいと、今朝方決めたばかりだが、さすがに心配になる。利業は普段より大きな声で四恩を呼ぶ。
「おい、四恩!聞こえるか!?大丈夫か??」
利業の声が響いてから、すぐに四恩は建物の陰から姿を現した。
普段の四恩なら一言「女性がお手洗いから戻るのが少しだけ遅いからといって、その用に大声を出すのはおやめになった方がいいかと。女性には色々あるのです」等と物申すところだ。
しかし、ふらふらと近づいて来る四恩の姿に、流石の利業も異常を確信した。
「おい!どうした!!」
肩を掴んだ瞬間に伝わる異変。四恩の体は利業が分かるほどに小刻みに震えていた。漏れる息が荒く、苦しそうなのが伝わって来る。
「も、申し訳ありません。一人になった途端に気が抜けてしまって。少しだけ座って休んでおりました……」
「おい、それはどういうことだ!?」
「………も、……申し訳ありません!」
思わず大きな声を出した利業。
そして、強くなる雨音に掻き消されそうな小さな声を四恩は必死に絞り出す。利業は四恩の声を聞き逃さないように彼女に近づく。
そのまま、雨で少しだけ張り付いた前髪をかき分け、四恩の額に手を当てた利業は、自分達が最悪の事態に陥ってるのを確信する
「熱あるな。それも俺が触ってすぐ分かるくらいだ」
「………申し訳ありませんっ!!申し訳ありません!!私は大丈夫です!!だからっ」
目から溢れる雫は雨のせいだけではなかった。体の震えは高熱と寒さのせいだけではなかった。
月ヶ瀬四恩は一人になることを恐れていた。"ありとあらゆる可能性が起きてしまった結果"一人になってしまうことを。
「説教はまた後だ」
四恩が一体どういう可能性に考え至り、恐れているのか利業は理解出来た。
だから、利業は"それだけはしない"と覚悟を決める。
「とりあえず、カッパを着るんだ。安心しろ電話は通じないから救急車どころかタクシーも呼べない状況だ。もう少し走れば旅館があるはずだそこまで飛ばす」
「ぐずっ。………利業様、ありがとうございます」
涙を流し、鼻をすすりながら辿々しくカッパを着る四恩はまるで子供のようだ。しかし、その涙は先程までの恐怖のものではなく、安堵と熱の辛さが混ざったものだった。
「辛いだろうが、しっかり掴まっといてくれ。体は預けてくれて構わないから、少しでも楽な姿勢をしろ」
「……………はい、利業様」
「絶対に俺を離すなよ」
「はい。絶対に離しません」
インカムから利業が聞いたその言葉はさっきよりもずっとずっと耳元近くから聞こえた気がした。四恩の声を確認すると、利業はバイクを走らせる。
「…………くっそ!もっと速く走れよっ」
利業は四恩に聞こえないような小さな声で悔しさを漏らす。
先ほどまでとは違い四恩は体全体をベッタリと利業に預けているため、彼女の体の震えと熱が伝わってくる。
思えば朝から四恩の様子は少しおかしかった。寝坊した彼女。目覚めた時のぼーっとした表情、赤い顔。
仮に朝に気がつけなかったとしても、こんなに震えるまで気がつかなかったのかと、利業は自分の至らなさを恥じる。
「…………………そっか、私は風をひいてしまっていたのですね。……よかったです」
「何がよかっただ。ちっとも良くないだろ」
「…………昨夜の私も今朝の私も、熱のせいだったんですね。私、もし……だったらどうしようかと……」
四恩の蚊の鳴くような声は利業の耳に届く前に雨とバイクの音に消えていく。
ただ、言葉は届かなくても音は想いを乗せる。
四恩は心から安心していた。そして、その事だけは利業には伝わる。
だから、その期待に応えるために利業は急がねばいけない。急げ、急げ。少しでも速く四恩を休ませてやらねばいけない、と。
「大丈夫だ。だからーー」
その瞬間。
利業の視界が真っ白に染まった。
急な出来事に何が起きたか、最初、利業は分からなかった。
照らされた目の前の視界に利業は一瞬遅れてブレーキを握る。急な制動に耐えるために反射的に腕を突っぱねるが、80km以上の速度の慣性力は利業の努力を虚しく、物理法則に従って同乗者を空へと放り投げる。
声は出なかった。
そんな利業の代わりを務めるが如く、ブレーキ音とバイクが何かにぶつかる音が雨音を切り裂いた。
同時に感じる浮遊感。そして、走馬灯のように駆け巡ったのは、場違いなほど冷静な今の状況についての理解だった。
利業は理解する。
あの光は対向車のライトだ。それに気が付かずにブレーキを踏んでしまった。
そして、今の酷い音はバイクが曲がり道のガードレールにぶつかった音。
落下の痛みがなかなか来ない。かなり吹き飛ばされた。確か正面には切り立った崖と、川があったはず。
死んだかもしれない、と。
他人事のようにそう思った。
ただ、一つの感触が利業の思考を現実へと引き戻す。
腰から伝わる微かな温もり。
利業は先ほどの会話を思い出す。
彼女の安心しきった声を。
「絶対に俺を離すなよ」
「はい。絶対に離しません」
身を投げ出されても四恩は利業を離していなかった。
もしも、このまま二人で死んでしまったら。月ヶ瀬四恩を殺したのは月ヶ瀬利業だ。
そんな利業に四恩はどう言うだろう?
きっと彼女は笑顔で「私は利業様のメイドですから」そう告げて許してくれるのだろう。
でもーーーー
馬鹿にするなよ、月ヶ瀬利業。
利業は自身を奮い立たせる。
勇気を出して開けた目に映ったのは、吸い込まれそうな真っ黒な空。
利業は乱暴に四恩を抱き寄せる。
せめて、彼女だけでも。
利業が最後に覚えているのは、そんな罪の意識と、ちっぽけな覚悟、そして絶対に傷つけまいと抱きしめた四恩の体の柔らかさだけたった。
そこで月ヶ瀬利業の記憶はブラックアウトする。
川が流れていた。
その流れはここにはいない誰かを威嚇するかのように轟々と勢いが止まることがない。普段は底が見えるような美しい渓流も、今は降りしきる雨で濁って勢いを増している。
ここが三途の川なら、さぞかし天国に行くのは難しい事だろう。
それもそのはず、ここは殃禍の谷の底。天国とは程遠い場所。
そんな地の底に場違いな少女の声が響き渡る。
「ほーらー、起きてくーだーさーい!!大きな怪我はないはずなんだから!おーきーてー」
「……………ん」
「ほら、しゃんとして下さいよー。お兄さん、寝起き悪いって言われません??」
「……痛っ」
思考がまとまらない利業が感じたのは全身の痛み。いったいどこを怪我したのか確認することすら面倒になる程に全身から感じる酷い痛みだった」
「……………ここは?」
「もう、覚えていないんですか?まぁ、分からなくはないですけどね。あんなとこから落ちてきたんですから。普通は即死ですよね。少しだけ頭パーになっても私は許します!」
あんな所と、少女が指差した先には十数メートルの切り立った崖と絶え間なく振り続ける雨。
「混乱するのも分かりますが、ひとまず、状況説明をするので聞いてくださいね!私は先程不思議な力でちょちょいっとあなた達の命を助けたこの町の土地神様です!」
早口でまくし立てる、目の前の少女が何を言っているのか、利業は半分も理解できなかった。
「しっかり感謝して下さいね。そのお礼と言っては何ですが…………」
土地神を名乗る少女は呆然とする利業に満開の笑顔で告げる。
その笑顔に激しさを増す雨が桜吹雪へと変わって行く。
「この町のある人を救ってあげてくれませんか」