3話:月ヶ瀬利業は早起きがちょっと苦手
「雨でも降るんじゃないだろうな」
午前7時。結局昨夜は結局中々寝付けず、いつもより少し遅い時間に目が覚めた月ヶ瀬利業は隣で寝息を立てる月ヶ瀬四恩を見て少しだけ驚きながら、そう漏らした。
利業は多くの若者がそうであるように朝起きるのが苦手だ。
両親が早くから家を出る月ヶ瀬家において、かつて大学生だった利業は実家暮らしにも関わらず惰眠を貪ることに毎日全力を尽くしていたくらいだ。
当時、そんな利業の姿を見兼ねた四恩がある日からモーニングコールをすると言い始めたのだが、これが非常によかった。
どのような仕組みを使っているのか分からないが、四恩には眠っている人間を起こすのがとても上手い。四恩が声をかけると不思議な事にスッと目が覚めるのだ。
25歳にもなってとても人には言えない秘密だが、以来、利業の朝は四恩が起こしにくると相場が決まっている。
「そんな四恩が寝過ごすなんて初めてだな」
疲れが溜まっているのだろうと、利業は思った。慣れないバイク旅、いくら四恩が野宿に慣れているとしても彼女だって一人の女の子だ。体力的に厳しかったのだろう。
利業は四恩を起こさないようにそっとテントの隙間から外に出る。レトルトカレーのゴミと鍋のセットは昨夜の時点である程度片付けているので出発までに準備する事はあまりない。
利業は駐車場脇にあるトイレで顔を洗うと荷物を手際よくバイクに括り付けた。あとはテントを片付けるだけだ。
もう少しだ四恩を寝かしてやりたい気持ちもあるが、そろそろ起こしてやらないといけない時間だった。
「さて、いざ起こす立場になると少し緊張するな」
利業は目の前の無防備に眠る女の子の姿に少し罪悪感を覚えると共に、四恩に普段からこのような姿を自分が晒しているのかと思うと居た堪れない気持ちになる。屋敷に戻ったら自分で起きる生活に戻そう。利業は心の中でそう思った。
「おい、四恩!朝だぞ。起きろー!」
普段、利業が四恩からされるように彼女の隣に膝をつきながら声をかけても四恩は目覚める気配がない。ちょっと強引だが肩を揺さぶってもう一度声をかける。
「………ふぁい。………なんでしょう」
「四恩、朝だぞ」
「…………………」
「お前が俺より遅くまで寝てるなんて珍しいな。疲れてたか?」
「…………かっこいい」
「は?」
「利業様、すごくかっこいいです………」
目をこすりながら言葉を絞り出す四恩の顔は寝起きのせいか少しだけ赤い。長い髪の毛は乱れて顔にかかっている。潤んだ瞳と少しだけはだけた服が色っぽい。
「私のご主人様は今日もすごくかっこいいです……」
「お、おいっ。どうした、急に頭がおかしくなったのか!?」
四恩はそのまま両手を利業の肩に回す。同年代の女性と比べてもずっとか細い四恩の肢体は荒れた大地に咲く小さな花を思わせる。荒野に咲く一輪の花が旅人の気を引こうとするように、四恩はそのまま利業の胸に倒れこむ。
「し、四恩っ!?」
「………………」
「…………四恩?」
「…………すぅ」
「って寝てるのか!?」
両腕を利業の肩に回したまま四恩は利業のお腹に顔を埋めてすやすやと眠ってしまった。
今のは寝ぼけていたのか。と利業はようやく理解する。
寝起きの四恩を見るのは初めてだが、そこには普段の隙のない、抜き身の刀のように一本筋の通った佇まいをした四恩の姿はなかった。
後から考えればこれ以上ないくらい面白い姿なのだが、今の利業は大きな音を立てていた心拍を抑えるので精一杯だった。
「四恩、起きろー」
「…………うぅ」
緊張と安心から片言で呼びかけた利業の声に、四恩は反応するも目が覚める気配がない。
そもそも普段は毎日四恩が利業を起こしに来るのだ。この惨状を見る限り、普段の四恩がどうやって一人で起きているのだろうかと本気で心配になる。思わずここに寝ている器量の良い女は良く似た別人なのではないかという錯覚に陥るレベルだった。
「ほら!起きろ。外は明るいぞ」
「…………嫌です、抱っこして下さい」
「は?」
「………抱っこしてくれれば起きます」
「俺の気のせいじゃなければ、もう既にお前は俺に抱きついてるような気がするのだが」
「………いやですぅ。ぎゅってしてくれなきゃ………起きません……」
そう言いながら、膝をつく利業のお腹に顔をぐりぐりと擦り付ける可愛い生き物(26歳)が一匹テントの中にはいた。
利業はこのUMAを目の前に思考を巡らせる。寝ぼけた女性に悪戯をするのは鬼畜の所業だ。紳士としてそのような人間は断固許せない。決断に時間はかからなかった。
「分かった一回だけだぞ。ほら、顔上げろ」
慈悲深い笑顔。
そう、これは悪戯ではない。救いだ。四恩が「ぎゅっとして下さいご主人様ぁ」と言ってる以上、それに答えるのが主人としての役目だろう。決して、下心はない。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………すやぁ」
三度目はなかった。
無言のまま、利業は四恩の両肩を掴み少しだけ乱暴に左右に振り続ける。
「や、やめて下さいー、利業様ー」
四恩がかろうじ会話が出来るレベルまで口が利けるようになるには2分ほど彼女の体を振り回す必要があった。
「ようやく目が覚めたか」
「………はい。何時、でしょうか」
「7時半だ。こんな山道でも何台か車が通る時間だ」
「うぅ。………もう、そんな時間なんですね。申し訳ありません、利業さ…ま」
「お前が寝坊するなんて初めて見たが、体調が悪いとかじゃないだろうな」
「いえ、大丈夫です。顔を洗って準備をしてまいります……」
寝起きとは言え、四恩がこんな姿を見せるのは正直、意外だった。普段の美しい姿勢は見る影もなく、頭をうつらうつらさせながら、やっとの勢いでテントを出る。フラフラと歩いていく四恩の姿はあまりにも危なっかしい。何もない場所で思わず倒れそうになった彼女の肩を利業は思わず後ろから抱き寄せた。
「ひゃっ」
「おいおい……。本当に大丈夫か?体調が悪いなら正直に言うんだぞ」
「だ、大丈夫ですっ。少し眠いだけです」
「本当に大丈夫なんだろうな。四恩、お前が本格的に体調を崩したら大変な事になるお前も理解してるだろ。お前はーーーー」
「だ、大丈夫ですっ!心配してくれるのはありがたいですが。いくら利業様でも寝起きの乙女にあんまりベタベタするのはよろしくないかと!」
「………お、おう。すまなかった」
さっきまでべったりだったお前が言うのか。と突っ込まないデリカシーを利業は以前の反省から獲得していた。
四恩には珍しい荒げた声で利業を叱責すると、四恩は少し慌てたように利業の手を振りほどき小走りで洗面所に消えて行く。
そんな四恩の足取りは先程に比べてしっかりしている。どうやら本当に眠くて仕方がなかっただけらしい。
利業は初めて四恩と出会った時の彼女の悲惨な姿を知っている。だから、どうしても主人というか兄のような気持ちで四恩のことを心配してしまう。しかし、四恩も26歳だ。言うまでもなく立派な大人だ。大人過ぎる。
四恩が支度をして戻ってくるまでの間、今のはちょっと過保護だったと利業はテントを片付けながら反省した。
「ただいま戻りました。利業様」
身だしなみを整えて戻ってきた四恩はしっかりと皺を伸ばした服をきっちりと着ている。そのまま四恩は美しい姿勢で頭を下げた。彼女自身の生き方が伝わるような美しい姿勢だ。あまりの変わり身の早さに二重人格なんじゃないかと疑ってしまう。
「申し訳ありません。利業様は私を心配して下さっていたというのに先程は大変な失礼を致しました」
「いや、俺も過保護に干渉し過ぎた。すまない。だが、もし体調が悪いなら正直に言ってくれ。本当に大丈夫なんだろうな?」
「はい、大丈夫です。出発のご準備をお任せしてしまい申し訳ありません」
「気にするな。それでは行くぞ」
利業は四恩にインカムとヘルメットを渡す。インカムについては旅の途中で買ったものだ。ツーリング中は風の音が大きく二人乗りでも中々会話が届きにくい。
四恩は長い髪を丁寧にたくし上げるとインカムを装着しバイクに跨る利業の後ろへと座った。
「四恩!しっかり掴まったか?」
「はい、利業様。いつでも大丈夫です」
「じゃあ、出発するぞ」
予め暖めて置いたエンジンをスロットルを閉じたままのままセルモーターを押して回転させると、利業と四恩を乗せたバイクは大きな音を立ててゆっくりと走り出す。
もともと一人旅の予定だった事もあり、今回の旅で利業が乗っているバイクはダンデムを目的に作られたバイクではなかった。
排気量は多くないし、クラブバー場所も手狭、リアシートだって決して快適な大きさではない。
その上、四恩はバイクに乗ったことこがないときている。
利業としては安全に安全を重ねても足りないくらいだった。
「怖くないか、四恩?」
「ま、まだ、少しだけ慣れが必要な様です」
最初は利業に抱き着く事に抵抗があったのか恐る恐るといった様子で捕まっていた志恩も、今ではひっしりと利業の腰に手を回していた。利業が優しく運転しているのは十分伝わっていたが四恩だって怖いものは怖い。
「お恥ずかしい姿をお見せしてしまい申し訳ありません」
「別に気にしなくていい。お前の恥ずかしい姿は今朝に十分満喫した」
「今朝?」
「四恩、お前………。覚えてないのか」
「は、はい?私、もしかして洗面所に行く時の他にも失礼な事をしてしまったのでしょうか?確かに今日は眠気がなかなか取れず、うとうとしてしまいましたが……」
「………いや、覚えていないならいい。そんな事より。前も言ったが、四恩が起こしてくれるようになってから俺はすごく目覚めがいいんだ。何かコツでもあるのか」
利業はあの変貌ぶりが少しうとうとしていたで済ましてしまうのかと驚愕しつつも、次回、四恩が寝坊してしまった時に自分が起こしてやれるように起こし方のコツを聞いてみることにした。
「そんなに難しいことではありません。人間はレム睡眠とノンレム睡眠を繰り返しているのです。私は眠りが浅くなるレム睡眠の時にお声をかけさせていただくようにしております」
「なるほど、さすがうちのメイドは有能なだな。ところで、どうやってレム睡眠とノンレム睡眠を判断するんだ?
「レム睡眠のREMとはRapid Eye Movemenの頭文字です。浅い眠りの時は脳の動きに合わせて眼球が急速に動くのです。ですから、目蓋を少しだけ触らしていただければ分かります」
「………………」
「他には寝言を仰ったり、体がピクッと動いたりと、しっかり観察していれば簡単に分かります」
利業様は時には夢の内容を呟いてたりしていらっしゃるのですよ、などと話す四恩はどこか楽しそうだった。対照的に利業は嫌な予感に頭が痛くなる。醜態を晒さないように一人で起きよう、などという先の反省の念が霞んで行くのが分かった。
「……………ちょっと待て。四恩、もしかしてだが、今の話を聞くとお前は眠りが浅くなるまで俺の事を観察しているように聞こえたのだが」
「別に大した事ではありません。20分程ですので」
「怖いわっ!!」
驚いた。利業は驚いた。まさか、メイドが寝起きの20分前から自分の寝起きを観察していたことに。主人を守るメイドというか、主人を狙う暗殺者の方が近い。まさかの恐怖体験であった。
「そんなことしなくていい。寝過ごさないようにちょっと声を掛けてくれるだけでいいんだ」
「私は利業様のメイドですから」
「四恩。お前、それを言っていれば何でも許されると思ってないか」
「何のことでしょう。主人の快適な目覚めをサポートするのもメイドの役目です。利業様は寝起きがよろしくないのですから、私にお任せ下さい。主人に醜態を晒させる訳にはいきません」
「え、お前がそれを言うの!?」
利業は自分が朝に弱いという自覚は持っている。しかし、今朝の四恩ほどの醜態を晒す不安は砂かけらの一粒ほどもなかった。
「や、やっぱり、私。覚えていないだけで、大変な失礼を利業様に…………も、申し訳…ありません」
「いや、それはもう大丈夫だから。しかし、お前の寝起きも大概だったぞ。普段どうやって一人で起きてるか心配になった」
「大丈夫です。私はメイドです。早起きは得意です」
「随分分かりやすい嘘だな!?別に無理しなくていいぞ、俺も今度からは一人で起きるようにするから」
「それはダメです」
「なんで!?」
その後の利業の反論も虚しく朝のモーニングコールは四恩の仕事に落ち着いた。
それでも、主人としてあまり無様な姿を見せる訳にはいかないと奮起したため、四恩が起こしにくる前に目覚まし時計をセットする利業と、それを先読みして1時間早くに利業の部屋に忍び込む四恩の不毛な争いが数日にかけて行われたという。
しかし、それは、旅が終わり屋敷に戻った後、二人の関係が少しだけ今と変わった時のお話。
そんな未来の事はつゆ知らず。四恩を乗せた利業のバイクは山奥へ山奥へと走って行く。
真っ直ぐ道を走る二人は気付かない。後ろから灰色の雲が駆け抜けるバイクよりずっと速い速度で追いかけてきている事に。
まるで消えて行く冬の巨人が春の訪れに嫉妬して泣き叫ぶような激しい雨。
利業がその訪れに気が付いたのは、本来なら夕飯の足音が聞こえてくる時間帯。利業と四恩の二人は既に暗くなり始めた山奥の中にいた。