1話:月ヶ瀬利行はメイド服がわりと好き
空は灰色だった。一面を覆う分厚い雲と、頰を叩きつける冷たい風はまるでお伽話の北風のようで、この町から誰かを追い出そうとしているようだ。
男は思わず羽織ったジャケットを羽織り直す。目の前には一人で乗るには大き過ぎる大型のバイクに旅の荷物が几帳面に括り付けられていた。
「利行様、ご準備が出来ました」
寒そうにジャケット羽織る男、月ヶ瀬利行に話しかけた女は、長い髪が風で派手に乱れるのも気にせず丁寧にお辞儀をする。
女性にしては高い身長に、人前では表情の変化が少ない彼女は、その整った顔もあり、今も吹く北風の妖精の様な佇まいの印象を与える。
しかし、頭を上げた彼女、月ヶ瀬四恩は他人にはあまり見せない笑顔を浮かべていた。まるで春風のように。
よく見ると、いつもゴテゴテしたクラシカルなメイド服を着ている彼女は、今日は何を思ったか、白いニットに動きやすそうなジーパンにスニーカー、オシャレな薄桃色のコートの春色コーデだ。
「四恩よ……。やけに嬉しそうだが、どうしたんだ」
「何を仰っているのでしょうか、利行様。何せ今日は記念すべき利行様の旅立ちの日。主人の晴れ舞台を喜ばないメイドはおりません」
そう言ってニッコリと四恩が笑うのと同時に一段と強い風が吹く。喜んでくれるのはいいのだが、晴れ舞台と言うには随分な天候だ。こうも寒いと家を出る気力も削がれてしまう。旅人の心を動かしたければ、必要なのは北風ではなくて温かい太陽と相場が決まっている。
「そうか、見送りは別に必要なかったんだがな。ありがとう。ところで、その服はどうしたんだ?」
「へ、変でしょうか?」
「いや、とても似合っている。それ個人的な意見を言わせて貰えばそのコートの色はとても好みの色だ」
「そ、そうですか!?ありがとうございます」
そわそわとコートの裾を摘む四恩の姿が。あまりにもいじらしく、(年甲斐もなく)可愛かったので利行は服装に関して言及する気が削がれた。
一応、四恩の立場は利行のメイドということになっている。利行はその事に不満はなかった。元より四恩をメイドとして雇う事を決めたのは利行だ。だが、一方で利行は四恩に世間一般の女の子と同じ様に生きて欲しかった。それがどれだけ自分勝手な意見かも理解した上でだ。
だから、今まで頑なにメイド服を着続けていた四恩が、年相応のオシャレなお出かけ服を着ていきなり現れたことに、どれだけ違和感を覚えたとしても、これ以上言及することは止める事にした。利行にとっては喜ばしい事だ。
「そもそも、いつも四恩はメイド服ばかりだからな。もっと自由にしていいと昔から俺は言っていただろ」
「いえ、そうはいきません。私は月ヶ瀬のメイド。利行様のメイドですから」
「四恩がどんな格好をしたところで、メイドな事に変わりはないんだが。まぁ、それはそれで。俺はメイド服も好みだから問題無いのだがな」
「あぁ、私は利行様の中ではきっと性的な着せ替え人形なのですね、性的な。夜な夜などんな妄想をされているかと考えるだけでも、とても悲しいです。いいですか、利行様?利行様に将来、万が一、億が一の確率かもしれませんが、パートナーが出来たとしましょう。その時にその彼女様に決してメイド服を着せるように命令をして悲しませたりしないようにと、私はメイド心ながらに進言しておきます」
目を伏せてよよよ、泣き真似をする四恩。親しい中では、表情の変化が少ないどころか、こう言った冗談を言えるのが四恩の良いところであることを利行は知っている。
彼女が出来る確率が億が一だなんて、愉快冗談を言えるのも月ヶ瀬家のメイドの条件だ。
「いえ、冗談ではありませんが」
「急に真顔になるな、四恩よ」
「では、お伺いしますが。利行様は今年で25歳になられます。しかし、将来を誓い合ったパートナーはいらっしゃるのですか?ちなみに大学にご在籍中もその様な話を聞いた覚えが私はありません」
「…………………………」
「旦那様が心配していらっしゃいました。彼女さえいれば!と。利行様はビジネスの才能はあるのですから、パートナーさえ見つければ順風満帆な人生でしょうに。にも関わらず、順調な会社を部下に任せて、今回もいきなり一人で旅に出るなどと」
「親父の時とは時代が違うんだ。今の時代25で結婚する男なんて少ない。………逆に聞くが四恩よ。お前は俺より一つ上だから今年で26歳のはずだろう?心配するのは男の俺ではなく、むしろ女のお前の方だと俺は思うのだが」
「私は利行様のメイドですから」
四恩はこれが当然だと言わんばかりに平坦な声で流してしまう。これは四恩の悪いところだ。
四恩が「自分は利行のメイドだから、一生を尽くさねばならない」と自然に思い込んでいる節があることを利行は理解していた。
そう思ってしまっても仕方がないのだ。かつて利行は四恩を救った。その責任から逃げるつもりもない。拾った猫、という訳ではないが、彼女が望む限り最後まで彼女の面倒を見る覚悟は昔に済ませている。
とはいえ、利行としてはここで四恩が「利行様、乙女の年齢をダシにするなんて男として最低ですよ(ジト目)」などと言って過剰なリアクションの一つでも取ってくれれば、と少しだけ期待していた。
「まぁ、彼女についてはオイオイだ。ところで………、そのキャリーケースは何だ?」
「女性は色々と物入りですから。勿論、利行様が減らせと仰るなら減らします。しかし、私も年頃の女ですから服の一着くらいは持たせて頂ければと」
「話が噛み合ってないな。俺が服も着させない鬼畜みたいな言い方はよしてくれ。そう言う事ではない。そもそも!何で!キャリーケースなんて持ってるんだ!という話をしている」
「それは勿論、利行様がいきなりバイクで自分探しの旅に行きたいなどと我儘を仰るからです」
自分探しの旅、などと茶化していたが、四恩はどこまでも真っ直ぐな瞳で利行を見つめた。嬉しそうに笑っているが、彼女は真剣そのものだ。
つまり、この四恩は自分も旅に着いてくると言っているのだ。
利行は旅の前から頭が痛くなるのを感じた。
「四恩、お前は着いてこなくてもいい」
「私は利行様のメイドですから」
「いいか、四恩には話したと思うが、もう一度言うぞ!俺は俺の事を知っている人間と一旦距離を取りたいんだ!」
今回、利行が考えているのは、自分探しの旅である。
月ヶ瀬利行は投資家であり証券アナリストの父とアパレル美容系の社長の母を親に持つ、裕福で才能のある家に生まれた。
幼い頃から両親は忙しく、一人でいる事の多かった利行だが、両親からの愛情は感じていた。そんな利行は両親の英才教育の下で育てられ大学在籍中に会社を立ち上げた。彼の会社は父親の援助ありの、母親の会社を助けるための小さなものだったが、確実に利益を出し続けた。
だが、成功を重ねる度に周囲の人間の目は変わっていく。利行を見る目は、利行の才能を見る目に、利行の会社を見る目に、利行の両親を見る目へと変わっていった。
そこには好奇の目もあったが、総じて好意的であったと思う。しかし、それでも、そんな周囲と一旦距離を置いて自分を見つめ直したい、大学を卒業してそう思ったのだ。
そして、今、まさに出発しようとバイクに荷物を積み終えたところであった。
「それでも、私は利行様のメイドですから。主人の生活を守るのがメイドの仕事です」
「何を心配してるのか知らないが、数ヶ月で家には戻る。少しの間だ。そもそも自分探しの旅にメイドを連れていく奴がいるか」
通常、利行がこのように言った時、四恩は身を引く事が多い。しかし、今日の四恩は少しだけ違った。そうですか、とにっこり笑って聞き流すと、利行の隣に置いてある大型バイクの荷台の方へと目を向けた。
「ところで、そのバイクの後ろに縛り付けているのは野宿用のテントでしょうか」
四恩が言っているのはバイクの荷台に括り付けた紺色の布製バックの事だろう。そこには先日、屋敷の倉庫から見つけ出した一人用の小さなテントが畳んで収納されていた。子供用の習字セットくらいの大きさに畳んであるそれは、組み立てれば中々しっかりとした作りになっており、利行が一目で気に入った今回の旅の必需品である。
「そうだ。カードの類は置いていくからな。金の切れ目が旅の切れ目。道中は野宿だろうが何だろうがするつもりだ」
「利行様は野宿の経験なんてないでしょう?この寒い中、何も知らずに野宿なんてしたら文字通り死んでしまいます。その手の旅をご所望なら、野宿に詳しい私を是非お連れください」
「断る。子供じゃないんだから、無茶はしないさ。四恩に野宿なんてさせたくもないし。そもそも、雇い主の俺がいない間は四恩もメイドである必要はない。……そうだ!お前も息抜きをしたらいいじゃないか。何なら旅行でも行けばいい。それくらいのボーナスは俺が出そう」
「でしたら。休暇を頂けるなら私も利行様とご一緒させて頂きたく思います。私には供に旅行に行くような知り合いは他におりませんし」
今日の四恩は中々引き下がらない。とても珍しいことだった。別に不快ではなかったし、珍しいからこそ四恩の願いは叶えてやりたいとも思っている。そんな少しばかりの罪悪が湧いてきつつ、どうしたものかと利行が悩んでいると、四恩が目を伏せ、声を震わせながら言った。
「利行様は私の事が嫌いになってしまわれたのでしょうか……」
「い、いや!そんな事はない。四恩は毎日メイドとして完璧だ。ただ、今回は一人で旅をしたいというか……」
「仕方がありません。承知しました。私、利行様がお戻りになられるまでお屋敷でお掃除でもしながらお待ちしておきます」
「そ、そうか!任せたぞ。四恩がいれば屋敷も安心だ。俺の両親はめったに帰ってこないし、油断すると飯も掃除も洗濯も適当に済ますからな」
「はい。ですが、そのためには利行様のお部屋もお掃除しなくてはなりませんね。」
「……ん?ちょっと待て。今、何と言った?」
「普段はご自分でされているということですが、数ヶ月もお屋敷を離れられるとなると話は別です。お屋敷を常に綺麗にしておくのはメイドの大切な役目。利行様のお部屋も隅から隅までお掃除させて頂きますので、どうぞご安心して四恩を屋敷に残しておいて下さい」
「い、いや、ちょっと待ってくれ」
「はぁ、せっかく先日、奥様様からもお休みをいただいて、外出用の服まで買ってきたのに。残念です」
そう言うと四恩はおもむろにコートを脱ぎ出し、キャリーケースからメイド服を取り出した。女は物入り、とか言いながらメイド服なんて入れていたのかと呆れる余裕も今の利行にはなかった。
「わ、分かった。分かったから!一緒に来い!!むしろ来てくれ!」
「本当によろしいのですか。私なんて、利行様の旅に同伴してもお邪魔なだけなのでは」
「いや!是非一緒に来てくれ!一人で旅と言うのも味気ないと思っていたところだ」
「わぁ、ありがとうございます!私は利行様のメイドでとても幸せです!」
伏せた顔を上げた四恩には初めて出会った時からは想像できない笑顔があった。彼女のよく通る声は、まるで今回の旅の始まりを伝える汽笛のように屋敷に響き渡る。
何でこうなかったかな、と利行が空を見上げれば先程まで一面を覆っていた灰色の雲の隙間から、太陽の光が差し込んでいた。依然として風は強いが、この調子なら雲が全て吹き飛んでしまうのも時間の問題のように思えた。
差し込む太陽の光の温かさに少しだけ春の訪れを感じながら、利行は思う。
決して自分は四恩との交渉に破れたのではない。ただ、机の奥にしまっているメイドモノのアダルトなDVDだけは主人の威信をかけて、彼女に見つかる訳にはいかなかった、それだけなのだ。