19、ゆとり世代という言葉の罠と、生きる意味。①
ども、こんにちは。矢暮です。
今泊まっているホテルに当然のようにネット環境が整っていないものですから、今日は近くにあるネットカフェを訪れてこれを書いています。
それはそうと、昨日は国宝【松江城】に行って来ました。十月はこの地方では神在月ということでイベントも満載なようで大変賑わっておりました。
松江城の方はというとですね、自分自身、とても感動しながらまじまじと見入っていたわけでございます。
この木造の重厚な味わい、香り。木の床板の足ざわり具合。風薫る風通しの良さ。天守閣ならではの見通しの良さ。
あの眺めから町並みを一望すると、様々な人間模様の想像が浮かんできてしまい、【人間マニア】としての大衝動に駆られてしまう。
その上、松江城の三階に展示してある三時代別のジオラマなんか見せられてた日にゃ、ワクワクして一人その展示物に長々と張り付いてしまいたるアホみたいな事実。
僕がジオラマ展示に張り付いていると、他の観光客たちも次々と寄って来てはそれを見るのですが、あまりにも僕の張り付き加減が異様なもので、
「何このおじさん。こんな物に目をキラキラさせちゃって。ちょっと変!」
みたいな香りを残して去ってゆくのです。
でもさ。
その時代時代の生活環境や考え方ってかなり違うものだから、そういうのを想像しながら、町にある家々の一つ一つをジーっと見ていると、なんだか途轍もない何かが広がってゆくわけで。それが楽しく楽しくてしょうがないじゃないですか。
きっと僕が勝手にご尊敬申し上げる池波正太郎先生も、江戸の町並みの絵図や文献を見ていると、こんな気持ちが抑えられなかったのだろうな、と、これも勝手に憶測してしまうわけで。
★★★
そうそう。
僕が池波小説が好きなわけは、僕がいつも申している、
【循環理論】
を応用した物語であるからなんです。
池波先生の物語は、解り易い大衆小説的な流れで進行してゆきますが、その根底には【循環】と【人間学】が忍ばせてあります。
それゆえに、読む人の年齢を【三十代半ば以降】という風に選んでしまいます。
三十代半ば以降でない人が読んでも面白い小説であることは間違いないのですが、ある程度の社会的経験を踏まえると、
「こうも面白いものなのか……」
といった風に感じてしまうものなのです。
つづく
★★★




