表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/51

天高く獣が空を跳ぶ季節に、人斬りは自重を止めた

ご無沙汰して申し訳ありません。


いつもありがとうございます。


よろしくお願いします。


 

 豺は、風のように野を駆けた。

 雷蔵をして、「馬よりも速い生き物には初めて乗った!」と言わしめるほど、その足は速かった。

 本来なら、夜中に出立しても朝と昼の間ぐらいにしか到着しないだろうと思っていた森への移動が、朝日が姿を現す前に終わってしまうほどの速度であった。

 そう――まだ空が白む前、夜の最後の闇の中、ライ達はアールヴ大森林に到着した。


『シズカダナ……』


 巨木が壁の様に建ち並ぶ森の入口を前にして、豺が言った。


『ああ……』


 一見すると、静かな夜の森であった。

 だが、ライはその森に既視感を覚えていた。

 雷蔵として生きた前世で、幾度となく身を置いた場所に、今の森の雰囲気はよく似ていた。

 つまり――戦場がそこにあった。


(音は……聞こえない。ここから見える範囲には、戦の跡もない。森の奥で戦っているのか?)


 ライが、様々な可能性に思考を巡らせる。


(戦の気配が薄いような気がする……。もう戦いは終わったのか? ……とりあえず――)


「カイル・アーサーボルトの息子のライです! 森で何があったのか、話を聞かせてくれませんか?」


 ライは突然、樹の上を見たかと思うと、闇に向かって問いかけた。


「……」


 しばしの静寂の後、数人の弓を持ったエルフが樹から降りてきた。


「ライ君か? 何故ここに? それにこの亜獣は……」


 その中で、顔見知りのエルフの青年がライに応えた。

 巨大な豺にかなり警戒しているようであったが、亜獣が滅多に人と亜人を襲わないことを知っているエルフ達は、まずはこの突拍子もない事態の把握に努めようとした。


 だが、ライはそれを許さなかった。


「何があったのか教えてください」


 落ち着いた物言いだった。

 だが、ライの身体からは、有無を言わせない圧力が発せられている。


「あ、ああ。とりあえず、こっちに来てくれ。皆が避難している所に案内するよ」


 エルフの青年は、いつもと違うライに戸惑いながらも、森の奥へと進んでいった。


 その青年の後ろ姿を、豺の背の上から見下ろしながら――


(……まったく、年甲斐もなく)


 ライは心の中で苦笑していた。


 微かな戦の気配に当てられて、自身がひた隠しにしていた雷蔵としての自分が、表に出るのを抑えられなくなってきていたからだ。

 今のライは、両親の目がないこともあり、隠忍自重の気が緩んでいた。


 やがて、森の集落が見えてきた。

 いくつかある民家の窓から、ライは自分達を窺う気配を感じていた。


 ――バンッ!


 突然、近くの民家の扉が勢いよく開いた。


「ライ!」


 そこから飛び出してきたのは、ライが気にしていた幼馴染みの内の一人であった。


「アランドル!」


 ライは、豺から飛び降りるとアランドルに駆け寄った。


「ライ! ライ……!」


 自分に抱きついて嗚咽を漏らすアランドルを優しく撫でながら、ライはアランドルに怪我がないことを確認した。


(良かった……)


 この幼馴染みの少年が、もう一人の幼馴染みの少女のように怪我をしていなかったことに、ライは心底安堵していた。


(……俺にとってこいつらは、こんなにも大切な存在らしい)


 今、自分の心の中に芽生えている気持ちを受け、ライは彼ら幼馴染みの大切さを改めて感じていた。

 同時に、ライはもう一人の幼馴染みの姿を見つけようと、アランドルが飛び出してきた民家に目をやった。

 だが――


「ライ! お姉ちゃんを助けて!」


 アランドルの悲痛な叫びによって、それは打ち切られた。





 ライと豺は、森の中を駆けていた。


 アランドルのたどたどしい言葉で、ヴィクトリアの置かれている状況を察したライは、エルフの青年に、森で何が起こっているのか大まかな事情を尋ねた後、すぐさまエドワルドの家へと豺を走らせた。


 その道中で、ライはエルフの青年とアランドルからもたらされた情報を整理していた。

 王国による海からの突然の襲撃、それに伴うエルフと鬼の動き、ヴィクトリアの容体とその原因となった少女の襲撃――エルフの青年の説明は今の状況を解りやすくライに伝え、アランドルの言葉は今のヴィクトリアの苦しみをライに伝えた。


 だが、ライの心に強く残ったのは、ヴィクトリアではなく、二人の話に姿を現した少女についてだった。


(亜人斬りか……)


 その言葉だけで、それがどういう存在かライには解った。

 その言葉だけで、ヴィクトリアの身を案じていた気持ちが薄れてしまうほど、その存在に興味を引かれた。

 その言葉を聞いてから、気の昂ぶりがどんどん強くなり、今やそれはライの身の内から溢れ出していた。

 戦に限らず、何事においても平常を旨とする雷蔵にとって、今の自身の心の有り様は考えられないことだった。


(肉体の幼さ故か、それともこの身に流れる血がそうさせるのか……。どちらにしろ、こんな気持ちは久しぶりじゃわい)


 ライは豺の背に揺られながら獰猛に笑った。


 ライはこの時点では、アーサーボルト家と亜人斬りの因縁をまだ知らなかったが、それでも人斬りとして生きた業が、亜人斬りという存在について、確実に何かをライに知らせていた。


(儂と亜人斬り――どちらがより斬れるか楽しみじゃわい)


 ライは少しずつ、自分を抑えることを止め始めていた。



 豺が、背中のライの気配に冷や汗を流しはじめたところで、二匹の獣はエドワルドの家がある集落に着いた。

 その周囲には、まだ片付けきれていない敵の兵士の死体が何十体と転がっていて、雷蔵の心をさらに戦へと近付かせたが、先程エルフの青年から聞いた通り、ここでの戦は既に終わっているようだったので、ライはすぐさまエドワルドの家へと向かった。


 エドワルドの家は静かだった。

 家の周囲にかなりの数の石が転がっていることと、割れた窓以外に特におかしな所はなかった。


(ここでの争いも既に終わっているようじゃな)


 その場の空気を読み取り、ライはそう結論づけた。


 家の中から人の気配を感じたので、ライは中を覗いてみたが、そこには意識を失ってベッドに寝かされているアランドル達の母――ルシールの姿があるだけだった。


(ヴィクトリアの姿がない。ゴンザが護衛に就いていたと聞いたが、その姿もないとなると……)


 ライは鬼の里で何度も言葉を交わした鬼の侍のこと思い出していた。

 その鬼侍の在り方は、雷蔵がかつて戦った数多くの本物の侍とは、僅かにその趣を異とするものであったが、ライは彼の事が嫌いではなかった。

 情が深く、甘さも感じる鬼侍であったが、その腕前は間違いなく確かなものだったからだ。

 そのゴンザと、彼が護っていたヴィクトリアの姿がないとなると――


(どうやら不味い状況のようじゃな)


 ライは辺りの様子から、この場を襲撃した敵が少数――おそらくは一人か二人であると推測していた。

 その人数でゴンザに対し、今ここに両者の姿ないとなると、ゴンザが敗れたか、あるいはゴンザの隙を衝いて、ヴィクトリアを攫ったのだと、ライは推断した。


『豺! 急いで海に向かうぞ!』


 自分が認める腕前のゴンザに後れを取らせた敵に、更なる興味を引かれながら、ライ達は森の奥へと急いだ。





 空が白み始めた頃、ライ達は森を抜けようとしていた。

 森の終わりには、夥しい数の亜人と人の死体や、負傷者が重なり合い、濃密な戦の気配が充満していた。

 噎せ返るような血と汗の臭い、身体を動かすことが出来ない者達が上げる苦悶に満ちた声、命を散らした者達がもたらす圧倒的な静寂――かつて雷蔵が生きた戦場が、そこにあった。


「ふううううううううぅぅぅぅぅぅ……」


 ライが大きく息を吐いた。

 雄叫びを上げそうな自分の昂ぶりを抑えるためだった。


(……良かった)


 その様子から、ここでの戦も終わっていることを感じたライは、心底安堵した。


(いきなりこの場に飛び込んでしまっていたら、儂はたぶん自分が抑えられなかったじゃろう)


 ライとしての自分と、雷蔵としての自分――本来どちらも同じはずの自分が、狂いを見せ始めていた。


(これが若さなのかもしれんのう)


 雷蔵の歳を重ねることによって常に冷静でいられたはずの心が、ライの身体の若さに引っ張られ、平静を保てなくなってきていた。


(若いということは、ただそれだけで価値があるのう)


 かつて、自身の老いを感じた時にも思い知った事実を、雷蔵は今もまた身に染みて感じていた。


「うう……」


 近くに倒れていた鬼が微かに声を漏らした。

 ライがそちらに目をやると、その鬼もライを見ていた。

 鬼の身体には三本の槍が刺さっており、その命の火はもうすぐ消えようとしていた。


「……他の者は何処へ行った?」


 ライは一切の憐れみなく、鬼に問うた。


「……うう」


 問われた鬼は、最期の力を振り絞り、指で海の方角を示した。


「かたじけない。安らかに」


 ライはそれだけを告げると、豺を先へと走らせた。


「……」


 その鬼は息を引き取る間際に、何故か初めて本物の鬼を見たような気がした。





 森を抜け、三つほど丘を越えると、ライ達の前方に海が広がった。

 丁度折良く朝日が昇り、海に浮かぶ八隻の船と、それを呆然と見ているエルフと鬼の姿がはっきりとその視界に現れた。

 まだ、誰もライ達には気付いていない。


「……」


 今がどういう状況なのか見極めようと様子を探っていたライは、何かに引きつけられるように、八隻の中で一際大きな一隻の船に目をやった。


『……豺、あの一番大きな船が見えるか?』


 ライは船を指差しながら言った。


『アア』


 船団はライ達に右舷を見せたまま、今まさに西へ向かって速度をあげようとしているところだった。


『甲板の上まではっきり見えるか?』


 ライの視力では、この距離から甲板の上をはっきり見ることは出来なかった。

 しかし、ライはそこにぼんやりと見える人影に何かを感じていた。


『モチロンダ。サイノメヲナメルナ。……エルフノショウジョガミエルナ』


『豺、あの船まで跳べるか?』


 短く、ライはそれだけを尋ねた。


 それだけで、豺はライが何を考えているのか悟った。


『……マカセロ。アノキョリナラマダトドク』


『泳ぎは?』


『アソコカラリクニモドルグライデアレバ、ゾウサモナイ』


『よし。――行くぞ』


 そして二匹の獣は、凄まじい速度で丘を駆け下りていった。





 エルフと鬼の中で、最初に背後の異変に気付くことが出来たのは、エドワルドとゴンザだった。

 エドワルドが気付いたのは、連れ去られていく娘の視線が切っ掛けだった。

 ヴィクトリアの視線が、自分達の背後を見たかと思うと、何かに驚いたような顔をしたからだ。

 エルフの目の良さで、それに気付いたエドワルドは、つられるように後ろを振り返り、そこで一匹の巨大な獣の姿を目にした。


(豺? ジュウベエ殿か?)


 エルフの族長として、亜獣の事を知っているエドワルドは一瞬そう考えた。

 しかしその直後、エドワルドは豺の背に乗っている人物を見て、言葉をなくしてしまった。

 いるはずのない子供の姿が、そこに見えたからだ。



 ゴンザはエドワルドと違い、異変に気付いたのではなく、気付かされた。

 自身の背後から、自分に向かって鋭く突き刺さる圧倒的な剣気によって、強制的に振り返らざるおえなかったのだ。

 ゴンザをして、これ程の剣気はかつて味わったことがないものだった。

 忸怩たる思いで自分の不甲斐なさを悔やんでいたのに、その剣気を受けてからは死の恐怖だけがゴンザの心を支配した。

 それほど圧倒的な存在が背後にいた。


「――!」


 振り返ったゴンザの視線が捉えたのは、ライの姿だけだった。

 剣気によってライの姿しか見ることを許されていなかった。

 何故ライがここにいるのか――ゴンザにはそんな疑問を持つことさえ許されなかった。


 その、ゴンザだけに向けて放たれたライの剣気は、ゴンザにこう命令していた。



 “使わないなら、そいつを寄越せ!”



 ゴンザは本能的な恐怖から逃れるように、手にした刀をライに向かって投げつけた。

 その刀は一直線に飛んでいき、ライの左手へと収まった。


 侍として、刀を手放すなど、死ぬのと一緒だとゴンザは思っていた。

 事実、先の全面戦争でも、何度か死を感じた瞬間はあったが、一度としてゴンザは刀を手放さなかった。

 死の恐怖に打ち勝ち、刀と共にその危機を乗り越えてきた。


 しかし、今まで味わったことのない本物の死を前にして、ゴンザはそれに屈してしまった。

 刀を手放してしまった。


 ゴンザの生涯で、戦わずに敗北を認めたのは、この一度きりであった。



 ゴンザのこの突然の行動に驚いた周囲のエルフと鬼は、やっと背後の異変に気付くことが出来た。

 一度気付いてしまえば、波や風の音に混じっていた豺の足音もはっきりと聞こえるようになった。

 豺の巨体から発生する振動も、今でははっきりと彼らの身体に伝わっていた。



 そんな亜人達の目の前で、もはや自重を完全に止めたライは、ゴンザの刀を受け取ると、豺の腹を軽く蹴った。

 それに反応して、豺は進路を僅かに右斜めへとずらした。

 その前方には、西へと向かう八隻の船があった。


『このまま跳べるか?』


『アア。……ダガ、ヒトツモンダイガアル』


『何だ?』


『ワレハヒトヲコロセナイ。アノフネニ、チョクセツオリタツコトハデキナイゾ』


 豺は、自らの巨体が船にぶつかった衝撃で、人が死ぬことを恐れていた。

 それは亜獣の禁に反することであったからだ。


『安心しろ。豺はあの船の近くの海に降りればいい』


 ライ達の進路の先には、ヴィクトリアが乗せられている旗艦船があった。


『ワレガオコスナミデ、フネカラヒトガオチタリハシナイダロウカ?』


『安心しろと言っている』


 豺の背の上で、ライの気がさらに大きく膨れあがった。


『船から落ちる前に、俺が全て斬り捨てるさ』


『……』


 豺は、ゴクリと唾を飲み込んだ。



 いよいよ迫り来る豺に、その進行方向にいた亜人達は思わず後ずさった。

 エルフも鬼も、亜獣が人や亜人を滅多に襲わないことは知っていたが、さすがに豺ほどの巨体が自分達に向かって走ってくるとなれば、冷静ではいられなかった。

 少しずつ後ろに下がっていき、背後の崖に落ちそうになる者もいた。

 このままの勢いで、豺がさらに迫れば、それに押されるように海に落ちる者も出てくるような有様だった。

 もし海に落ちれば、激しい波に巻き込まれ、その者はすぐに死んでしまうだろう。


 それに気付いた豺は、僅かに速度を緩めようとしてしまった。

 亜獣にとって、亜人を殺すことも禁に反するからだ。

 だが――


『喝!』


 ライの口から迸った気合いの一声で、豺の迷いは断ち切られた。

 速度を緩めることをライが許さなかったのだ。

 それと同時に、ライの気合いに当てられた前方の鬼とエルフは腰を抜かした。

 腰が抜け、その場から動くことの出来なくなった亜人達は、迫り来る豺に目を閉じることしか出来なかった。


 ライを乗せた豺は、そんな彼らの頭上を軽々と跳び越えていった。





 ヴィクトリアは空を飛んで船に近付いてくる豺の姿を、ただ茫然と見ていることしか出来なかった。

 それ程までに、今目の前で起こっている出来事は非現実的な光景であった。

 巨大な豺の背に乗った幼馴染みが、自分の元へと駆けつけてきてくれるという光景が。


「跳んできやがった!」


 ヴィクトリアの近くにいた兵士の一人が声を上げた。

 突然陸地に現れた豺の姿に、既に多くの兵士が気付いていたが、その誰もが、まさか船に向かって跳んでくるとまでは思っていなかった。

 だからこそ、今の目の前の光景に多くの兵士が慌てた。


「どうなってやがる!」


「姫様にお知らせしろ!」


「大声上げてどうした!?」


「衝撃に備えろ! 吹き飛ばされるぞ!」


「何だありゃあ!」


「弓を持ってこい! 打ち落とせ!」


 兵士達の反応は様々だった。

 中には、騒ぎを聞きつけて甲板に飛び出してくる兵士もいた。



 そんな様子を空から見ていたライは、ゴンザの刀を手に、豺の背の上で立ち上がった。


『先に行くぞ』


『――ナンダト? ドウイウコト――』


 言葉の意味を確認スル前に、漆黒の体毛に覆われた自身の背の上を誰かが走る感触が、豺に伝わった。

 誰か――今、その背にはライが乗っている。

 いや、ライしか乗っていない。

 ということは――


『マ、マサカ――!』


 豺がライを止めようと言葉を発するより先に、ライは豺の額を最後の踏み台にして、空へと跳び出した。


『――』


 その事態に唖然とした豺の眼の前を、樹の上から打ち下ろすように放たれた矢のような速度で、ライは船に向かって跳んでいった。


 甲板に降りたライが、一瞬にしてその場にいた五人の兵士の頸動脈を切断し、近くにいたヴィクトリアを抱き抱え、刀を甲板に深く突き刺した直後、豺が海に着水した。

 そこから発生した波が、八隻の船、とりわけ一番近くにあった旗艦船を大きく揺らしたが、その衝撃で海に落ちたのは、ライに斬られた五つの死体だけであった。

 他の者は、ライが甲板に刺した刀に掴まって衝撃に備えたように、何かに縋って衝撃に耐えていた。


「……ライくん?」


 揺れる船の上で、ヴィクトリアは自分を強く抱きしめてくれている少年に声をかけた。

 間近で見るその顔は、ヴィクトリアが最後に会った時から比べて、別人のように大人に見えた。


「無事か?」


 そう問いかける落ち着いた表情も、よく知るライのものとは違って見えて、ヴィクトリアは自分の心臓の鼓動が早くなっていくことに気付いた。


「う、うん。ライくんはどうしてここへ?」


「ヴィクトリアを助けに来た」


「――!」


 ライの真摯な想いがこもった声に、ヴィクトリアはふぇぇと顔を赤くして俯いてしまった。

 本人は気付いていないが、昨夜亜人斬りと初めて目が合った瞬間から続いていた緊張から、ヴィクトリアはこの時やっと解放されたのだった。

 大きな揺れが落ち着くまでの間、ヴィクトリアはひしっとライに抱きついていた。



 大きな揺れが収まると、ライは刀を甲板から引き抜き、ヴィクトリアを連れて右舷の縁から海を覗いた。


『ライ! ブジダッタカ!』


 そこには、海面から心配そうに海を見上げていた豺の顔があった。


『ああ。それよりこの子を頼む。陸へと送り届けてやってくれ』


「へ? ――きゃああああああああああ!」


 今までの甘い雰囲気はどこへやら――ライはヴィクトリアを抱き上げたかと思うと、問答無用で海へと落とした。

 豺も慌てて首の辺りでヴィクトリアを受け止めた。


『オ、オイ! トツゼンスギルゾ!』


 豺は抗議の目でライを見た。

 だが、ライの瞳は豺ではなく、豺の首の体毛に必死に掴まって震えているヴィクトリアを見ていた。


「ヴィクトリア」


 ライの呼びかけを耳にして、震えていたヴィクトリアは顔を上げた。


「皆によろしく伝えておいてくれ。俺はしばらく修行の旅に出る。……あっ」


 ライは、これとまったく同じ言葉を前世で妻の千草に言ったことを思い出して思わず笑ってしまった。


『まったく……儂は本当に変わらんな』


 弱いままではいられないと思うのは、生まれ変わっても同じであったか、とライは笑った。


『豺、ここはもう良い。陸に帰れ』


『ナ、ナンダト? ライハドウスルノダ?』


『このまま船で世界でも見てこようと思ってな。……そういう使命を受けたんでな』


 ライは、豺を納得させるために嘘をついた。


『ム、ソウカ。イリスサマノシメイデアレバシカタアルマイ。タッシャデナ』


 イリスの使命と言われれば、豺も特に疑うことをせず、そのまま船を離れていった。

 この一連のやり取りを、事態の展開の早さについていけないヴィクトリアは黙って見ていることしか出来なかった。

 信じられないことではあったが、目の前でライとこの豺が言葉を交わしているようにヴィクトリアには見えた。

 音も意味も分からないが、ライと豺が発していたものは、確かに言葉のようなものだとヴィクトリアは感じていた。

 だが、そんなことよりも今重要なのは――


「え――? ライくん? 待って! まだライくんが!」


 ヴィクトリアは豺の首を何度か叩いたが、豺は一切の反応を見せなかった。

 亜獣の掟で、人や亜人との意思の疎通を禁止しているからだ。


「ライくん! ライくん! ラ――ゲホッ! ゲホッ! ゲホッ!」


 ライを振り返って声を上げていたヴィクトリアが、突然咳き込んだ。

 そして、その身体はあっという間に押し寄せた疲労感によって動かせなくなってしまった。

 昨夜から続く体調の不良を気持ちで抑え込んでいたヴィクトリアだったが、ライとの再会によって気が緩んでしまったことが切っ掛けで、このタイミングでぶり返してしまったのだ。


「ラ……イ……く……」


 ヴィクトリアはそのまま気を失った。

 最後に彼女が見たライの顔は、心配そうに自分を見つめているように思えた。

 ヴィクトリアは、それが何故かたまらなく嫌だった。


『……』


 豺は背中の少女が静かになったのを感じて、改めてライを振り返った。

 ライはもう豺を見ていなかった。

 こちらに背を向け、一人の少女と何やら言葉を交わしているようだった。


(……ソウイエバ、ウミノナカニナニカノケハイヲカンジタナ。ライノコトガシンパイデアマリサグレナカッタガ、アレハタシカ――)


 豺が海の中で感じた気配のことをライが知るのは、もう少し先のこととなる。





 意識を失って蹲るように倒れたヴィクトリアを遠目に確認したライは、ゆっくりと甲板を振り返った。

 そこには、一人の少女を中心に、何十人という兵士がライを取り囲んでいた。

 だが、それを見てもライは余裕の態度を崩さなかった。

 というより、ライは一人、泰然自若としていて、その場の空気を支配していた。


「はじめまして、ライ・アーサーボルトだ」


 その名前に兵士達が響めいた。

 奇しくもそれは、目の前の少女がエルフと鬼に名前を明かした時と同じ反応だった。


「さあ、殺し合おうか」


 人斬りは、自分の身の丈とほとんど変わらない刀を持ちながら、にやりと笑った。




ゴンザにあまり良いところがありませんが、単純な戦闘力だけなら彼は一応イリスでの最強の一角です。

いつか活躍する日が来るはず……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ