その人生に悔いはなく
よろしくお願いします。
血の臭いに噎せ返りそうな戦場の真ん中に男が立っていた。
全身に矢や槍、刀が刺さり、種子島で穿たれた穴もある。
その満身創痍の男を千を超す兵士が取り囲んでいた。
同じく囲うように、百を越す兵士がその男の周りで死んでいた。
この男に斬られて死んだのだ。
「化け物だ……」
兵士の誰かが、恐怖とともに言葉を零した。
兵士の誰もがその男にはもう近づけなかった。
遠くから見ていて、早く死んでくれと願うことだけしかできなかった。
男の名は石動雷蔵と言った。
かの人斬りの命はもうすぐ終わる。
(良き人生だった……)
死の間際に自分の人生を振り返った雷蔵の想いはその一言だった。
生まれてから十年は“悪童”と呼ばれ、元服してからは“獣”と呼ばれた。
数多の戦を戦っては“修羅”と呼ばれ、それがやがて“人斬り”という呼び名だけになった。
(刀とともに生きた……)
幼き頃に刀と出会い、これで生きていくと心に決めた。
同じ頃、明から渡ってきたある言葉を知った。
『汝如法に見解せんと欲得すれば、但だ人惑を受くること莫れ。裏に向かい外に向って、逢著すれば便ち殺せ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得、物と拘わらず、透脱自在なり』
唐の時代の禅僧で、臨済宗の開祖・臨済の言葉であった。
まだ幼かった雷蔵には、その言葉の正確な意味は判らなかったが、何故か心に残った。
近くにあった寺の住職に尋ね、意味を知ると、それが雷蔵の人生の指針となった。
刀という手段を手に入れ、解脱という目標を手に入れた。
以来、雷蔵は人を斬り続けた。
(最期に解脱にも至れた……)
二十を迎える少し前に刀の妙を得た。
三十になる頃には極致に至った。
四十になる頃には理に至った。
それからさらに人を斬り、ついに先程、死の間際に刀の境地に至った。
石動雷蔵――七十を迎える前の月であった。
(思い残すことはもう……ない)
やがて妻となった幼馴染みがいた。
共に戦場を駈けた友や弟子がいた。
命を削って死闘を繰り広げた強敵がいた。
酒を覚えた。
博打を覚えた。
女を覚えた。
我が子を抱いた。
孫を抱いた。
ひ孫まで抱いた。
(人斬りとして、刀とともに生きてはいたが、まっこと人間臭い人生であった……)
雷蔵が自分の人生を振り返ったとき、浮かぶのはただ笑みだけであった。
(我、逸脱自在なり――)
この瞬間、戦国最強の人斬りはこの世を去った。
なお、周りにいた兵士が雷蔵の死を確認したのは、これからさらに一昼夜経った時であった。
この後、雷蔵の魂魄は天に昇った。
(さて、次は仏か羅漢を斬るか)
そんな心持ちで天に昇ってくる雷蔵を、神は恐れた。
他の者たちも恐れた。
そんな、まるで新しい玩具を前にした子供のような心持ちでこちらに向かってくる雷蔵を、天界全体が恐れていた。
刀の、武の境地に至った雷蔵の腕前は、神にすら届く可能性があるからだ。
「た、直ちにあの人斬りを転生させろ!」
誰かが言った。
「し、しかし! あの者の魂は既に解脱しています! 本来なら神になるのが慣例です! そんな魂を無理矢理転生させても記憶が残りますよ! そ、それに数十年すればまたこちらにやってきますよ!」
誰かが答えた。
「え、ええい! だったら人以外のものに転生させれば良かろう!」
「だーかーらー! あんな強い魂が今更人以外の存在になれる訳がないでしょう! 貴方は馬鹿ですか!?」
「なっ!? 神である我になんという口を聞くのだ、貴様は!」
「もう数時間もしたら斬られてしまう貴方など、今更崇め奉っても仕方ないでしょう!?」
「な、何だとーー!?」
天界は大わらわだった。
とても下界の者には聞かせられないような罵詈雑言が飛び交う中、一人の女神が声を上げた。
「でしたら、私の世界で引き取りましょう。私の世界なら死んでもこちらの天界に来ることはありませんから」
「ほ、本当か!? い、良いのか? 引き受けてくれるのか? イリス神!」
この天界の神の必死の確認であった。
イリスと呼ばれた美しい女神は、その問いかけ「ええ」と美しい微笑みを返した。
こうして戦国、いや、この世界最強の人斬りは異世界へと転生することが決まった。